第23話 雨音
──雨が、降っていた。
暑い夏の日。俺は絵を描く為に、家から離れた山の麓にあるコテージを借りて、ただ空を見上げていた。
空を描くのが好きだった。春の輝くような朝焼けも、夏の飲み込まれるような青空も、秋の寂しい夕暮れも、冬の沈み込むような夜空も。全部全部、大好きだった。
でも俺が1番好きだったのは、俺の頭の中にある遠い空。俺の頭の中には、この世界のどんな景色より、美しい空があった。俺はそれを皆んなに見せたくて、絵を描いていた。
「……違うな」
光の少ないコテージから見上げる夜空は、とても綺麗な空だった。でもそれは、俺が描きたい空ではない。……焦点が合わない。自分の中にあるものを外部に出力するには、何かきっかけが必要だった。
俺はそのきっかけを探す為に、綺麗な空が見えるコテージにずっと引きこもっていた。
当時の俺は、ちょうどエトワール絵画展に入賞を果たし、世間から注目を集めている時期だった。俺は期待されていた。だから当時、中学生だった俺が1人家から離れたコテージに泊まるのを、誰も反対しなかった。
夏休みだったこともあり、俺は長い間ずっと、1人で空を見上げ続けていた。
ある日、激しい雨が降り出した。降り出したあとになって、台風が近づいてきているということを知った。スマホを確認すると、父さんと母さんから沢山の着信があった。
急いでかけ直すと、コテージに1人でいるのは危ないからと、父さんと母さんが車で迎えに来てくれることになった。
……でも、それでも俺は、空を見ていた。
激しい雨に打たれながら、何かを探すように1人空を見上げ続ける。
「…………あ」
ふと、焦点が合った。今ならいけるという、確かな確信。俺は台風のことなんてそっちのけで、筆をとった。
服も髪も雨でびしょ濡れ。でもそんなものでは、この描きたいという衝動を止めることはできない。
筆を叩きつけるように、絵を描いた。時間が止まったような……或いは、時間がどんどん加速していくような感覚。俺の頭の中にしかないはずの空が、筆の先からこの世界に溢れ出す。
「ははっ。父さんと母さんが見たら、きっとまた喜ぶぞ……」
完成図を思い描き、俺は1人笑った。俺はそういうやり方でしか、絵を描くことができなかった。
子どもの頃、蓮吾と宇佐さんと俺の3人で、近所の絵画教室に通うことになった。ただ当時の俺は誰より下手くそで、よく先生に怒られた。ただそれでも、焦点が合っていないものを無理やり描くのが嫌で、俺はいつも先生の言うことを無視して、描きたいものを描きたいように描いていた。
ただ、そうやって自由に描いた絵も、自分でも呆れてしまうくらい下手くそで、先生や蓮吾たちに見せても、これは駄目だと笑われた。俺の頭の中にはもっと綺麗な景色があるんだぞ、と言っても誰も信じてくれない。
俺は絵を辞めようと思った。
俺はすぐに、父さんと母さんに絵を辞めたいと伝えた。母さんは、心配そうな顔で俺を見た。父さんは優しい笑みを浮かべて、俺の頭に手を置いた。
「進は、絵が嫌いなのか?」
と、父さんは問うた。俺は少し悩んで、首を横に振る。
「嫌いじゃないけど、下手だから辞めたい」
俯く俺に、父さんは言った。
「進が本当に辞めたいなら、それでも構わない。……ただ、誰が何を言おうと、お前が好きなら胸を張っていいんだぞ?」
「────」
俺は何も言えなかった。……嬉しかった。上手いとか下手とか関係なく、俺の好きだという感情を肯定してくれたことが、とても嬉しかった。この人たちに、俺の頭の中にある綺麗な世界を見せてあげたいと、そう強く思った。
そこから俺は、絵に没頭した。
不自由な絵画教室を辞めて、自分で学びたいことを勝手に学んで、描きたいものを描きたいように描いた。その熱中具合は、父さんと母さんが心配してしまうほどのものだったけど、それでも俺は描くのを辞めなかった。
そして中学2年の時に、今までで最高の絵が描けた。それは俺の頭の中にあるどの景色よりも綺麗なもので、俺は絵を描く為に産まれてきたんだと、そう自惚れるくらい素晴らしいできだった。
