第37話 再会
神谷 夜奈は、分からなかった。
「はぁ、はぁ……。ちょっと……ちょっとだけ、待ってください……。どれだけ足速いんですか、貴女……」
膝に手を置き足を止めた夜奈は、肩で息をしながら前を走る浅間 衣遠に向かってそう声をかける。そんな夜奈の声を聞き、衣遠は呆れたような表情で足を止める。
「なんだ、ついてきちゃってたのか。……そんなに、蒼井くんのことが気になるの?」
衣遠の真っ赤な瞳に見つめられ、夜奈は逃げるように視線を逸らす。
「ち、違います。そんな浮ついた理由じゃありません。あたしはただ、こんな中途半端なところで帰るのが……嫌なだけです」
「……ま、いいけどね。君の行動を止める権利なんて、私にはないし。でも、面倒に巻き込まれることは覚悟しておいた方がいいよ」
「貴女に言われなくても、覚悟くらいできてます。こう見えてあたし、運動は得意ですから。変なのに絡まれても、全力で走れば逃げ切れます」
「そ。ならよかったよ」
衣遠は小さく笑って、夜奈の息が整うのを待つかのように、近くの壁に体重を預ける。
この辺りは、衣遠もあまり来ない場所だった。お化けが出ると近所の子どもたちが噂している廃病院の近く。……いや、実際は廃病院ではなく、特殊な患者を隔離する為の場所だという話を、衣遠はどこかで聞いた覚えがあった。
ただ、それもやはり噂の域を出ず、近くを通っても不死者がいるような気配もない。近所に住む人間たちも詳しい内情は知らないらしく、誰に話を聞いても、『浅間』の情報網を使っても、確かなことは分からない。
「前に調べた時は、何も出てこなかったんだけどな」
「何の話ですか?」
「私の話。私、昔から病院って苦手なんだよね。あの消毒の独特の匂いと無機質な感じが、どうしても好きになれない」
「……そうですか。あたしも別に好きじゃないですけどね、病院。というか、病院が好きな人なんていないと思いますけど」
ようやく呼吸が落ち着いた夜奈は額に滲んだ汗を拭い、そう言葉を返す。衣遠はそんな夜奈を見て、小さく頬を緩める。
「確かにそうかもね。……ま、病院って私には縁のない場所だから、どうでもいいんだけどさ」
「そうですか。それで貴女は、どうしてあの病院に向かってるんですか? まさかあそこに先輩が……」
「今からそれを確かめに行くんだよ。この辺りで怪しい場所は、あそこくらいしかないしね。……嫌なものを見たくないなら、君は帰った方がいいと思うけど……今さら帰る気はないんでしょ?」
「当然です」
「ふーん。ならやっぱり君、蒼井くんのことが好きなんだ」
「なっ、えっ……!」
顔を真っ赤にして慌てる夜奈。衣遠は淡々と言葉を続ける。
「私、蒼井くんの過去ってあんまり知らないんだよね。宇佐って子と付き合ってたらしいってことは知ってるけど、君との関係はよく分からない。同じ美術部の後輩……ってだけじゃ、ないんでしょ?」
「……別に、それだけですよ。先輩はあたしのこと、面倒な後輩としか思ってないだろうし……。あたしも別に、好きとかそういうのじゃ……。あたしはただ、今までのことを先輩に謝りたいだけで……」
「ただ謝りたいだけで、こんなところまで来ないでしょ?」
「それは……」
夜奈は言葉につまり、視線を下げる。2人の間を、夏の生暖かい風が通り抜ける。衣遠は白い髪をなびかせ、空を見上げる。欠けた月が、静かに2人を見下ろしている。
「別に、深入りするつもりはないけどね。ただ、自分が何をしたいのかくらいは、はっきりさせておいた方がいいと思うよ。そういう中途半端な感情は、いざって時に足を引っ張るから」
「……そんなこと、貴女に言われなくても分かってます」
「分かってるなら、もうちょっとしっかりしないとね」
「余計なお世話です!」
衣遠は笑い、夜奈は悔しそうに地団駄を踏む。そこだけ見れば、仲のいい先輩と後輩に見えるかもしれない。けれど2人とも、理解していた。自分たちがこれ以上、仲良くなるようなことはないと。
「……まあでも、思ってたほど変な人じゃないのかも」
夜奈は熱くなった頬を手で仰ぎながら、安心したように息を吐く。
「多分、先輩はもう、あたしのしたことを怒ってないんだと思います。先輩にとってあたしとのことはもう過去で、今さらそれを謝られても迷惑なだけかもしれない」
「それが分かってて、どうしてこんなところまで来たの?」
