第3章

第51話 深淵の館


 エデルは今朝もナイジャーに手を引かれてやかたまで戻る。

 その店はこの周辺では一際門が大きく両開きになっていて、それだけで格の違いをはっきりと示していた。

 扉には複雑な模様が彫り込まれている。これが黒層こくそうによくある伝統的な模様だと教えられたのは、十数日前、この店――館に着いてからだった。

 朝もやの漂うそこに、ひとりの女性が佇んでいる。初めて出会ったときと同じように、エデルが戻ってくるのをわかっているかのように待ち構えているのだ。

 その女性の顔立ちがはっきりと見えるほどに近づくと、彼女はにこりと綺麗に微笑んだ。

「おかえりなさい。ヘデラが朝食を持たせたって言っていたけど、ちゃんと食べた?」

 まっすぐで艶やかな黒髪をした、線の細い女性だ。年の頃合いは、どう見ても二十をいくらも出ていない。だが、これまでの会話から、エデルは彼女がおそらくナイジャーよりずっと年上――たぶん、十以上は上――であると推測していた。

 彼女はほとんど黒に近い深紅のシンプルなスカートに身を包んでいる。だが、その胸元や裾に施された刺繍は実に精緻で細やかだ。彼女の細い腰を彩る腰帯サッシュも、黒地につやつやとした黒い糸で刺繍の施された、実に凝った意匠だった。それだけを見ても、さり気のない、しかし確かに高級なものを、当然のように身につける人なのだとわかる。

 つまり、彼女こそがこの大きな館の主なのだった。

「おはようございます、ミューリアさん。おいしく食べました。ヘデラさんにもお礼を言わなきゃ」

「あの子ならもう寝ちゃったから、起きてから言ってあげて」

 深紅の唇がにこりときれいに微笑む。エデルもつられて笑い、うなずいた。

「冷えたでしょう。お茶を入れましょうか。いらっしゃいな」


 ここは、深淵しんえんやかた〟と呼ばれる、ミューリア・ネペロの経営する店――占いの館である。黒層の中でも深部と呼ばれる、三百階以下にある街に存在していた。

 占い屋、あるいは占いの館と呼ばれる店は、エデルでもよく知っている。緑層りょくそうでも大きな街になると必ず存在するものだ。その名の通り、未来に起こる出来事や人の心の内、適性など、直接確かめることのできないものを視る。それらを視てくれる人、つまりミューリアやこの店の従業員を占者せんじゃと呼んだ。

 占いのやり方はさまざまだが、おおむね、魔導具まどうぐを用いて、客の魔粒子まりゅうしの形から占いたい物事を判断する。魔粒子を利用するところからも、占者たちは魔道士に分類されるのだ。

 魔道士とは、人に宿る魔粒子や魔力を用いて専門的な使い方をする人、その職業を指す。

 しかし、単に〝魔道士〟だけだとかなり幅広い分類になる。魔道士の中で、もっと細分化した職業に分かれていくのだ。

 一般的に知られているのは、主に魔法を用いて傭兵業で活躍する〝魔道士〟である。これは大分類と同じ〝魔道士〟と呼ばれることが多い。ナイジャーやルーシャスたちなど、魔法も使うが主に道具を用いて戦う人たちを、魔法戦士と呼んだりもするが。

 他にも、日常で使う魔導具を作る魔導具技士、それを発明する魔導具発明家などが、エデルでも思い浮かぶ〝魔道士〟の中の職業である。そしてそのうちのひとつに〝占者〟もあった。

 占者も、その中でさらに細分化していく。日々の天気を占い農業関係者に重要視される天気予報士や、客の魔粒子の適性を視る職業判定士、夫婦の相性を視て子どものできやすさを判断する婚姻適性鑑定士などもいるらしい。

 国によっては国専占者がいて、占いで政を行う国もあるのだという。力の使い方次第では未来視もできるというから、それもまた重要な仕事なのだろう。

 ミューリアはその中で〝占者〟とだけ名乗り、あまり専門性を意識しないで幅広く客を取っていた。

「――というのは表向きの表現で、実際にはいろーんな理由で悩んでる人みんなが対象客で、そういう人の悩みを占ってあげながら接客・・するのがこの店のやってること、なんだけど」

 と、ナイジャーが説明してくれたとき、ミューリアは小さな手で上品に口元を隠しながらコロコロと笑ったものだった。

「あら、まあ。ナイにしてはお上品なこと」

「……あのなあ」

「そんなに大事な子なの?」

「俺よりルースにとってな。勝手に何でもかんでも教えたらあとでドヤされそうでよ」

「あの子は執着心が強いものね。――昔から何か大事なものを抱えているとは思っていたけれど、そういうことだったのねえ」

「……あの?」

 エデルにはわからない会話に首をかしげると、ふたりの美男美女は大人っぽく上品に笑うだけだった。


 そんな遣り取りがあってから十数日、エデルは館の中にある一室を与えられ、ミューリアを始めとした従業員にちやほやとされながらのんびりと過ごしている。

 気持ちとしてはまったくのんびりしているつもりはない。なにせ、ずっとルーシャスを待っている。けれども彼が現れない以上、どうにもやることがないので、「のんびり」以外にないのだ。

