第34話 不満



 浅間 衣遠は、不満だった。



「いい風」


 静かな夜の街を歩く白髪の少女。街に混ざった1つの異物。暑い夏の空気なんてものともせず、少女は月光の中を泳ぐように歩く。


「蒼井くん、何してるのかな……」


 その日、衣遠は進の為にカレーを作った。それは彼女にしては珍しい、ほんの気まぐれ。衣遠は基本的に、家事をしない。彼女はなんでも完璧にこなすことができるが、何かに意欲的に取り組むことは少ない。初めから全てを持って産まれた少女は、何かを頑張ることに意義を見い出すことができなかった。


 そんな彼女が、進の為に料理を作った。それは先日の一件から衣遠の胸の内に生じた、小さな変化。進がこれから自分の隣で、絵を描き続けると言ってくれた。だから衣遠も、進の為に何かしてあげたいと思った。……まるでどこにでもいる、普通の少女のように。


 けれどそんな日に限って、進はなかなか帰ってこない。成り立ての不死者に会いに行くという話は聞いていたが、それでもこんなに遅くなるなんて聞いていない。


「メッセージに既読もつかないし、もしかして蒼井くん……その不死者の子と浮気してるんじゃ……」


 言葉にして、それはないと衣遠は小さく息を吐く。進と衣遠が知り合って、まだあまり時間は流れていない。それでも衣遠は、進がどういう人間なのか理解しているつもりでいた。


「蒼井くんは、考え方が独特だからな。きっと蒼井くんは、簡単に人を好きになったりしない。……ううん、のか」


 天才と呼ばれる芸術家の感性は、普通の人間とは違う。衣遠は何でも完璧にこなせるように創られた超人ではあるが、感性そのものは普通の人間と大きな違いはない。だから時おり、絵の話をしている時の進が、自分とは全く別の生き物のように感じることがある。


「不死者とも討伐者とも違う。あれが芸術家の感性なのかな」


 結局のところ進が本気で熱中できるのは、討伐者や不死者との戦闘などではない。進の頭の中には、いつも絵のことが中心にある。それが分かっている衣遠は、余計な心配をする必要がなかった。


「…………」


 でもどうしてか衣遠は、それが少しだけ寂しかった。絵のことを話す進を見るのは好きだ。進の描く絵を、もっともっと観てみたいとも思う。……でも、それだけだと本当に


「もう少し、こっちを見てくれてもいいのにな……」


 そんな呟きは、ふと吹いた風にかき消される。衣遠は足を止め、空を見上げる。雨が止んでしばらく経った夜空。今日は星がよく見える。


「らしくないな」


 小さく笑い、衣遠はまた歩き出す。想い人への不満なんて小さな痛みでは、彼女の笑みを崩すことはできない。衣遠はいつだって、そんな弱さを笑い飛ばしてきた。だから彼女はいつもと同じように、夜の見回り……ではなく、今日は1人の少年を探す為に夜の街を歩き続ける。


「……ん?」


 そして衣遠は、その少女を見つけた。


「なあ、ちょっとくらいいいだろ?」


「だから、やめて下さい! あんまりしつこいと、警察を呼びますよ!」


 夜道で男に絡まれている1人の少女。不死者関連の事件を除けばいつも静かなこの街で、そんな光景を見るのは中々に珍しい。衣遠は少し迷って、少女に向かって声をかける。


「こんな時間に会うなんて珍しいね」


「……! 貴女は……」


 衣遠の姿を見て、絡まれていた少女は驚いたように目を見開く。


「ああ?」


 そして男は、乱入してきた衣遠の方に不快げな視線を向けるが……


「……っ!」


 衣遠の真っ赤な瞳を見た瞬間、男は怖がるように身を震わせる。衣遠はその風貌と雰囲気から、人に怖がられることが多い。けれどこの男の反応は、少し過剰に見えた。


「私はその子にちょっと話があるの。だから悪いけど、貴方は帰ってもらってもいいかな?」


 衣遠が一歩、男の方に近づく。


「く、くそっ! なんなんだよ、お前! ……くそっ! あの野郎、適当なことばっか言いやがって! 何が楽な仕事だ! やってられっかよ!!」


 それだけで言って、男は逃げるようにその場から立ち去る。絡まれていた薄い紫かかった髪色の少女──進の後輩である神谷かみや 夜奈やなは、不服そうに息を吐いてから頭を下げた。


