第26話 赤い夜空と白い花



 神谷 夜奈は、気に入らなかった。



「……暑っ」


 夏の燃えるような日差しが肌を焼く暑い朝。いつものように学校にやって来た夜奈は、滲んだ汗をハンカチで拭い、大きく息を吐く。


「先輩、今日は学校きてるかな……」


 昨日、進が学校を休んだ。また前と同じで学校にも連絡はきていないらしく、比治山たちが勝ち誇ったようにいろんな噂を流していた。


「ほんと、苛々する」


 夜奈は陰口が嫌いだった。彼女は昔から、気に入らないことがあれば本人に直接言いに行くような性格だったので、陰でコソコソ噂をするのは卑怯者のすることだと考えていた。


「でもそのせいで、先輩にいっぱい迷惑かけた……」


 だから今度は、自分が進を助ける番だと夜奈はずっとそう思っていたのだが、彼女が何を言っても比治山たちを黙らせることはできなかった。


「結局、皆んな自分が可愛いだけだ」


 仮に今の状況を、顧問の八坂や他の先生に注意してもらったとしても、きっと何も変わらないだろう。皆、形だけ言うことを聞いたフリをするだけで、反省もしないし行動を改めることもない。


 人を傷つけるのは簡単だ。でも傷を治すのも、反省させるのも、どちらもとても難しい。少なくとも夜奈には、今の状況を変えるような力はなかった。


「美術室、行ってみようかな」


 ただ、それでも夜奈はこのまま逃げ続けるのは嫌で、意味もなく美術室の方に向かって歩き出す。まだ、授業開始まで時間がある。普段なら、美術室に誰か来ていてもおかしくはない。


