2章 崩壊鏡面
第27話 美と醜
最初は、憧れだった。
必死にただ、遠い背中を追いかける。届かないと知りながら、それでも必死に走り続ける。いつしか背中は、見えなくなった。……別に、勝った訳じゃない。ただ向こうが勝手に、止まっただけ。それでもようやく、追い越すことができた。
それで終わればよかったのに……また、走り出す。今度は逃げる為に、全力で走り出す。
……でも、人間と怪物では歩幅が違う。人間の小さな歩幅では、巨大な怪獣からは逃げられない。怪獣は小さな人間なんて気にもせず、どこか遠くに向かって歩き出す。こっちの頑張りなんて、最初から何の意味のなかったと言うかのように、怪獣はただ前へと進む。
──どれだけ走っても、もう追いつくことはできない。
◇
ようやく面倒な期末テストも終わって、来週からは夏休み。俺は今後の予定をいろいろと考えながら、美術部の部活に顔を出した。……のだが、なんだか部内の空気がおかしい。
「……何だ? みんなして黙り込んで……」
俺が美術室に入ると、騒がしかった部室は不自然なまでに静かになった。今までのように陰口を言う訳でも、馬鹿にするようなことを言う訳でもない。皆、黙って遠巻きにこちらを眺めている。
どこか恐れが混じった、異物でも見るかのような視線。……もしかして、俺の知らないところで、また何かあったのだろうか?
「ま、どうでもいいか」
今さら、美術部の評判なんてどうでもいい。というかそもそも、この部活に拘る理由がもうない。蓮吾との勝負を終わらせて、奨学金を辞退させてもらったら、部活はもう辞めるつもりだ。これ以上、この場所に留まる理由もない。
誰の為に何を描くかは、もう決めた。
近くの椅子に座ってそんなことをぼーっと考えていると、部室の扉が開いて、気怠そうな顔をした1人の女性が姿を現す。
「来たか、蒼井。お前……いや、ここだとあれだな。お前、ちょっとこっち来い」
相変わらず不機嫌そうな八坂先生に連れられ、美術準備室にやってくる。先生はまた偉そうに足を組んで椅子に座り、禁煙用のガムを口の中に放り込む。
「蒼井、お前……絵を描いたらしいな?」
「……よく、ご存知ですね」
俺は小さな驚きを飲み込んで、そう言葉を返す。
「わざわざ写真撮ってまで、見せに来た奴がいるからな」
先生はポケットからスマホを取り出し、それをこちらをに見せる。……そこには俺がこのまえ描いた、赤い夜空が映し出されていた。
「消すの忘れてたな、そういえば……」
浅間さんに見てもらった後、消しに行こうと思って忘れていた。……でも、まさか写真まで撮ってる奴がいるとは考もしなかった。
八坂先生はこちらを見て、呆れたように息を吐く。
「お前はもう少し、自分の描いた絵の価値を理解しろ。前にもあたし……同じこと言ったよな?」
「……理解はしてるつもりですよ」
「それでもまだ、過小評価なんだよ。……まあいい。ともかく、スランプは乗り越えられたんだな?」
その問いに、俺は少し考えてから言葉を返す。
「どうでしょう。ただ、描きたいものと描き続けるだけの理由は、見つけられました」
「そうか。なら、いい」
喜んでくれているのか、それとも怒っているのか。よく分からない表情で、先生はまた口にガムを放り込む。
「それで、今度のコンペは出るつもりなのか?」
「そのつもりですよ。蓮吾に勝負を挑まれましたし、そうでなくても、部活を辞める前に1枚くらいは完成させておきたいですからね。奨学金も頂きましたし」
「……なるほどな」
先生はそこでまた、スマホに映った赤い空に視線を向ける。
「今のお前がコンペに出たら、間違いなくお前が勝つ。……こんな絵は、高校生が描くような絵じゃない。あたしがわざわざ審査しなくても、みんな自分で負けを認める。これはそういう絵だ」
「でもここ最近は、蓮吾とか宇佐さんとかも、いろいろ結果を出してるんですよね?」
「まあ、あいつらも成長してるのは間違いない。……東山は、性格の割に繊細な絵を描く。自分の世界に浸り過ぎなのが少し気になるが、常に新しいことに挑戦しようという姿勢は好感が持てる」
先生はスマホを置いて、言葉を続ける。
「宇佐は、純粋に上手い。技術だけで言うなら、部内でもトップクラスだろう。歳の割に大人びた、いい絵を描く。だがあいつの絵は、小綺麗に纏めるだけで我がない。そこがあいつの悪い癖だ」