 毎朝ルーシャスがやって来ないかと黒層の街道である大穴へ向かい、従業員の誰かしらに持たせてもらった朝食を食べる。そうして大した収穫はないまま、食べ終わる頃になるとナイジャーがやってくるので、ふたりで館に帰るのが日課となっていた。

 街に人が多く出歩き始める時間帯になると、エデルは外には出してもらえない。手配書でエデルの顔を見知った人にいつ見つかるか、どこからエデルの居場所が漏れるかわからないからだ。ミューリアにナイジャーより精緻な幻影魔法を施してもらっていても、慎重にならざるを得なかった。

 本当は、朝に大穴を覗きに行くのも良い顔はされていない。わかっていたが、ルーシャスが無事に来てくれるまでいても立ってもいられず、こうして朝だけは見に行くのを許してもらっていた。

 ――そういう毎日を、もう何度繰り返しただろう。

 ミューリアに促されて大きな両開きの扉をくぐる。館の内装は宿屋とよく似た――というより、ほとんど同じ造りになっていた。

 その一階の食堂レストランで、エデルはミューリアの手ずからお茶を入れてもらった。

「姉さん、俺にもー」

 ついてきたナイジャーも無邪気にリクエストをしたが、ミューリアは涼しげな目元を細めて静かに返した。

「あなたはユミ茶は嫌いでしょう。自分で好きなの入れなさいな。ちゃんとお代は払ってね」

「守銭奴……」

「何か言った?」

「いえ、なんでもないです」

 軽口を叩きながら、ナイジャーは勝手知ったるとばかりに厨房に入り、棚の上から茶葉を取り出す。

 ここ数日の似たようなふたりの会話を見る限り、どうにもこのふたりは付き合いが長いらしい。だが、エデルはまだその関係性をはっきりと聞いたことはなかった。いつそれについて聞いて良いのか、機会を図りあぐねている。

 今も、尋ねて良いのかと悩んでいると、不意にふたりの会話がエデルのほうへと向いた。

「エデルは緑層りょくそうの子でしょう? ユミ茶は知っていて?」

「いいえ。でも毎日もらってるから、おいしく飲んでます」

「そう。初めての子は馴染みがなくて嫌がる子も多いのだけど、エデルは大丈夫なのね」

「はい。甘くておいしいです。苦みはあるけど、独特な感じでわたしは好き」

「それは良かった」

 ユミ茶とは、黒層で親しまれている茶の一種だ。茶、と名はついているが、実際にはユミという名の木の根を削り、乾燥させたものを煮出して作るらしい。独特な苦みがあったが、その中に甘さも感じられる。エデルには好きな味だった。

「ユミ茶は黒層では一般的なお茶なのだけど、原料になるユミの木は生命力が強いからどこにでも生えてるのよ。産地が生産品として管理してたものがいつの間にか生息域が広がって、今では黒層全域で見られる雑草みたいな扱いにもなってるのよね」

「はあ」

 突然ユミ茶の由来について語り始めたミューリアに、エデルは身のない返事しかできない。

 彼女は構わず続けた。

「そういう、その辺に生えてるユミの木の根ばかりかじっていたから嫌いになっちゃったのよね、ナイは」

 エデルは瞬く。それからナイジャーを見やると、彼はばつが悪そうに眉をひそめた。

「いつの話だよ」

「ほんの二十年くらい前の話よ」

 コロコロと笑うミューリアに、エデルがついにそっと尋ねた。

「あの、ミューリアさんとナイジャーは、どういう?」

「赤の他人よ」

「赤の他人だな」

「…………」

 てっきり姉弟とか親子だとか、はたまた恋人同士とか、わかりやすい関係性で答えが返ってくるものだと思っていたので、思わず黙ってしまう。そんなエデルの困惑をわかっていたのだろう。ミューリアは声を上げて笑った。

「でも、そうね。わかりやすく言うなら姉弟きょうだいみたいなものよ。あなたたちと同じようなものじゃないかしら」

「わたしたち?」

 エデルにきょうだいはいない。それどころか、実の家族すらいないのだ。一体誰と、と首をかしげると、ミューリアは黒目がちの目を和ませて、当然のように言った。

「あなたとルーシャスよ」

「……? 別に、きょうだいではない、ですけど」

 もしかして、まだナイジャーが施してくれた幻影魔法が残っていただろうか。あれはルーシャスの妹に見せかけるために、やや彼の雰囲気に似せてナイジャーが作ってくれた魔法だった。

 慌ててぺたぺたと顔を触ってみるものの、幻影魔法はもう解かれて久しい。エデルの顔がルーシャスに似ているわけがなかった。

 首をかしげると、驚いたように瞬いたミューリアも小さく首をかしげる。

「あら……あら?」

「あのな、その辺ちょっとまだよくわかんない感じなの」

 ナイジャーがミューリアにそっと耳打ちする。

 ミューリアはまろい頬に手をあて、困ったように細い眉を下げた。

「あらまあ。いやだわ、私ったら。視たことと実際に見聞きしたことを混ぜて認識してしまうのはいけないことなのに」

 言って、ほとんど空になったエデルのカップにふたたびユミ茶を注いだ。

「ねえ、エディ。少しお話を聞いても良いかしら」

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