 でも今はテスト前で、しかも気温は30度を超えている。こんな状況では、きっと誰の姿もないだろう。それでも夜奈は、足を止めない。


「……馬鹿みたい」


 もしかしたらそこに、進がいるかもしれない。なんて、自分がそんな都合のいい妄想をしていることに気がつき、夜奈は疲れた顔で息を吐く。


 早朝の学校。朝の廊下に人影はなく、夜奈の足音だけがやけに大きく響く。……ふと、目の前から歩いてくる1人の少女の姿が見えた。


「……浅間 衣遠」


 遠くからでも見紛うことのない、光を飲み込むような白い髪。一瞬、見惚れてしまった自分を恥じるように、夜奈は窓の外に視線を逃す。


「…………」


 衣遠は何も言わず、夜奈の隣を横切る。一瞬、見えた横顔は、いつものどこか浮世離れした表情ではなく、とても人間らしい笑みを浮かべているように見えた。


「……関係ない」


 夜奈はそう小さく呟き、そのまま歩き出す。……いや、夜奈が歩き出そうとしたところで、背後から声が響いた。


「今ならまだ、見れると思うよ」


「……え?」


 言葉の意味が分からず、夜奈は思わず振り返ってしまう。……が、そこにはもう衣遠の姿はない。しんと静まり返った廊下を、熱い日差しが照らしている。


「ほんと何なの、あの女……」


 夜奈はまた息を吐いて、最初よりも早足で美術室を目指して歩き出す。


「……暑いな」


 手に汗が滲む。ドクドクと、心臓が高鳴っているのを感じる。外気の暑さだけではなく、身体の奥底が燃えるように熱い。


「なにを、あたしは……」


 夜奈は自分でも、自分が何に緊張しているのかよく分からなかった。ただ、どうしてか心臓が高鳴って、歩くのを……前に進むのを止められない。



 そして夜奈は、美術室の扉を開いた。



「────」



 言葉が出ない。ずっと気にしていなかったセミの鳴き声が、やけに大きく聴こえてくる。時間が止まったと錯覚するような、胸が痛む感動。



 ──そこには、1つの世界があった。



 ◇



 美術部のグループに、メッセージが投稿された。


『授業が始まる前に、美術室に来てください』


『来ないときっと、後悔しますよ』


 あまりグループにメッセージを送らない夜奈のそのメッセージを見た宇佐 莉里華は、特に何も考えず、美術室に向かって歩いていた。


「よぉ、莉里華。お前も美術室に行くのか?」


 その途中、同じく夜奈のメッセージを見たであろう蓮吾が、莉里華に向かってそう声をかける。


「そんなとこ。神谷さんがこんなこと言うの珍しいし、ちょっと気になってね」


 莉里華のいつもの張り付いたような笑みを見て、蓮吾は嬉しそうに頬を緩める。


「ま、どうせ大したことじゃねぇんだろうけどな。……んなことより、今日は進の奴、学校来ると思うか?」


「……さあ。でもまあ、また奨学金の延長が決まったらしいし、いつもみたいに嫌そうな顔しながら来るんじゃない?」


「ははっ、かもな。いくら浅間 衣遠や先生方に気に入られようと、所詮あいつは言い訳ばっかのつまらない男だ。あいつの才能はもう枯れたって、今度のコンペで俺がそれを分からせてやる」


「……期待してる。頑張ってね」


 そんなことを話しながら、2人は美術室の扉を開く。


「結構、みんな来てるのね」


 皆、律儀に夜奈の呼び出しに応じたのか、美術室には部員の半数以上が来ているようだった。


「んだよ。みんなして黙り込んで、何を見てんだよ」


 それだけの人数が集まっているのに、美術室は不自然なまでに静かだった。皆、引き寄せられるように、ただ一点を見つめている。


「……あ」


 先に、莉里華が気がついた。莉里華は足を止め、目を見開く。そんな莉里華の様子を見て、蓮吾は不思議そうに眉をひそめる。


「なんだよ。お前までそんな顔して、一体なにがあるって──」


 そこで、蓮吾も気がつく。黒板に絵が、描かれていた。それはこの前の比治山たちが描いた絵と同じ、誰かが描いた落書きなのだろう。黒板一面が、赤く染まっていた。


 今日もこれから、美術の授業がある。こんな絵、すぐに消されてしまうだろう。こんなものは、何の意味もない落書きだ。……そう思うのに、動けない。誰も、声を発することすらできない。



 ──その絵は、美しかった。



 夜の帷を染めあげる赤い世界。小さな丘から溢れ出す血と、その丘に咲いた白い小さな花。


 黒板アートでできる表現は限られている。そもそもとして、チョークは色の種類が少なく、混ぜたからと言って絵の具のように色は変わらない。黒板アートはある種のパフォーマンスで、芸術と呼べるようなものではない。莉里華はずっと、そう思っていた。


 実際、比治山たちが描いた絵は、とても稚拙なものだった。消されることを前提に描かれた、紙より薄っぺらい落書き。この絵もそれと、変わらないはずだ。



 なのに、圧倒される。



 今、目の前にあるのは、いつも授業で見るのと同じチョークの色だ。絵の方も別に、特別な技法が使われている訳ではない。……やはりこんなものは、落書きでしかない。そう思うのに、圧倒される。……美しいと、思ってしまう。


「……同じだ」


 あの日、テレビで見た夜空と同じ。莉里華が何より嫌悪し、同時に何より焦がれた圧倒的な才能。誰が描いた絵なのかなんて、考えるまでもない。こんな絵を描けるのは、世界中を探しても1人しかいない。


「こんなの……こんなのわたくしは、認めない……!」


 いつから来ていたのだろうか? 顔を真っ赤にした比治山が震えた声でそう叫び、逃げるように部室から出て行く。……きっと彼女が、誰よりも恥ずかしかったはずだ。彼女がこの前描いた絵と、今、目の前にあるこの絵は、どちらも同じチョークで同じ黒板に描かれたものだ。



