第29話 視線



 そして、翌日。茜坂さんが送ってくれた住所を頼りに歩いていると、『茜坂』という表札を掲げた一軒家を見つける。


「結構、近くだったんだな」


 今、俺が住んでいる浅間さんのマンションからは少し距離があるが、ついこの間まで住んでいた親戚の家のすぐ近く。そこに、茜坂さんの家があった。


「結構、大きい家だな」


 周りに建った家より、一回りくらい大きな一軒家。家中のカーテンが締め切られているせいで、何となく人を拒絶しているような雰囲気がある。


「……ま、いいか」


 気になることはあるが、今さら迷っても仕方ない。俺は覚悟を決めて、家のチャイムを鳴らす。……が、いくら待っても反応がない。


「もしかして、留守か? 」


 そう思い、もう一度チャイムを鳴らす。……しかし、やはり返事は──


「……ほ、ほんとに来たんだ……」


 引き返そうとしたところで、音もなく玄関の扉が半分ほど開いて、警戒した様子の女の子が顔を出す。


 腰まで伸びた黒い髪に、同じく光のない真っ黒な瞳。背が低くて気弱そうに見えるのに、どこか底知れない雰囲気を持った少女。……そうだ。この人が美術部の部長、茜坂あかねざさ 彩葉いろはさんだ。


「お久しぶりです、茜坂さん。昨日メッセージを送った、美術部の蒼井です。急に家まで押しかけてすみません。これ、よかったらご家族で……」


「……どうも」


 手土産に買っておいたケーキを手渡す。茜坂さんは恐る恐ると言った様子でそれを受け取り、消えいるような小さな声で言う。


「陽の光、あんまり浴びたくないので……上がるなら早くしてください」


「あ、すみません」


 そのまま家に上がらせてもらう。……ぱっと見は、やっぱり普通の一軒家だ。ただ、カーテンを締め切っているのに電気をつけていないから、家全体が薄暗い。綺麗に整頓されているのに、生活感を感じない。


「今日って、ご家族の方は……」


「いません。ここはボク1人で……住んでるので」


「…………」


 不登校の女の子が、この広い一軒家に1人で住んでいる。俺もいろいろあったので、あまり他人の事情に深入りするつもりはないが、それでも流石にちょっと不自然だ。


「いや、人のことは言えないか……」


 俺だって今は、親族でもない女の子に家にお世話になってるんだ。それをよく知らない他人に「どうして?」と訊かれても、上手く説明できる自信がない。……きっと茜坂さんにも、いろいろあったのだろう。


 俺は詳しいことは何も訊かず、そのまま茜坂さんの背中に続く。案内されたのは、相変わらず薄暗いリビングだった。


「そこ、座ってください。お茶、淹れて来ますから……」


「あ、お構いなく」


 勧められたソファに座り、小さく息を吐く。……なんというか、息苦しい。リビングは冷房が効いていて、外とは別世界のように涼しい。なのにどうしてか、額に汗が滲む。……なんというか、空気が澱んでいる気がする。せめて、暗いので電気くらいは付けたいのだが、人様の家で勝手な真似はできない。


「いきなり来たのは、失敗だったかな……」


 やっぱり、もう少しメッセージのやり取りをしてから、訪ねた方がよかったかもしれない。じゃないと、茜坂さんが何を考えているのか、全く──


「あ」



 ──そこで、その女性と目が合った。



 カーテンの隙間から溢れる光に照らされた、1人の女性。……特別、綺麗な訳ではない。どこにでもいるような、中年の女性だ。怒っている訳でも、泣いている訳でもない。諦観と、それから……胸に秘めた刺すような悪意。そんな視線で、その女性はこちらを見つめている。


 親戚の家にいた時は、よくこんな目で見つめられた。……嫌な過去を思い出す。その女性は、冷めた悪意でこちらを見つめ続ける。



 それは、思わず息を呑んでしまうほど、完成度の高い絵画だった。



「これが、醜……」


 技術はかなり高いが、正直……俺の方が上手い。今の俺なら、この絵よりずっと美しいものをいくらでも描ける。


 ……でも、この絵は生きている。この女性は確かに、こちらを見つめている。責めるような視線で、ただこちらを見つめ続けている。……なんだ、これは。ただの絵なのに、酷く嫌な気分にさせられる。


