第49話 黒層深部の朝、ルーシャスを待つ

 エデルはその日、朝一番に起きて、まず街の外れへと向かった。

 店を出るときに朝食代わりに持たせてもらったサンドイッチを手に、飛空車ひくうしゃの発着場近くへとやってくる。だが、発着場に入るわけではない。そこから大きく外れ、円形になった街と街をつなぐ道を半円ほど歩いて、大穴の見える位置へとやってきた。

 この円柱状に大きくぽっかりと空いた大穴こそが、縦に広い黒層こくそうをつなぐ街道の役割を果たしている。人々は黒層内を自在に飛び回ることのできる獣魔じゅうまのアブトを利用し、彼らが運ぶ籠に乗って上層、下層への移動を可能にしているのだ。そうやって、地中深くに広がる黒層を、人の住まう土地として利用してきた。

 その主たる交通網である大穴を前にして、エデルは毎日待っている。

 ――あの日、混乱のさなかに別れたきりのルーシャスの姿を。

 今日もその姿はどこにも見当たらない。

 エデルはため息をついて、手にしたサンドイッチを口にした。

 食欲もわかないのだが、持ち帰ってもきちんと食べろと怒られるだけである。

 一口、二口と咀嚼しながら、ぜんぶ食べ終わるころには、もしかしたらあの紫紺の髪が今にも眼前に現れるのではないか――と期待した。しかしそんな奇跡は起こらないまま、今日もサンドイッチを食べ終わる。

 それからもしばらくぼうっと眺めていたが、ややあって、その肩を叩く手があった。

 振り返ると、背の高い、竜の目をした男がそこにいる。

 エデルは笑みを作った。

「おはよう、ナイジャー」

「おはようさん。今日も探しに来たのか?」

「うん……」

「そんなに心配しなくても、ルースならそのうち来るよ。ここに集合とは言わなかったから、まあちょっと時間はかかるだろうけどさ」

「そうだね……」

 しょんぼりと肩を落とすエデルに、ナイジャーは苦笑して手を差し出す。

「戻ろう。ミューリアも他の女の子たちも心配してたぜ」

「うん」

 ナイジャーの、エデルの二倍はあろうかという大きな手を取る。

 その手は温かく、やさしい。けれど、ルーシャスの熱いくらいの温度を知っているから、少し寂しい。


 *


 話は数日前、ナイジャーとともに黒層の大穴に落ちた直後に遡る。

 その日、二度目の落下を経験したエデルは、今度こそ死を覚悟した。なにせ倉庫の四階から一階に落ちるのとは訳が違う。

 黒層こくそうの大穴に、身ひとつで落ちたのだ。

 声を出すなと言われた手前意地でも悲鳴は飲み込んだが、声を出さずとも内臓は口から飛び出そうになる。必死に悲鳴を飲み込みすぎて、ほとんど過呼吸になりかけていた。

 次々と景色が上方へと流れていく。光球虫こうきゅうちゅうが照らし出す各階層の明かりだが、あまりにも速く流れていくので光の棒のように見えてきた。景色が流れているのではなく、自分が落下しているのだが。

 黒層は地上である緑層りょくそうとの境である入口を一階と数えて、数メートルごとに一階層増やして数え、地下深くへと潜っていく。その数、実に数百以上に上るのだ。

 エデルたちのいた倉庫群が既に百階近くまで下っていたのだが、その下はもっと広がっている。まだまだ最下層は見えそうになかった。――見えたら、そのときが本当の〝死〟につながるだけではあるが。

 底に叩きつけられるまでどれくらいあるのか。死が延びるだけなら、早く終わってほしい。恐怖と絶望で意識が飛びそうだった。――否、実際ほとんど意識を飛ばしていたときだった。

「そろそろだな。衝撃に備えろ。舌噛むなよ」

 落下に風を切る音だけが響く中、ナイジャーがそう言ったのがかすかに聞こえた。

 何事かと半ば飛ばしかけていた意識を慌てて引き戻すと、二度、強い衝撃がエデルの全身を襲う。

「う、ぐっ!」

 自由落下していたところ、急激に上昇方向に力がかかったのだ。舌を噛むなと言われたが、備えていても内臓を吐き戻しそうだった。

 そのままがくんと移動方向が変わり、ようやく落下は止まる。

 ――そう、止まったのだ。

「ひ……は……っ、はぁ……っ」

「はい、お疲れさん。ごめんなあ、びっくりしたろ」

「う、……ゼー……ハーッ」

「声も出ないってか」

 わはは、と軽く笑うナイジャーに、エデルは四つん這いになったままうなだれる。

 ――死ぬかと思った。

 最初から最後までナイジャーが抱えてくれていたのだが、それでも、死んだと思った。

 エデルはガクガクと震える手足を叱咤しながら、なんとか立ち上がろうと試みる。しかしうまくいかない。せめて状況だけでも確認しようと顔をあげると、なんだか見覚えのあるような通りにいることに気づいた。

「こ、ここ、は……?」

「三百二十階あたりってところだな。大変な思いしたとこ悪いが、あんまりぼんやりしてるわけにもいかないんだ。立てるか?」

「う、うん」

 エデルの倍くらいはありそうな、ナイジャーの大きな手を掴む。しかしそこから引っ張り上げてもらっても、どういうわけか下半身に力が入らなかった。それどころか、まだ落下し続けているような錯覚に襲われる。

「あ、あの……」

「どした?」

「ごめん、立てないかも……」

 腰が抜けた。

 素直に申告すれば、遠慮のない大笑いが返ってきた。

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