先生は足を組み替え、窓の外に視線を向ける。今日は残念ながら、あまりいい天気ではない。雨は降っていないが、厚い雲が空を覆っている。
「1年で言うなら神谷か? あいつはちょっと、お前に似てる。一度ハマると、あたしでもびっくりするくらい、いい絵を描く。だが逆に、ハマらないと話にならない。……あとは、比治山と
「……先生、意外とみんなのこと見てるんですね? もっと周りに興味ないのかと思ってました」
「これでも一応、教師だからな」
先生は自嘲するように、息を吐く。
「だがやはり、その中でもお前は頭抜けてる。技量もそうだが、何より目がいい。お前の目が映す世界は、人を黙らせるだけの美がある。真似しようと思っても真似できない、天賦の才だ」
「……褒めてもらえるのは素直に嬉しいんですけど、その話をする為だけに、わざわざ俺を呼び出したんですか?」
「そんな、めんどくさそうな顔するな。本題はここからだ。……お前の絵を見て思った、お前の欠点についてだ」
先生は普段見せないような真面目な表情で、真っ直ぐにこちらを見る。
「お前の絵は確かに素晴らしい。今のお前がコンクールに応募すれば、国内外問わずあらゆる賞を総なめにできるだろう。それだけの美が、お前の絵にはある」
「……じゃあ何が、駄目なんですか?」
「それしか描けないことが、お前の明確な弱点だ。蒼井、お前……人間が描けないんじゃないか?」
「それは……」
その問いに、俺は思わず言葉に詰まる。
「私が知ってる限り、お前が描く絵は風景画がばかりだ。お前は根っこで、人間という生き物を醜い生き物だと思っている」
「否定は、しませんけど……」
「別に、それ自体が悪いとは言わない。自分が美しいと思ったものしか描かないという、お前のスタイルも否定はしない。だが、美と醜は表裏一体だ。そこを理解しなければ、お前はいずれ大きな壁にぶち当たる」
「……確かに俺は、自分が美しいと思ったものしか描けません。でも、わざわざ醜いものを描く理由が、俺にはよく分かりません」
「違う違う。醜いものを描けとは言ってない。ただお前は、美が内包する醜から目を背けている。お前の描く美は圧倒的だからそれを忘れてしまいそうになるが、この世界には美と同じだけ醜がある。美の中に醜があり、醜の中にこそ美がある。お前もそれは、分かっているのだろう?」
「まあ、先生が言いたいことが、分からない訳じゃないですけど……」
でも俺は別に、絵で食べていこうなんて考えてはいない。描きたいものを描きたいように描いて、それを綺麗だと言ってくれる人がいるなら、それ以上は望まない。
……でも、確かに俺は人を描くのが苦手だ。技術的な問題ではなく、人間という生物の美しさが俺にはよく分からない。だから俺は、浅間さんを描くのではなく、浅間さんが生きる世界を描いた。
浅間さんは綺麗だし、可愛いし、美しいと思う。……でも、その美しさを絵に落とし込もうとすると、美が遠のく。……焦点が、合わない。
先生は真面目な顔で、言葉を続ける。
「お前が将来、何で生きていくのかなんて知らん。それでもお前ほどの才能があれば、絵で食っていくのも難しくはないだろう。……だが、絵の世界にはお前のような化け物が、腐るほど居る。あのエトワール絵画展で、3年連続賞を取った人間だっているんだ」
「アレンでしたっけ? 素性が一切分からない、天才画家」
「世界を探せば、他にもいろいろ化け物はいる。お前の絵は既に、そういう連中と比べられるステージにある。そういう人間と競い合っていくというなら、美しさだけではいずれ限界が来る。……あたしみたいに、な」
「…………」
この人……八坂先生も、一世を風靡した画家だ。でもある日突然、引退して、今ではこうして教師として生きている。この先生に何があったのかなんて知らないが、先生が前に言った『あたしは描けないんじゃなくて、描かない』という言葉の重さが、今ならよく分かる。
俺にいろいろあったように、きっと先生にもいろいろあったのだろう。……この人の話は、聞き流すには言葉が重い。
先生はまた口にガムを放り込み、こちらを見る。
「お前は、
「茜坂……ああ、うちの部の部長ですか」