 なのに、その差は歴然だ。



 人を傷つける為だけに描かれた絵と、ただ美しいものを自由に描いた絵。絵への向き合い方と、何より比べることすら烏滸がましい圧倒的な実力の差。


 きっと彼女も、この絵を美しいと思ってしまったのだろう。こんな絵、気に入らないなら消せばいい。消しても誰も、文句なんて言わない。



 なのに彼女は、逃げ出した。



 それは紛れもない敗北だ。圧倒的な才能を前に、彼女は逃げることしか選べなかった。


「こ、こんなもん! 単なる落書きじゃねーかよ!」


 蓮吾も比治山と同じようなことを思ったのだろう。彼は強引に黒板前にたむろした部員たちを押し退け、その絵を消そうとする。


「……っ!」


 なのに途中で、手が止まってしまう。……この絵を消してしまうのが、惜しいと思ってしまった。


「くそっ!!」


 蓮吾はそんな自分を恥じるように、思い切り近くの壁を叩く。


「……馬鹿みたい」


 莉里華は呆れたようにそう呟いて、その美しい赤い夜を消した。それで魔法が解けたように、皆、美術室から出て行く。


「だから天才って、嫌いなのよ」


 どれだけ頑張っても、美術部に蔓延するあの嫌な空気は変えられない。莉里華は夜奈のように進の為に何かしようなんて考えてはいなかったが、それでもしばらくは面倒な悪口を聞かされるのだと、ずっとそう思っていた。


 なのにたった一瞬で、ただの落書きで、全員を黙らせてしまった。進は何も言っていない。あれが進が描いた絵だという保証もない。それでもあれは進が描いた絵なのだと、誰もがそう納得してしまっていた。



 美しさは、人を黙らせる。



 芸術を志す者にとって美とは神と同義であり、本当に美しいものを見せられてしまうと、認めるしかなくなる。比治山のように逃げ出そうと、蓮吾のように否定しようと、莉里華のようにどれだけ嫉妬しようとも、彼女らは皆、この絵を美しいと思ってしまった。



 後から何を言おうと、その感情は否定できない。



「……最悪」


 そのあと、美術室に顧問の八坂がやって来て、残った生徒たちも皆、美術室から追い出されてしまう。ただそれでも、もう誰も進の陰口を言うようなことはできなかった。



 ◇



「及第点だな」


 俺は学校の屋上でぼーっと空を見上げながら、息を吐く。


 最初はデカいキャンバスに、赤い空を描くつもりでいた。あの美しい世界を表現するには、小さなキャンバスでは物足りない。……ただ、近くの画材屋には、俺が求める大きさのキャンバスは売ってなかった。取り寄せるにしても時間がかかるし、そもそも顔料の準備もできていない。


 学校をサボって1日中、いろんな店を回って、それでも望むものは見つけられなかった俺は、偶々、学校の近くを通った時、ふと思い出した。この前の比治山さんの絵。あれは酷い絵だったけど、確かに人の心を動かす力があった。


「そういえば、黒板アートはしたことなかったな」


 焦点が合った。俺は大量のチョークを買って、夜の学校に忍び込んだ。……イメージはできていた。黒板アートの経験はないし、そもそもとして長いブランクもある。昔と同じように描けるとは、思っていない。


 でも幸い、今の俺に疲労はない。一晩中、描き続けても疲れはしないし、休憩の必要もない。俺は描いては消してを何度も何度も何度も繰り返し、あの赤い夜を描きあげた。



 ──赤い夜と白い花。



 浅間さんの生きる美しい世界。俺は俺が何より美しいと思ったものを、形にした。朝、呼び出した浅間さんはあの絵を見てくれたはずだ。……少しは彼女にも伝わっただろうか? あの世界の……浅間さんが生きる世界の美しさが。


