第55話 恋心に気づいてほしい大作戦
「――その小さいときに仲の良かった男ってさ」
寝台の上で白蛇を転がし、やいやいとじゃれ合って遊んでいるエデルに、ナイジャーはふと声をかけた。
「うん?」
仰向けにひっくり返した白蛇をわしゃわしゃと撫で回し、にょろにょろと逃げ回る羽毛をふっかふかに毛羽立てては撫でつけてけらけらと笑っていたエデルは、ナイジャーがじっとこちらを見ていたことに気づいて手を止める。
「男?」
「小さいときに。仲良かった男がいたんだろ?」
「ああ、男の子? うん。――あたたたた」
白蛇は存分に構われてテンションが上がっているようで、全身をくねらせて翼をバタつかせている。ぎゃうぎゃうと喜んでいるのだか抗議の声を上げているのだかわからない鳴き声を発しながら、エデルの手に甘噛みした。
小さい幼獣だが、力はかなり強い。この十数日で、エデルの手は既に引っかき傷や噛み傷だらけだった。
一日中なにくれとなくエデルの気を引こうとまとわりつき、噛みついたりじゃれついたりしているのである。やっていることは仔犬や仔猫と変わらないが、力の加減を教えないと、早々に指の一本くらいは食いちぎられそうだった。
「いーたーい。遊ぶのは良いけどもっとやさしくしてよ。指ちぎれちゃうよ」
「ぎゅー」
「喜んでるなあ……」
さてはわかってないな、とエデルが苦笑いする。
それらを眺めながらナイジャーも眉を下げた。
「自分の手で遊ばせないほうが良いぜ。遊んで良いものだって勘違いしていつまでもまとわりつかれるぞ。いつか真面目に食いちぎられそうだ」
「ヘデラさんにいらない布とかもらったから、そういうので遊べるようにしてるんだけどね。道具にするとぜんぜん食いつかなくて」
この白蛇は〝深淵の館〟のアイドルのような扱いだから、みんながみんな工夫を凝らしたおもちゃをたくさんくれる。薄い布を編んで固くした紐や、丸めて縫い合わせたボール、きらきらとした紙など、おおむね猫が好きそうなものばかりだが。
「竜がなにで遊ぶかなんてわかんないよね」
「俺もさすがに竜のじゃらし方は知らねえなあ」
ナイジャーも笑うしかない。
竜の飼い馴らし方のセオリーは傭兵団に属していれば誰もが知るところだが、竜の幼獣のあやし方、はさすがに誰もわからないだろう。
竜系
「そもそもさ、野生下の竜系獣魔の幼獣なんて誰も見たこともないんだよな」
「そうなの?」
「竜系獣魔ってのは子が巣立つまで親がつきっきりで面倒を見るからさ。竜系獣魔の成獣ってだけかなり危険な存在だ。近づける人間が限られるだろ。それが子育て中の成獣になんて鉢合わせてみろ。まず生きて戻ってこられねぇぞ」
「……確かに。でも、傭兵の人たちは竜系獣魔を騎獣にするでしょ? どうやって捕まえるの?」
「巣立ったばかりの若いのを狙うのさ。親の庇護がなくなって、まだひとりで生きていくには幼い個体だな。具体的な捕らえ方はいろいろあるし、それぞれ傭兵団や派閥に伝わる門外不出の技術なんだが、狙う個体はみんな若い個体だ。逆を言えば、その時期の個体しか狙えないな。成熟しきった個体は、たとえ捕まえられてもまったく人に懐かないんだ」
「へえ。白蛇ちゃんはこんなに懐っこいのにね。おっきくなったら人のこと嫌いになっちゃうのかな」
「いやあ、竜系獣魔は賢いからな。今既にそれだけ懐いてるやつが、成獣になったからって懐かなくなることはねえだろ。野生下の個体でも一度会った人間のことは区別してよく覚えてるから」
エデルの大きな碧い目がくるりと瞬く。その目はしっかりと好奇心に輝いていて、ナイジャーは人知れず胸を撫でおろしていた。
出会って一ヶ月程度、エデルはかなりふっくらとしてきたように思う。
出会ったときの彼女は、痩せこけた白い顔にこの碧く大きな目だけが茫洋と覗き、お世辞にもかわいらしいとは言えない顔つきをしていた。
話しかければちゃんと返事はあるのに、表情があまり動かないことにも危機感を覚えたものだ。受け答えも、理解した、できていない、の返答はあるが、それに加えてさらに疑問を掘り下げようだとか、そもそも会話した内容について思考している素振りがなかった。好奇心を示さなかったのである。
そのくせ、不意に泣きそうな顔をする。なのに意地でも堪えようとする仕草も、よく見受けられた。
彼女の受けてきた仕打ちは、ただ話に伝え聞くだけでも耐え難いものだ。頼りの親代わりの養父が死に、おまえはその養父の後ろ盾を失ったのだと言わんばかりに村の人から忌避され、孤立させられた。それを見かねて手を差し伸べたように思えた村長も、結局、彼女の傷が癒えないうちに最悪の裏切りを仕出かしたのである。