衣遠が真っ直ぐに、夜奈を見る。人を威圧するような、真っ赤な眼光。月光の下で笑う彼女は、人間とは全く違う別の生き物のように見える。……あの日、進を見た時と同じ恐怖。きっと彼女も、自分とは生きる世界が違うのだろう。
それでも夜奈は、自分の言葉を──。
「……え?」
そこで2人を取り囲むように、白髪の人間たちが姿を現す。歳の頃は子供から老人まで様々。その誰もが虚な目をしており、2人の方にゆっくりと近づいてくる。
「ふふっ」
そんな状況で、衣遠は笑った。白髪の、どこか自分に似ている多数の人間たち。それを見て衣遠が思ったのは、たった1つ。
「もしかして、近くにいるのかな。あの厄災が」
強い風が吹いて、夜奈は思わず目を瞑る。
「……っ」
そのほんの一瞬で、2人を取り囲んでいた白髪の人間たちが倒れ伏す。何が起こったのか、すぐそばにいた夜奈にすら、理解することができない。
「……ほんと、何なんですか、貴女は」
衣遠や進が、普通とは違う世界に関わっているというのは、夜奈も理解しているつもりでいた。それでも夜奈はどこかで、楽観していた自分に気がつく。
彼女は、本当に……
「──私は、本物の怪物だよ」
そう言って笑う衣遠に、夜奈は何の言葉も返せない。声を出そうとするが、喉が上手く動いてくれない。
「それじゃ、そろそろ行こうか」
衣遠は楽しげに笑い、そのまま歩き出してしまう。
「…………」
夜奈は再度、考える。本当にこのまま、衣遠に着いて行っていいのか。……いや、違う。このまま、大した考えもなく進の前に立って、それで謝って許してもらえたとして、それでどうなるのか。
夜奈は手をぎゅっと強く握り締め、言った。
「あたしは先輩に、許して欲しい訳じゃないんです。謝ったからって、それで先輩があたしのことを好きになってくれるとか、そんな都合のいいことは考えてません」
でも、このまま逃げ出して、或いは形だけ謝って過去のことにして、それで「あーよかった」なんて笑うような真似を夜奈はしたくはなかった。進が生きる世界を知って、それから自分がどうしたいのか。夜奈は自分でも、それがよく分からない。
ただ、それでも……
「あたし、思ったんです。あたしは、許されないことをした。越えてはならない一線を、踏み越えた。だからせめて、先輩と……先輩と同じことで苦しめたらいいなって、あたしはそう思うんです」
夜奈が衣遠を見る。衣遠から見てもその瞳には、強い覚悟が込められているように見えた。
「…………」
けれど衣遠の目は、どうしてかとても冷たいものだった。衣遠は感情の読めない真っ赤な瞳で、正面に立つ夜奈を見下ろす。
「残念だけど、それは無理だよ」
「……どうして、ですか?」
「痛みも苦しみも自分だけのものだから、他人と同じことで苦しみたいなんてことは……できない。例え同じナイフで刺されたとしても、私と君とじゃ感じる痛みが違う。もちろん……蒼井くんとも」
「そんなことは分かってます! でも、あたしは……」
あたしは、何なのか。そこから先の想いを、夜奈は口にすることができない。そんな夜奈の様子を見て、衣遠は笑った。それは今までとは違う、どこか親愛を含んだ優しげな笑み。
そんな笑みを浮かべて、衣遠は優しく夜奈の頭を撫でる。
「やっぱり君は、もう帰った方がいい。蒼井くんは君がそんな顔をすることを、きっと望んでないから」
「でも、あたしは──」
「君には絵が、あるんでしょ?」
「……絵」
夜奈は嫌なところを突かれたと言うように、一歩あとずさる。衣遠は静かに言葉を続ける。
「私は絵のことなんて、何も知らない。でも、自分の為に描いてもらった絵を見た時、言葉じゃ伝えられない何かを感じた。……それは私じゃ、できないことだ。だから君も蒼井くんに伝えたいことがあるなら、危ない真似をするんじゃなくて絵を──」
「──あ、こんなところで会うなんて奇遇だね」
声が響いた。一瞬で世界が滅びたような、そんな声。衣遠はその声を聴いた瞬間、背後に立つ相手が誰なのか悟り、余計な思考を切り捨てる。夜奈に見せた優しさも、進に向ける愛情も全て捨てて、彼女は声の主の方に視線を向ける。
そんな実の娘の様子を見て、声の主は裂けるように口元を歪めた。
「ふふっ。久しぶり、衣遠。元気にしてた?」
人類最悪の『厄災』。衣遠の母親である浅間 奏多はそう言って、少女のような笑みを浮かべた。
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