第36話 乱入者



「だから君はもう、帰るといい。今日は話せてよかった。出口は向こうだ。……では、いい夢を。もう道端で寝るなんて危ない真似は、しないようにね?」


 男が笑う。それはこちらを馬鹿にするような笑みでも、嘲るような笑みでもない。男は親しい友人との別れを惜しむような笑みで、俺に向かって手を振った。


 俺はこの黒須とかいう男のことを、ほとんど何も知らない。それでもこうして話をして、この男が善人なのだというのはなんとなく分かった。この男はきっと、道で転んでしまった子どもがいたなら、迷うことなく手を差し伸べられる人間なのだろう。


 ただ残念なことに、この男と俺では正しさの定義が違う。浅間 奏多は、俺たち人類は価値観の維持を善と定義したと言っていた。その言葉に則るなら、俺とこの男では守りたいと思う価値観が違う。


 だから俺は、迷うことなく言った。


「確かにそうだな。ここの連中がどうなろうと、俺には関係ない。関係ないし、興味もない。だから、貴方が帰っていいと言うなら、このまま帰らせてもらうよ」


「ははっ、君ならそう言うと思ったよ。正義の味方なんて、凡俗の為の夢でしかない。天才は、そんな凡人の夢を壊す怪物でなくてはならない。だから君は、他人の夢を踏み潰しながら自分だけの美しい世界を生きるといい」


 男は両手を広げ、声を上げて笑う。言葉とは裏腹に、この男はどこか才能というものを揶揄しているように見えた。


「……面倒な奴」


 それだけ言って、俺は歩き出す。ここでこの男と戦っても、意味はない。この男も変な能力を持っているのは明らかだし、戦って勝てる保証もない。それにもし仮に勝てたとしても、教祖とかいうボスは別にいるのだろうし、あの信者たちも敵に回るかもしれない。


 だから今はこのままここを立ち去り、それであとで、ここのことをルスティーチェさんに伝える。そうすればあとは、討伐者の面々がどうにかしてくれるだろう。


「……それが最適解なのは、分かってるんだけどな」


 俺は足を止め、振り返る。


「うん? どうした? 忘れ物でもしたかい? 蒼井 進くん」


「逆だよ。どうしても、忘れたいことがあるんだ」


「……忘れたいこと?」


 男は不思議そうに首を傾げる。俺は笑った。


「俺には、簡単に人を殺せるあんたらのような人間の気持ちは分からない。天才だなんだと言われても、俺の感性はそんな簡単に人の死を受け入れられない」


「だから哀れな彼らを助けてあげたいと? それは傲慢だ、蒼井くん。人が1番嫌がるのは、殺されることでも犯されることでもない。自分の信仰を否定されることだ。この国では宗教という形は曖昧だが、それでも『信じたいものを信じたい』という人の弱さは変わらない。朝の微睡で、いい夢を見ている時に早く起きろと言われる煩わしさは、君にも理解できるはずだろ?」


「知るかよ。助けるとか救うとか、そんなことに興味はない。俺はただ……」


 ただ、なんなのだろか? 少し考えて、俺はまた笑った。


「お前の態度が気に入らないから、そこを退けっつってんだよ、もやし野郎が!!」


「──はっ。いいね、その顔」


 俺を真似るように男も笑う。場の空気が軋む。


 俺だって別に、善人という訳じゃない。どんな理由があったとしても、俺はあのルカとかいう鳥使いを殺した。浅間さんだって、実の父親を殺している。……いや、それは言い訳だ。


 きっと俺の中には、美しいだけの世界ともう一つ……とても歪な世界が存在する。美しいだけの世界の裏側に、忘れたかった己の歪が立っている。……善を定義したなら、同時に悪も定義されてしまう。それは、絶対に避けられないことだ。


「……浅間さんと出会ってなければ、俺はきっとおかしくなってたんだろうな」


 だって、いざ戦うと決めたら、こんなにも心が躍って仕方ないのだから。


「さあ、君の才能を見せてくれ! 蒼井 進!!」


 男が叫び、俺は身体から力を抜く。脳の奥のスイッチを切り替え、この男を殺せるだけの世界を──



「──今日は随分と変な場所で顔を合わせるな、少年」



 場の空気に水を刺すように、1人の男が姿を現す。見紛うことのない黒服の大男。こいつは……


「志賀。どうして、あんたがここに……」


 そんな俺の問いに、人形使いの男……志賀 桜天は淡々とした声で言った。


「元より、この場所には当たりをつけていた。ただこの辺りは少し、管轄が面倒でな。上の目もある手前、好きに暴れることができなかった。……故にずっと探していたのだよ、この場で暴れられる口実を」