とっくに心が折れていてもおかしくなかった。――否、実際には折れていたのだろう。心がこれ以上傷つくことがないよう、感情にできる限り蓋をして自衛したのだ。
人形のような女だな、と、ナイジャーはエデルに出会ったときに思った。
エデルは出会ったとき、生きている人間なのに、人形のような虚ろな目をしていた。
ナイジャーたちと過ごすようになってから、実はかなり彼女の生活に気を遣ってきたのだ。三食きっちり食べさせて、安心できる宿を用意し、十分な睡眠時間を確保した。そうして、少しでも興味を示すものがあれば足を止め、いらないと言っても買い与えた。
人形のようなエデルが特に興味を示したのは、衣服と、食べ物――特におやつの類と、
この白くてふかふかのかわいい小動物――実際には、獣魔の中でも最大で、美しくても気性の荒い凶悪な種族なのだが――に夢中なのも、実に女の子らしい。
青みがかった銀髪のくせ毛に、春の空のような碧い大きな目。小さな鼻と、丸い頬。
どうにもナイジャー自身が絶世の美男子などと持て囃されるものだから、人の美醜にはあまり注目しない
「……ルースが過保護になるのも、まあ仕方ないか」
ぼそりとつぶやくと、ふたたび白蛇と遊んでいたエデルがこちらを向く。
「なあに?」
「いや。――そういや話の途中だった。その小さいときに仲の良かった男ってさ、見た目とか覚えてないの? 髪の色とか目の色とか」
そう、聞きたいのは幼獣のことではなく。
ナイジャーは気を取り直して、今朝エデルが話して聞かせてくれた〝昔の男〟――語弊のある言い方だと突っ込まれかねないが――について切り込んだ。
エデルは小首をかしげて瞬いて、それから細い灰色の眉をぎゅっと寄せる。
「それがね、覚えてないんだよねえ……。せっかくそういう人がいたってことを思い出したから、他にもいろいろ思い出せると思ったんだけど」
「じゃあ、名前とかは?」
「うーん……」
難しい顔をして黙り込んでしまうエデルを見やり、たぶん、本当に覚えていないんだろうなと考える。
エデルの幼少期の記憶が覚束ないのは、きっと、小さい頭に詰め込むことが多すぎたせいだ。浮浪児だったエデルはその日を生き抜くのに必死で、本来だったら覚えていてもいいはずの記憶まで、不要になった瞬間に削ぎ落としてしまったのだろう。
幼少期にその日を生き抜くことが大変だったのはナイジャーも同じだから、大事な記憶でさえ覚えていないのはよくわかる。ナイジャー自身も、そこらの木の根をかじって生き抜いてきたからだ。――その記憶さえ、ミューリアにときどき蒸し返されるから記憶している気がするだけで、たぶん自身の思い出としては覚えていない。
「ルースと似てるんだろ、その男。もしかしたら小さいときのその男の子ってのがルースかもしれねぇじゃん」
「それはないんじゃないかな?」
「ええ?」
勘違いでも良いから、幼少期に懐いていた男の子とルーシャスがイコールで結ばれて、今のルーシャスに恋している「こ」の字くらいは気づいてくれないかなと深く切り込んだつもりが、一刀のもとに切り捨てられてしまった。思わず頬杖をついていた手が滑る。
そんなナイジャーには気づかず、エデルは「だってさ」と軽く笑っていた。
「その子、すごくひょろっと背が高かったんだもん。ルーシャスも背は高いけどさ、ナイジャーより分厚いでしょ」
確かに、ルーシャスの体躯は立派なものだ。ナイジャーより背は低いくせに――といっても、そのナイジャーが高身長すぎるだけで、ルーシャスだって人混みに紛れれば頭半分は飛び抜けるのだ――体だけは立派で、実は体重はほとんど同じなのだ。
とはいえ、もっと若かった十代のルーシャスはそうでもなくて、どちらかと言えば背丈ばかりが伸びてヒョロヒョロとアンバランスな体つきをしていた。
「……今は立派だけど、子どものときはヒョロかったりするだろ?」
「そうなの?」
だめだ。エデルの〝同世代の若い男〟に対する解像度が低すぎる。
そんなナイジャーの絶望には気づきもせず、エデルは続けた。
「それに、世話焼きなところは同じでも、雰囲気は全然違った気がするんだよね」
「ふうん?」
「なんていうかなー。他の子ともあんまり仲良くなかった覚えがある気がするんだよね。いつもちょっと機嫌悪そうっていうか、神経質っていうか……。でもルースはナイジャーみたいに人懐っこい感じじゃないけど穏やかでしょ。たまに真顔で冗談言うし」
――あ、それ、たぶん若いときのルースだな。
そうは思うのだが、エデルが覚えていない以上、彼女の記憶を操作するような発言も憚られて口をつぐむしかないのであった。
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