第56話 おやつの時間

 〝深淵の館〟には、午後三時ごろにおやつの時間が存在した。

 従業員たちが住み込みで働くこの館は、ミューリアを主人として十数の女性占者たちがいる。店の性質上、夕方から深夜にかけて客を取り、仕事が終わるのは明け方になってからだから、ほとんどの女性たちは昼頃に起き出してくるのだ。その集団生活の中で、重要になるのが食事の時間だった。

 黒層こくそうには太陽がない。だから人々はきちんと時間通りに動かないと、あっという間に生活リズムが乱れる。特に〝深淵の館〟が存在する地域は、みんな夕方から夜にかけて店を開いているところばかりだったから、特別時間を気にしないとすぐに昼夜がわからなくなるのだ。

 だから従業員たちは、起きたらまず朝食代わりにおやつを食べる。おやつと言っても、砂糖をふんだんに使った焼き菓子や、乳製品をたっぷり使った生菓子などを好きなだけ食べるわけではない。

 この黒層では貴重な植物類――特に果物を中心とした野菜類を食べることを「おやつ」と呼ぶのだ。

「ここでは生野菜なんて贅沢な嗜好品扱いなのよ。露天のアイスクリームより貴重なの」

「私はアイスよりサラダのほうが美味しくて好き」

 言いながら、みんながみんなサラダボウルを抱えてもりもりと野菜を食べている。緑層りょくそう出身のエデルにとってみれば、なかなかに面白い光景だった。

 その食卓でエデルも〝おやつ〟の相伴に預かっている。エデルがどこの層の出身であろうと、黒層にいる限り栄養不足は深刻な問題になるのだ。食べられるときに食べておけ、というのがナイジャーの教えだった。

 エデルに出される〝おやつ〟は野菜より果物が中心だった。初日におやつの時間に招かれたとき、貴重な果物に興奮して大事に食べていたら、どうやら「果物が好きな子」として認知されてしまったらしい。

 緑層でも果物は野菜と同じように普及しているが、エデルの生活環境では果物はやはり嗜好品だった。昔、養父に連れられて大きな街に出かけたときに何度か食べたことがあるくらいで、それも遠い過去のことになってしまった。甘くてみずみずしい果物というのは、特別な日に食べられる貴重なものだったのだ。

 それが今では毎日口にしているのだから、人生何があるかわからない。もっとも、果物だけに関して言えば、ルーシャスたちと旅をするようになってからほぼ毎食のように食卓に上がっていたので、〝深淵の館〟で食べるものだけが特別というわけではないのだが。

 先に野菜を食べ終えたヘデラが手に魔鉱石まこうせきのクズを乗せ、エデルの首元にそうっと持っていく。すると、襟首からちょこんと顔を見せた白蛇が、十数ある目を――実際に本物の目玉はそのうちのふたつなのだが――じっとヘデラへと向けた。

 白蛇が白いふかふかの頭を少し覗かせただけで、周囲からははっと息を呑むような黄色い声が上がる。けれどもみんな気を遣って、実際に声は出さない。出したい気持ちを押さえてそっと口元を押さえたり、美しく化粧を施した顔をぎゅっと寄せてなにかに耐えるような表情をした。

 白蛇はじぃっとヘデラを見つめ、不満そうに「ふぎゅるる」と喉の奥を鳴らしたのち、ようやく首を伸ばして彼女の手のひらから魔鉱石を一粒、掠め取るようにくわえてエデルの首元へ隠れたのだった。

「あーん、やっぱりまだだめかぁー」

 ヘデラは残念そうに肩を落とし、茶髪の髪を指にくるくると巻き付けた。うまく行かないことがあるときに彼女がよくやるクセだ。

 エデルは苦笑いした。

「すみません。でも、ヘデラさんから直接もらえるようになっただけでもだいぶ慣れてきたと思いますよ」

「そうよね、そうよね。最初はもうぜんぜん顔も見せてくれなくて……もはや気配すら感じられなかったわ」

「でしょ。そろそろいちいち引っ込んで食べるのも面倒になってるんじゃないかな。それでヤな顔するんですよ。警戒心を面倒だと思わせられるようになったんですから、もうちょっとだと思います」

「ほんと、頑固ねえ」

 言いながら、ヘデラはエデルのシャツの胸元をちょいとつつく。驚いてボコッと盛り上がった衣服がボコボコと暴れ、それから背中から肩の辺りに回ってようやく落ち着いた。

「あ、ああ、あ、そっち行かないで、爪、爪爪……」

「ぎゃう」

 抗議するように肩を噛まれた。甘噛みだが、たぶんミミズ腫れ程度にはなったな、と内心で諦める。

「ヘデラ、エディはまだ食べてる途中なんだから、ちょっかいかけるのやめなさいな」

 食べ終わって部屋に戻るらしい年かさの女にそう窘められて、ヘデラは肩をすくめる。

「はあい。邪魔してごめんなさいね。イチジク、残ってるけど好きじゃない?」

「大丈夫ですよ。イチジクも好きです。好きだから残しておいたっていうか……」

「うふふ。わかる。好きなものは最後に取っておくタイプね」

 食べちゃいなさいと言われて、エデルはイチジクの皮を剥きにかかる。

 黒層で食べられるイチジクは甘酸っぱくて濃厚な味わいが特徴だ。それなのにあとに引かない。毎日でも食べたいくらいだが、旬が今時期なのだと言われてしまうと、たぶん、あと一ヶ月もしたらこれも食べられなくなるのだろう。それはそれで次の旬の果物が食卓に上がるようになっているだろうから、それも楽しみだが。

 そこまで考えてから、いつまでここにいられるのだろうな、とそっと考える。

 ルーシャスがやってくるまでなんだろうと想像はつくが、その彼がやってくるにはエデル次第だと言われてしまった。

 エデルがなにをどう努力したらルーシャスとまた会えるのか、今のところはまだ皆目見当もつかない。この館でのんびりと滞在させてもらえるのはありがたいが、いい加減、ダラダラと過ごすわけには行かないのだろうなと焦りを感じ始めていた。

 エデルがイチジクを食べている間に、ヘデラは緑魔鉱石りょくまこうせき魔導具まどうぐの台座に置いて、真剣に石を眺めている。彼女はいつも、おやつの時間のあとには占いの練習をしているのだ。

「私はね、深淵の館の中では一番若手だから。まだたくさんお客様がいるわけでもないし、暇な時間は練習しないとね」

 とは、最初に出会ったときのヘデラの言である。

 ヘデラは従業員の中で一番若く、エデルともっとも年が近い。だから一番仲良くなれたのも彼女だった。いつもなにかと面倒を見てくれる彼女だから、エデルもなにかお礼がしたいと思った。それで、彼女の練習台になると申し出たのが、もう二週間近く前のことだった。

 以来、おやつの時間のあとには、こうしてふたりで占いをしている。

 エデルは一際大ぶりなイチジクを食べ終わると、果汁でベタベタになった手を拭おうと席を立とうとした。が、その手を名残惜しそうに舐める白蛇がいて、拭ってしまったら可哀想かな、となんとはなしに考える。

「おしぼり持ってきてあげるから、しばらく好きにさせてあげたら?」

 その様子を見て、ヘデラが堪らず笑みをこぼした。

「ありがとうございます。そうします」

 エデルも苦笑いで返すしかない。

 へデラとエデルしかいなくなった二階の従業員用食堂はすっかり静かになり、それで白蛇も気が緩んだのだろう。ヘデラの前であるというのに気にせずにょろりと全身を見せ、エデルの手のひらを必死に舐め取っていた。

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