第50話 ルーシャスのいない日常
あんな事故のような落下の仕方だったから、てっきりナイジャーにも今後の計画はないものだと思っていた。
だから彼が迷いなく近い街に入って行ったとき、エデルは思わず尋ねたのである。
「これからどうするの?」
「まずは匿ってもらえるところを探さなきゃな。エディの居場所が割れちまったから、適当な幻影魔法で誤魔化してその辺の宿に泊まるのは危険だ」
「う、ごめんなさい」
「エディのせいじゃねえさ。あの中で無傷でちゃんと逃げ出せただけでも上出来だ」
ナイジャーが慰めるように言う。
たどり着いた街は、エデルたちが先程までいた職人の街とは違う。どちらかと言えば
だが街中は静まり返っている。ここは時間できっちりと住民の活動時間を定めている街のようだ。
今は深夜というより、ほとんど明け方に近い時間である。広い通りにも人はほとんどいなかった。
その街の中を、ナイジャーは迷いなくどんどん進んでいく。道は曲がりくねって、先程の職人の街とは違い碁盤の目状ではなく行き止まりもある。複雑な道順だったから、エデルはあっという間にこの街の入口を見失った。
後ろを何度も振り返り、エデルはたまらず隣のナイジャーに尋ねた。
「ルーシャスは? 先に進んで良いの? どこで会える?」
「ああ、そうだな……まあ、あの程度でどうにかなるやつじゃないから、そのうち会えるさ」
「どこかで落ち合う約束をしてたんじゃないの?」
ナイジャーはちょっと困った顔をする。
「さっきの街の宿屋で落ち合う約束はしてたが、それどこじゃなくなっただろ。だからまあ、このあと行く場所で待ってりゃ、そのうちあいつもたどり着くよ」
「……もしかしてわたしのせい?」
「え?」
「わたしのこと、バレちゃったから……」
だとしたら、とんでもない足の引っ張り方をしたことになる。
もともと、エデルは自分にできることを精一杯やろうと思って倉庫への潜入を申し出たのだ。だが、結果的にはエデルの存在が混乱を招いた。とんだ失態である。彼らの役に立つどころか、迷惑にしかなっていなかったのだ。そう思うと気分は暗澹としてきた。
「そんなわけないだろ」
うつむいたエデルに、きっぱりと否定の言葉が降ってくる。
顔を上げると、ナイジャーが眉を下げて笑っていた。
彼は足を止めてエデルの肩を正面から掴み、言い聞かせるように「おまえのせいじゃないよ」と言った。
「俺たちはあの組織の内部事情が知りたくて、エディがいてくれなきゃ結局あの組織にもたどり着けてなかった。だからエディが協力してくれて助かったよ。エディのことがバレて大騒ぎになったのは、おまえが追われてるからだろ。でもその問題だってエディのせいじゃない。おまえを騙して奴隷にしようなんて考えた連中のせいだ。そうだろ?」
「でも、そのせいでルーシャスがひとりになっちゃったし……」
「あいつはそれでどうにかできるから、ひとりでおとりになるほうを引き受けたのさ。ルースがあの場で考えたのはエディの安全を守ることだ。自分が犠牲になることじゃない。あいつは、そういう自己犠牲はしない」
「…………」
「そういうやつなんだ。むしろ多少危険な目に遭っても、誰かを犠牲にしてことが収まるなら躊躇なく人を危険にさらすやつだぜ、あいつは。合理主義も極まると傍迷惑なんだよな」
その、〝多少危険にさらしても良い〟人間の中に、ルーシャス自身もきちんと含まれているからこそ今回の選択になったのだ――とは、ナイジャーは賢明にも口にしない。
ルーシャスは自己犠牲を良しとする人間ではない。生きるか死ぬかの瀬戸際で他人を蹴落として地獄を生き抜いてきた彼は、そんなお綺麗な心は持ち合わせていない。それは長い付き合いであるナイジャーがよく知っている。――ただ、ことエデルに関しては、何を仕出かすかわからない、というのがナイジャーの本音だ。ルーシャスにとって、エデルは特別な存在であるようなので。
しかし、それをエデルに言っても何も始まらない。彼女はしきりとルーシャスの安否を気遣っているのだから、これ以上不確定要素を口にして不安にさせるのは酷だ。