俺は、その絵をもっと多くの人に見てもらいたくて、適当に目についた有名な海外のコンクールに送った。結果として、その絵は賞を取ることになり、俺は一躍、時の人となった。
沢山の取材を受け、いろんな人に天才だともてはやされた。……最初は嬉しかったが、すぐにそれは苛立ちと呆れに変わった。訳の分からない批評家が、見当違いなことを自信満々に語り、世間はそれを鵜呑みにし騒ぎ立てる。
……煩わしい。
俺は偶然、知り合ったキュレーターに絵の管理を任せ、全ての取材を断るようになった。
「もっと皆んな、喜んでくれると思ったんだけどな」
皆、遠くで騒ぎ立てるだけで、俺の描いた絵を見ようともしない。俺の絵を見ていつも喜んでくれた父さんと母さんも、どこか辟易とした様子であまり嬉しそうじゃなかった。
……でも、だからこそ俺は、もっともっと綺麗なものを描こうと思った。
そうすれば、もっと美しいものを描けば、きっと誰も何も言えなくなる。父さんと母さんも、喜んでくれる。そう信じて俺は、あのコテージへと向かった。
そして俺は、絵を描いた。
「……ははっ、最高だ」
雨音が聴こえる。激しい雨音だけしか、もう聴こえない。煩わしい外野の雑音も、見当違いな賞賛も、もう何も聴こえてこない。雨音だけが、ただ響く。そんな美しい世界。
世界と俺が、入れ替わる。激しい雨が、沈殿していた不純物を洗い流す。ここは俺だけの世界だ。誰も俺の邪魔なんてできない。
雨音が酷く心地よかった。それは今でも、よく覚えている。
気づくと絵が、完成していた。窓の外を見ると、雨が止んでいた。ずっと雨音が聴こえていたはずなのに、どこを見渡しても雲なんてない。どうやら雨は、とっくに止んでいたようだった。
「……あれ? そういえば父さんと母さんが、迎えに来てくれるって言ってたはずなんだけど……」
スマホを確認すると、知らない番号からの着信が何件もあった。俺はなんだか嫌な予感を感じながら、折り返し連絡をしてみる。……電話が繋がった。
──父さんと母さんが、事故に遭って死んだと聞かされた。
そこからのことは、あまり覚えていない。なんだか夢を見ているような、ふわふわとした感覚。……長い終わらない悪夢を見せられているような、どうしようもない焦燥感。
何かしなければと思うけど、もう全てが遅い。死んでしまった父さんと母さん。優しくて、でも少し心配性だった俺の大好きな両親。2人は、俺のせいで……死んだ。
雨音が、聴こえてくる。……いつまで経っても、止まらない。
俺は、迎えに行くと言った父さんと母さんの言葉を信じて、ずっとあの狭いコテージで2人を待ち続けた。いつまで経っても迎えに来ない2人を、俺はずっと待ち続ける。
ふと、空を見上げた。綺麗な青空だった。雨はとっくに、止んでいた。俺は、泣いた。泣いて、泣いて、泣いて……それでも、雨音は止まない。
俺は絵が、描けなくなった。
……俺はきっと絵が好きなんじゃなくて、俺の絵を見て喜んでくれた父さんと母さんの笑顔が、好きだった。後になってそんなことに気がついても、全てが遅い。
そこからは、何もかもが上手くいかなくなった。俺を引き取ってくれた親戚の家では常に疎まれ、付き合っていた宇佐さんには避けられるようになり、親友だった蓮吾は露骨に俺を敵視するようになった。
思い出したように時々マスコミがやって来て、新しい絵は描かないんですか? と、俺に問うた。俺はそれに、何の答えも返さなかった。そしたら、どこかの記者が勝手に『両親を亡くした悲劇の天才』なんて記事を書いて、知らない奴に勝手に同情されるなんてこともあった。
何一つとして、楽しいことなんてない。俺の味方なんて、もうどこにもいない。高校に入学してからも、それは変わらなかった。親戚のツテで特待生として入学し、奨学金も貰えるようになった。
ただ、それでも俺は絵を描けなくて、気づくと周りから疎まれていた。いつしか俺は人を避けるようになり、いつも1人でいるようになった。