俺が1年の頃に、一度だけ顔を合わせたことがあったはずだ。ただあの人はずっと不登校で学校に来ていないから、ほとんど話をする機会がなかった。
「あいつは、醜を描くのが抜群に上手い。あいつはお前とは違う意味で、高校生とは思えないような絵を描く。だから一度、あいつと会って話をしてみろ。きっと得るものがある。……と、そう言うつもりで、今日お前を呼び出したんだが……」
「何か問題でも、あったんですか?」
「問題というか……あいつ、学校来ないんだよ。少し前までは保健室登校したり、テストだけ別室で受けたりとかしてたんだけどな。ここ最近は、全く学校に来なくなった」
「……もしかして、何かあったんですか?」
その俺の問いに、先生は疲れたような顔で椅子の背もたれに体重を預け、言う。
「この前、茜坂に電話した時、あいつ言ったんだよ。……自分は吸血鬼になったから、外には出られないって」
「────」
呆れるだろ? と言う先生に、俺は何の言葉を返せない。
──吸血鬼になった。
普通なら笑ってしまうような、その言葉。でも今の俺には、それに明確な心当たりがあった。
「……その茜坂さんの連絡先、教えてもらうことってできますか?」
「一応、前にあいつにもお前の話をして、許可は取ってあるが……珍しいな。お前が他人に興味を示すなんて」
「ちょっと、吸血鬼とは縁がありまして……」
「なんだ、それは。お前まで、吸血鬼がどうとか言うつもりか? ……もしかして、今そういうの流行ってたりするのか?」
珍しく戸惑った様子の先生に茜坂さんの連絡先を教えてもらい、美術準備室をあとにする。……別に、関係ないならないで、それで構わない。ただ何となく、俺は嫌な予感を覚えていた。
◇
進が顧問の八坂と一緒に美術室から出て行ったあとも、部室内には重い空気が沈澱していた。
面倒なテストも終わって、しばらくしたら夏休み。そんな1番楽しい時期のはずなのに、皆の表情は優れない。皆、何かを探すように、何も描かれていない黒板を見つめている。ほとんど無意識に、引き寄せられるように、視線がそちらに向いてしまう。
「今度のコンペ、蒼井先輩はどんな絵描くのかな……」
小さく誰かが呟いた言葉。蓮吾が進と勝負すると言い回っていたせいで、進が今度の部内コンペに参加するのは、決定事項として扱われていた。
最初は皆、蓮吾が勝つものだとばかり思っていたが、あの絵を見た後で、同じことを言える人間はいない。今ではもう誰も、蓮吾が勝つなんて思っていない。
あの日、美術室に来なかった者も、美術部のグループに共有された写真を見て、進が描いた絵を知った。誰もがあの美しい赤い夜に魅了され、それで多くの人間は……線引きをした。
あの日から比治山は、部活に顔を出していない。テストが終わって数日経った今日も、部室にやって来る気配はない。夜奈や莉里華も顔こそ出してはいるが、どこか上の空といった様子で、口を開こうともしない。
そして、蓮吾は……
「ねぇ、知ってる? 東山先輩、家出したらしいよ? なんか、テスト明けから学校きてないって」
「家出? なにそれ、知らない知らない。なんでなんで?」
「理由は私も知らないけど、東山先輩、蒼井先輩の絵を見た後、ちょっと様子おかしかったでしょ? だからそれで、何かあったんじゃないかって……」
「あー。まあ、あの絵と勝負しろって言われたら、逃げたくなる気持ちも分かるよ。東山先輩も絵上手いけど、蒼井先輩はちょっとレベルが違うもんねー。でもそれで、わざわざ家出する必要ある? 部活、来なきゃいいだけじゃん」
「そんなの私も知らないよー」
コソコソと噂をする部員たちの声を聴きながら、莉里華はスカートのポケットからスマホを取り出し、そのまま蓮吾にメッセージを送ろとする……が、途中で辞める。
「……別に、いいや」
莉里華は立ち上がり、部室から出ていく。……その前に、最後にもう一度、黒板の方に視線を向ける。見慣れたいつもの黒板。赤い空は、もうそこにはない。……なのに少し目を閉じるだけで、あの空が思い浮かぶ。頭にこびりついて、離れない。
「ほんと、嫌になる」
莉里華は最後に、小さくそう呟いた。
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