 この前の比治山さんが描いたあの落書きなんて、比じゃない。これは俺に向けて描かれた絵ではないのに、どうしてこんな──。


「それ、ボクの……お母さんです」


 いつの間にか戻ってきていた茜坂さんが、テーブルにコーヒーとケーキ並べながら、小さく呟く。それで俺は、止まっていた時間が動き出したように、大きく息を吐く。


「……なんというか、凄い絵ですね。まるで……生きてるみたいな」


「みたいじゃなくて、生きてるんです。これは、そういう風に描きましたから」


 そう言い切った茜坂さんは、俺から少し離れた場所に座る。……気が弱そうに見えるのに、なんというか……思わず黙ってしまうような雰囲気が、茜坂さんにはある。


「美術部のグループで見ました。貴方が描いた絵。……赤い夜空と白い花。貴方は絵が、凄くお上手なんですね」


「……ありがとうございます」


「あ、すみません。ボクなんかに褒められても、嬉しくないですよね。貴方はあのエトワール絵画展で、賞を取ってるんですから……ボクなんかとは、レベルが違います」


「いえ、そうは思いません。……茜坂さんの絵は、俺の絵にはない魅力があります」


 もう一度、視線を向ける。……やはり彼女は、こちらを見つめている。


「昨日、八坂先生に言われたんです。お前は、美の中にある醜を理解してないって。でも俺には、その言葉の意味がよく分からなくて。それで、茜坂さんは醜を描くのが上手いと伺ったので、今日はこうして足を運ばせてもらったんですけど……」


「八坂先生は相変わらず、ですね」


 茜坂さんは小さく息を吐いて、言葉を続ける。


「貴方が描く絵は、圧倒的なんです。美術のことなんてなんにも知らない子供でも、貴方の絵を見れば美しいと思う。……思わせる。それだけの力が、貴方の絵にはある。力がない者は、ただ見上げることしかできない絵。言うなれば……美の暴力」


「……それって、駄目なことなんですか?」


「駄目じゃないです。でも……生きていない。貴方が描いた花は枯れないし、あの赤い夜が明けることもない。だから貴方は、人間を描くことができない」


「どうして、それを……」


 俺が人を描くことができないことを、茜坂さんにはまだ伝えていないはずなのに……。


「見れば、分かります。ボクの目は、貴方のように美しい世界を見ることはできない。けどその代わりに、人の弱さがよく見える。……貴方の絵には弱さがない。そして貴方は、弱さのない生き物を人間とは思えない」


「それは……」


 思わず、言葉に詰まる。確かに俺は、自分が美しいと思ったものしか描けない。美しいと思った一瞬を、空想を、永遠にする為に俺は絵を描いている。それが間違っているとは思わないし、例え間違っていたとしても、そのスタイルを変えるつもりはない。


 ……でも、そうだ。俺の絵には弱さがない。あの浅間さんにだって弱さがあるのに、俺の絵にはそれがない。今の俺が浅間さんを描くと、彼女の弱さが……人間らしさが消えてしまう。美しいだけの、化け物になってしまう。


「……ご、ごめんなさい。責めるつもりは、なかったんです。貴方の絵は美しいから、余計なことは考える必要はないって、そう言おうと思ったんです」


「あ、いや、大丈夫です。別に落ち込んでる訳じゃないんで」


 俺は顔を上げ、適当な笑みを浮かべる。茜坂さんは、安心するようにまた息を吐く。


「八坂先生がなんと言おうと、貴方は貴方の絵を描けばいい。……描くしか、ないんです。それは業ですから。貴方にボクのような絵は描けないし、ボクにも貴方のような絵は描けない。努力は個性を伸ばすだけで、新たな個性を生み出すことはできない。ボクらはみんな、できる中で足掻くしかないんです」