ナイジャーは肩をすくめ、できる限り軽い調子を装った。
「そういうわけだから、俺たちは先に行こう。この先に知り合いがいるんだ。そこならエディのことを匿ってもらえるから」
ナイジャーはまだ不安そうな顔をするエデルの肩を叩き、手を引いて早朝の街を歩き出した。
足音さえ響きわたってしまいそうな中、たどり着いたのは、歓楽街の入口だった。
通りには門のようなものがある。明らかにここから別の街があります、とでも言いたげだ。
門の中は寝静まった街とは違って多少の人の行き来がある。だが深夜さえ越えた朝方とあって、眠らない街であるはずのそこも、さすがに喧騒というほどの人気はない。
門の中は、黒層特有の壁にくっついた扉が並ぶ街並みは同じだが、二階以上に見える窓はどこも足場を作ったバルコニーのようなものがあった。そこからちらほらとこちらに向けられる視線があって、エデルは不意に顔を上げる。すると、その視線を避けるようにさっと隠れる影があった。
「ま、勘違いして興味本位で見てるだけだから気にすんな」
ナイジャーが肩をすくめる。
「興味本位?」
エデルが尋ねると、彼はこれには苦笑するだけで答えない。
そんな会話をしながらたどり着いた先は、街のほとんど最奥にある、立派な扉の前だった。
ここまでどの店も大きな扉を有していたが、ここはそれらの比にならない。
黒層の建物の特徴である地層をくり抜いた造りであることに変わりはないが、ここは一区角すべてがひとつの店のようだった。
まず見上げるほどの大きな門があって、そこから建物の前まで石畳で造り込んだ小径が続く。門をくぐると左右にも敷地が広がっていて、日の差さない黒層では珍しい、色とりどりの草花が植えられていた。ここだけを見れば、まるで
それらの景色を横目にまっすぐに進んだ先に、大きな扉がある。
これもまた、他の店とは比べ物にならない、格式の高い店なのだとすぐにわかった。
まず大きい。それに、両開きだ。黒層の店の扉といえば、ふつう木の板、あるいは石を削り出して作られたものがほとんどだったが、ここは精緻な模様が彫られた石の扉に金属の装飾が施されていて、いかにも重厚そうだった。
ものを知らないエデルでも、きっと高級な店なのだろうとすぐにわかる。
しかしその扉より気を引かれたのは、そこに佇むきれいな女の人だった。
まるで人形のような整った顔立ちをした、美しい女性だった。
一瞬、本当に人形がそこに立っているのかと錯覚した。だから彼女がこちらを見つめ、にこりと微笑んだとき、エデルは思わずびくりと身をすくめてしまったのである。
「こんな朝早くからごめんな、姉さん」
ナイジャーは軽く挨拶をする。それで、彼女がナイジャーの言っていた〝知り合い〟なのだろうと察しがついた。
女性は何でもないようにひとつうなずいて見せた。
「構わないわ。だいぶ前からあなたたちのことは視えていたもの」
きれいに切りそろえられた前髪から覗く黒目がちな目がこちらを見つめ、そして妖艶に微笑んだ。
「さあ、いらっしゃい。お風呂とお食事にしましょう」
そうして、エデルたちを迎え入れてくれたのが、この〝深淵の館〟の主人、ミューリア・ネペロだった。
「ほんと、どこまで視えてんだこの姉さん……」
呆れたようにぼそっと呟いたナイジャーをエデルは振り仰ぐ。彼は励ますようにエデルの背を軽く叩いた。
「ここにいればそうそうおまえの居場所はバレやしない。だからゆっくりルースを待とうぜ」
ナイジャーの言葉に従い、エデルはミューリアの店に身を寄せながらルーシャスを待った。
一日二日はじっと館の中で耐えていたが、三日目には待ちきれず、自ら街の外れである大穴まで様子を見に行くようになった。もちろん、エデルがそのまま外に出たのでは顔貌から手配書の人物であることが知れ渡る可能性があったので、ミューリアに幻影魔法を施してもらってのことだが。
そうして、今日にもあの紫紺の髪が現れるんじゃないかと期待して待ち続けたが――いつまで待っても、ルーシャスは姿を見せなかったのである。
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