「お疲れ様、蒼井くん」


 背後から声が聴こえた。俺は空に視線を向けたまま、言葉を返す。


「どうだった? 俺の絵は」


 少しの間を置いて、どこか呆れたように浅間さんは言う。


「蒼井くんが、天才って言われてる理由がよく分かったよ。私は絵のことなんて何も知らないけど、いい絵は時間を止めるんだね。初めて知ったよ」


「そういうのは別に、どうでもいいよ。それより、浅間さんはどう思った? 少しは綺麗だと、思ってくれた?」


 浅間さんは俺の隣に座り、俺と同じように空を見上げる。


「……うん。綺麗だった。蒼井くんには私がああいう風に見えてるんだなって思うと、ちょっと恥ずかしかったけどね」


 浅間さんが俺を見る。俺も浅間さんを見る。浅間さんは……笑った。それは屈託のない普通の女の子のような笑みで、心臓がドクンと高鳴る。


「蒼井くんのお陰で、私も少しだけ、自分のことを好きになれた。あの赤い夜と白い花が、蒼井くんにとっての私なんだね」


「……うん。なら、よかった」


 俺は小さく息を吐く。……また1つ、描きたいものができてしまった。


「もう少し感覚を取り戻したら、今度はちゃんとキャンバスに描くよ。1000年経っても忘れないように、俺が美しいと思ったものを、これからずっと描き続ける。……君の、隣で」


「それは楽しみだね。また1つ、生きる理由ができた」


 浅間さんは笑う。やっぱりその笑みは、今まで見たことがないくらい可愛い笑みで、俺はどうしてか泣きそうになる。


 俺はこれからも、この子の為に絵を描き続けよう。浅間さんが少しでも、自分のことを好きになれるように。彼女の孤独が少しでも、和らぐように。俺はこれからも、彼女の隣で絵を描き続ける。


 ……ごめん。父さん、母さん。俺はもう、貴方たちが迎えに来てくれるのを、待つことはできない。貴方たちのあの笑顔を、もう二度と見ることができないのだと思うと、やっぱり今でも胸が痛む。でも、それでも俺は絵を描こうと思う。貴方たちに見せたかった景色を、これからはこの子に見せてあげる為に。


 もし天国というものがあって、いつか貴方たちともう一度会うことができたなら、その時はたくさん自慢させて欲しい。俺はこんなに綺麗な世界を生きて来たんだよって、遠いいつか胸を張れるように、俺はこれからもたくさん絵を描き続ける。


 1000年も待っててなんて言わないけど、もしいつか会うことができたなら、また昔みたいに笑って欲しい。その為にも、俺は前に進もうと思う。


「……ねぇ、蒼井くん」


 浅間さんが俺の肩に頭を乗せる。白い綺麗な髪が、風に揺れる。


「なに?」


 俺は身体から力を抜いて、青い空を見上げる。


「ありがとね、あの日……私を見つけてくれて」


「いや、飛び降りた俺を見つけてくれたのは、浅間さんの方でしょ?」


「ううん。蒼井くんが私を、見つけてくれたんだよ。だから……ありがとう」


「……どういたしまして」


 2人並んで空を見上げる。綺麗な、落ちて来そうな、空。……あの日と同じ、青い空。


「さて、そろそろ戻ろうか? 流石に今日は、授業受けないと。最近ちょっと、サボり過ぎだし」


 俺は立ち上がり、軽く伸びをする。


「えー。私はもう少し、こうしていたいんだけど……」


「空ならまた、明日も見れるよ。……1000年経っても、きっと空は青いままだ」


「……だね。じゃあ、そろそろ行こっか?」


 チャイムが鳴って、俺たちは並んで歩き出す。


「…………」


 最後にもう一度だけ、空を見上げる。何度見ても美しい青い空。夏の暖かい風が、頬を撫でる。


「ほら、行くよ? 蒼井くん」


「……分かってるって」


 浅間さんに手を引かれ、歩き出す。青い空に雲はなく、遠くから蝉の鳴き声が聴こえてくる。……ようやく梅雨も、明けたようだ。



 ──雨音は、もう聴こえない。


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