「……含蓄のある言葉ですね」


「ただの負け犬の遠吠えです」


「…………」


 茜坂さんの言葉が、間違っているとは思わない。でも、彼女のように割り切れる人間は、そう多くはないはずだ。嫉妬も羨望もなく他人と自分を切り離すのは、言葉で言うほど簡単なことじゃない。俺も絵以外では、そういう感情を覚えることだってある。


 俺はコーヒーに口をつけてから、もう一度、茜坂さんが描いた絵に視線を向ける。


「…………」


 こちらを見つめている1人の女性。醜を描いた絵と聞いて俺が想像したものとは、まるで違う。暗い印象は受けるが、それでも醜いとは思わない。茜坂さんが描いたこの女性は、どこにでもいるような普通の女性だ。


 なのにその表情と視線が、人間の持つ根源的な醜を表している。この絵が生きていると感じるほど、その醜は真に迫っている。……確かに俺に、こんな絵は描けない。


「…………」


 でも、何かが引っかかる。違和感。何か、大事なことを見落としているような。大切なものが欠けているような……


「……って、そうだ。絵の話とは別に、茜坂さんに話しておきたいことがあったんです」


 そこで本題を思い出し、絵から茜坂さんの方に視線を向ける。


「な、なんですか……? お金ならないですよ……?」


 茜坂さんは驚いたような顔で、また俺から距離を取る。


「……いやいや、そんな話じゃないですよ」


 なんか、やたらと警戒されてるな、と思うが、今は言葉を続ける。


「茜坂さん。変なこと訊きますけど、貴女……八坂先生に自分は吸血鬼だとか、言ったりしませんでした?」


「あ、いや、それはあの……冗談みたいなものなんです! 別に、本気で言ったわけじゃないんです!」


「そんなに慌てなくても、別に馬鹿にしてるわけじゃないんです。ただちょっと……そういうに心当たりがあって……」


「…………」


 茜坂さんは困ったような表情で、視線を下げる。俺はできる限りゆっくりと、続く言葉を口にする。


「別に、勘違いならそれでいいんです。でも、もしかしたら俺、茜坂さんの力になれるんじゃないかと思って──」


「ボクの……力?」


 茜坂さんが驚いたような顔で、こちらを見つめる。……この人が本当に不死者なのかどうか、それは俺にも判断がつかない。もしかしたら茜坂さん本人も、分かっていないのかもしれない。


 でもだからって、強引に確かめるわけにもいかないし、そこまでのことを茜坂さんも望んではいないだろう。だから俺はただ、この人が1人にならないよう──。



「──ボクは、誰も頼ったりしない」



「……え?」


 思わず聞き返してしまう俺に、茜坂さんは言った。


「帰ってください。ボクには、誰の力も必要ないです」


「ちょっ……」


 そのまま強引に、家から追い出されてしまう。……何か、気に障るようなことを言ってしまっただろうか? いきなり家を訪ねておいて、踏み込んだことを訊きすぎたのかもしれない。


「暑っ」


 家の外はまだ日が高く、ジメっとした空気が肌にまとわりつく。


「結局、何も分からないままだな。……でも、いや、まさかな」


 最後に一瞬見えた、茜坂さんの首筋。そこにはまるで、吸血鬼に噛まれたような痕があった。


「とりあえず、今日は帰るか。……っと、その前に、昼飯だけどこかで食べて行くか」


 軽く伸びをしてから、ゆっくりと歩き出す。……のだが、それを遮るように声が響いた。


「また会ったな、蒼井 進」


「……げ」


 目の前に現れた金髪の少女を見て、思わず変な声が溢れる。……ルスティーチェ・コンティ。この前、ファミレスで話をした討伐者の女の子。彼女はこの前より警戒した様子でこちらに近づき、ニヒルに口元を歪めて言った。


「昼食はまだなのだろう? 私はちょうど、ハンバーグが食べたい気分なんだ」


「……分かりましたよ」


 俺は諦めるように、大きく息を吐いた。


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生意気な後輩に人生を全否定されたので、腹いせに屋上から飛び降りたらどうなるか検証してみた。 式崎識也 @shiki3

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