「……ルスティーチェさんが、俺を勧誘した理由が分かったよ。お前ほんと、自分のことしか考えてないんだな」


「上官には敬意を払っているとも。……必要なだけの、敬意をな」


「そのうち、ルスティーチェさんの胃に穴が空くぞ」


 俺は大きく息を吐く。なんだか急に、馬鹿馬鹿しくなってしまった。


「…………」


 しかしそれでも、警戒は解かない。志賀は別に味方という訳じゃない。こいつがこのまま俺に襲いかかってきたとしても、何の不思議もありはしない。


「そう警戒せずとも、今ここで君と戦うつもりはない。……浅間 衣遠と敵対するには、まだ手札が足りないからな」


 志賀は乾いた笑みを溢し、俺の横を通り過ぎる。


「やあ、随分と遅い到着じゃないか、討伐者」


 突然の来訪者……どう見ても普通の人間には見えない志賀の姿を見ても、男の笑みは崩れない。


「君たちがあんまりにも遅いから、必要なだけの血はもう既に集まってしまった。あとは我らの神が、愚鈍な君たちの世界に弓を引くだけ」


「貴様のようなクズの戯言に、耳を貸すつもりはない。救いなどと嘯き、人の弱さを利用する人間を、私は憎悪する」


「酷いことを言わないでくれよ、討伐者。君だって、その歳まで生きて一度も神に祈ったことがないとは言わないだろ? 人の心は祈ることで救われる。祈りとは、どうしようもない現実を打破する唯一の希望なのさ」


「ならば、好きなだけ祈っているがいい。……私の人形に喰い殺される、その瞬間までな」


 瞬間、大量の犬の人形が、男に向かって襲いかかる。……きっと、あらかじめ用意していたのだろう。人形の数は、俺が襲われた時よりもずっと多い。相手が普通の人間なら、まず間違いなく逃げることなどできないだろう。


「ふはっ」


 だが、それでも男は、笑った。


「人形が動くだなんて、君の世界は随分と可愛らしいんだな、討伐者」


 男の姿が消える。……やはりこの男は、瞬間移動かそれに類する力を持っているようだ。


「なるほど、臆病者らしい能力だ」


 志賀は吐き捨てるようにそう言って、どこからか包帯でぐるぐる巻きにされた不気味な人形を取り出す。


「起きろ」


 懐から取り出したナイフで、その人形を突き刺す志賀。すると一瞬で、刺された人形は天井に届くまでの大きさになり、こんな事態になっても変わらず祈り続ける信者たちの方に向かって歩き出す。


「ちょっ、お前、何する気だよ!」


「首謀者が逃げ出したのなら、次は被害者の保護だ。当然のことだろう?」


「それはそうかもしれないが、相手は……一般人だぞ」


「残念だが、少年。そんなことでは、足を止める理由にはならない。それに……はっ、どうやら釣れたようだぞ」


 デカい人形を止めるように、白髪の人間たちが姿を現す。……吸血鬼の眷属たち。やはり、吸血鬼とエルシーザは繋がっていたのだろう。大量の吸血鬼モドキと志賀の人形が、殺し合いを始める。


「もう滅茶苦茶だな」


 志賀の人形と、ゾンビのような白髪の人間たち。そして訳の分からない事態に、右往左往する信者たち。俺もこのままここにいたら、無事では済まないだろう。


「少年。戦う意思がないのであれば、すぐにでも立ち去れ。先ほどの男はともかく、ここの教祖は中々に面倒だ」


「……なんだよ。結局、教祖の正体まで掴んでるんじゃないか」


「おっと、口が滑ってしまったようだな。ルスティーチェ様には、黙っておいてくれ」


「ほんと自由な奴だな、あんた」


 とにかく、俺がここにいる理由はなくなった。俺がわざわざ戦わなくても、この男ならこんな組織、簡単に壊してしまえるだろう。……信者たちが、無事で済むとは思えないが。


「あ、そうだ」


 あの信者の中には、見覚えのある顔があった。他はともかく、あの子だけは助けてあげた方がいいかもしれない。……あの子にはまだ、聞きたいことが沢山ある。


「気になる顔があるなら急げ。生憎と私は、君の事情に配慮するほど優しくはない」


「お前に言われなくても分かってるよ、そんなこと!」


 思い切り地面を蹴り、走り出す。どさくさに紛れて襲いかかってきた犬の人形を殴り飛ばし、犬に組み伏せられ身動きが取れなくなっていた少女に向かって手を伸ばす。


「こんなところで、何やってるんですか! 茜坂さん!」


「どうして、貴方が……」


「とにかく今は、逃げますよ!」


「ちよっ……ボクは──」


 美術部の部長、茜坂 彩葉さんの手を強引に掴んで、出口に向かって走り出す。


「…………」


 茜坂さんの手はとても冷たいな……なんて、そんなどうでもいいことを俺は思った。


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