「……助かりました。ありがとう、ございます」


「別にいいよ。……ただ、いくら夏休みだからって、あんまり夜遊びはしない方がいいかもね」


「……夜遊びなんて、あたしはしませんよ」


「こんな時間に1人で出歩いてるなら、なんだって同じだよ」


「それは……」


 言葉に詰まった夜奈は、逃げるように視線を逸らす。そんな夜奈を見て、衣遠は呆れたように息を吐く。


「ま、別になんでもいいけどね。でも生憎と私は、君のナイトになるほど暇じゃない。次があっても、助けてはあげられないよ」


 それだけ言って、歩き出そうとする衣遠。夜奈は慌てて、その背を引き止める。


「ま、待って下さい! 私……貴女に、訊きたいことがあるんです!」


「訊きたいこと?」


 衣遠は足を止め、振り返る。夜奈は痛みを耐えるような表情で、言った。


「先輩……蒼井先輩のことです。貴女と知り合ってから、先輩は変わった。……ううん、変わったなんて言葉じゃ足りない。貴女と知り合ってから、先輩はまるで別人みたいになった。……いや、これも違う。あの時の先輩はまるで……人間じゃないみたいだった……」


 夜奈は思い出す、あの日の夜のことを。あの日の進は、明らかに様子がおかしかった。夜奈は不死者にまつわることを何も知らないが、それでも進が普通ではなくなってしまったことを肌で感じ取っていた。


「…………」


 夜奈の言葉を聞き、衣遠は少し考える。この少女が夜の街を徘徊しているのは、夜遊びなどではなく進に関することが理由なのだろう。……でも、進と夜奈は同じ部活に所属している。彼に会いたいだけなら、わざわざこんな時間にうろつく必要はない。


「……そういえば」


 そこで衣遠は思い出す。近頃は、夜奈のように深夜の街をうろつく人間が増えた。それはきっと、才能を開花させるとかいう占い師とそのバックにいる団体が関わっているのだろうと、衣遠はアタリをつけていた。ならもしかしたらこの少女も、彼らに関わりがあるのかもしれない。


 一瞬、そんなことが頭をよぎるが、衣遠は首を横に振る。


「蒼井くんはね、蒼井くんの人生を選んだ。君が何を思おうとそれは尊重されるべきことだし、今さら君が口を挟むようなことじゃない」


「それは……貴女が選ばせたんじゃないんですか?」


「どうかな。ただ蒼井くんは、自分で決めたことを後になって誰かのせいだなんて言ったりはしない。それは君も、分かってることなんじゃないの?」


「…………」


 夜奈は再度、言葉に詰まる。衣遠の言葉の節々から伝わってくる、これ以上は関わるなという圧力。ただでさえ衣遠は、普通の人間にはない独特の雰囲気を持っている。彼女に射すくめられたら、教師だって口を閉じるしかなくなる。


 夜奈だって本当はこのまま、逃げ出してしまいたかった。ここで衣遠と敵対する理由が、今の彼女にはなかったから。


 ただ、それでも夜奈は……言った。


「確かに、蒼井先輩が何をしていようと、あたしにはもう関係ありません。あたしは一度……間違えたから。失敗したあたしはもう、先輩の隣を歩く権利なんてない。……ただそれでも、何もかもを諦めたわけじゃない!」


「……そ。別に、いいんじゃないの? 私は君に何かを強制するようなことはしないよ。……ただ、1つだけ忠告するなら、しばらくは夜の散歩は控えた方がいい。君が蒼井くんと話をしたいと言うのなら、正面からちゃんと行くべきだ」


「それは……」


「同じ世界を生きなくても、隣を歩くことはできるよ。だから君は、こっちに来ない方がいい。……そうでなくても最近は、怖い吸血鬼が出るらしいからね」


 冗談めかして、衣遠は笑う。けれど夜奈は『吸血鬼』という言葉に心当たりがあったのか、囁くような声で小さく呟いた。


「吸血鬼ってもしかして、あの青白い顔をした白い髪の……」


「……待って。君、心当たりがあるの?」


「心当たりっていうか、さっき見たんです。白い髪の集団が、隠すように誰かを抱えて歩いてて……。それで気になって追いかけようとしたら、さっきの男に絡まれて……」


「────」


 衣遠の目の色が変わる。ずっと足取りを掴めなかった連中が、こんなところで尻尾を出した。そして連中は隠すように誰かを運んでいて、進の姿も見えない。……ただの偶然か、それとも彼らと進の間で何かあったのか。


「蒼井くんはこういう時、意外と考えなしだからな……」


 衣遠は少しも悩むことなく、次の行動を決めた。


「その連中が、どこに行ったか分かる?」


「それは、あっちの路地裏の方ですけど……」


「分かった。ありがと」


 それだけ言って、衣遠は路地裏の方に向かって走り出す。


「ちょっ、待って──。……あー、もう!」


 走り去った衣遠を追いかけるように、夜奈も地面を蹴り走り出す。関わるべきではないと分かっていながら、夜奈は夜の世界へと踏み出した。



 そうしてゆっくりと、夜が深まっていく。


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