描こうと思った。でも、描けなかった。描かなければと思った。それでも、描けなかった。昔から焦点が合わないと、手が動いてくれない。昔はそれでも、頭の中にいくらでも美しい景色があった。その美しい景色を、見せてあげたい人たちがいた。
でも今の俺には、そのどちらもない。
絵を捨てて、全部忘れて、どこか遠くに逃げようとも思った。でも、そうまでして生きるだけの理由も見つけられない。結局俺は、いつまで経っても止まない雨音の中、父さんと母さんが迎えに来てくれるのを待ち続ける、子どものままだったのかもしれない。
そして、あの日の神谷さんの言葉で限界を迎え、俺は屋上から飛び降りた。あの雨の日、俺は確かに死んだんだ。
痛みはなかった。苦しみもなかった。やっと終わったんだという安堵感が、胸を満たした。……けれど、俺は死ねなかった。雨音はまだ、止まらない。
雨に濡れた俺は、ぼんやりとした視界の中、声を聴いた。
「──君、どうして泣いてるの?」
1人の女の子が、こちらを見ていた。……とても、綺麗な少女だった。花から溢れた雨の雫が、そのまま
「……そうか。俺、泣いてたのか」
少女の笑みを見て、俺は初めて……自分が泣いていることに気がついた。
「実は君に、お願いしたいことがあるんだ。君にしかできない特別なお願いが、ね」
俺が目を覚ましたあの日、浅間さんは俺にそう言った。その内容を、俺はまだ聞いていない。彼女の願いを、俺はまだ知らない。……ずっとそう思っていた。でも彼女は、俺と出会ったあの雨の日に、ちゃんと自分の願いを話してくれていたんだ。
「──君に、私を殺して欲しいんだ」
その言葉を聞いて、俺は思った。この美しい少女は、美しいだけの少女ではないのだと。彼女は花ではなく、人だった。俺はこの少女のことなんて、何も知らない。でもこの少女も俺と同じで、決して自分を赦すことができない人間なんだ。
力になりたいと思った。
俺にはこの少女が、泣いているように見えた。強くて決して傷つくことのない少女は、それでも怪物ではなく人間で、確かに痛みを感じている。
だから俺は、この少女の為に生きようと思った。生きて、彼女を笑顔にしてあげたいと、そう強く思った。……つまり、有り体に言えばそれはただの一目惚れで、でも同時にそれはやはり運命だった。
──俺は生きて、彼女の為に美しい世界を描こうと思った。
「……ははっ、馬鹿みてぇ」
死ぬ間際に見た走馬灯は、恥ずかしい恋の記憶で、でも……それだけで生きるに足ると思えるほど、忘れてはならない記憶だった。
俺は確かに、浅間さんのことを何も知らない。彼女が何を思って父親を殺したのかなんて、想像することもできない。……でも、彼女のあの美しい笑みの奥には、自ら死を望むような弱さがあった。
「……ははっ」
そんなの、ただの都合のいい妄想かもしれない。あの男の言う通り、浅間さんは本当は悪人なのかもしれない。……でも、綺麗だと思った。美しいと感じた。彼女の力になりたいと思った。誰に否定されても、その想いは決して……嘘にはならない。
──なら、今はもうそれでいい。
「……君も中々、しつこいな」
男は忌々しげに、舌打ちをする。
「どうして、立ち上がる? 死ねば君は救われるのに、何の意味があって死に抗う? あんな親殺しの魔女に、そこまで肩入れする理由は何だ? よく知りもしないあんな女の為に戦うと……生きると、君は本気でそんな戯言を言うつもりか?」
不愉快げな男の顔を見て、俺は笑った。
「……どうやらお前は、知らないようだな」
集まるカラスを振り払い、立ち上がる。もう問答はいい。もう覚悟は決めた。1番大切なことは、もう思い出せた。今さら誰に何を言われようと、少しも恥じるつもりはない。誰にどれだけ否定されても……好きなら、胸を張っていいんだ。
浅間さんはきっと、間違えている。でも俺は……そんな彼女が、好きなんだ。彼女と俺が相容れなくても、その想いは誰にも否定できない。
俺は男を正面から見据え、言った。
「──来いよ、鳥使い。お前に俺の
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