第21話 それぞれの



 神谷 夜奈は、後悔していた。



 進を馬鹿にするような絵が、美術部のグループに投稿された。しかし誰も、それを責めるようなことも、咎めるようなことも言わない。寧ろ皆、楽しそうに進のことを馬鹿にする。


 夜奈はそんな状況が気に入らず、不機嫌そうな顔でいつもの帰り道を歩きながら、先日のことを思い出す。


「馬鹿馬鹿しいな……」


 テスト前で、ちょうど部室に人が誰もいないタイミングを見計らい、比治山 薫たちは美術室にやって来た。そして進に見せつける為に、わざわざ黒板にあんな絵を描いてみせた。夜奈は偶々、美術室に訪れた際その現場を見つけてしまい、声を荒げて薫たちを止めようとした。


 言い合いになったが、薫たちは自分たちが正しいと思い込んでいるのか、一歩も引こうとはしなかった。そんな状況に埒があかないと思った夜奈は、力ずくで強引に絵を消そうとしたが、そんな彼女に薫は言った。


「貴女だって蒼井さんを散々、馬鹿にしていたではないですか。そんな貴女が今さらいい子ぶって、それで許されると思っているのですか?」


「……っ!」


 反論できなかった。ここで進を助けても、彼はもうこちらを見てくれない。この少女たちは知らないのだろうけど、進はもう遠くの世界に行ってしまった。……きっと進は、助けて欲しいとすら思ってはいないのだろう。


 手が止まってしまった夜奈に追撃するように、薫は言った。


「貴女のそれは偽善ですよ? 誰の立場も考えず、言いたいことだけ言って許されるのは、子どもだけです」


「そんな……そんなこと! 貴女たちに言われたくないです! ……いい加減にしてください! こんな風に嫌がらせの絵を描いて喜んでる人たちが、偉そうなこと言わないでください!」


「わたくしたちはただ、間違っている人に間違っていると伝えたいだけです。……わたくしたちは曲がりなりにも、絵の道を志す者なのです。そんなわたくしたちが、伝いたいことを絵にするという行為が間違ていると、貴女はそう仰るのですか?」


「……っ!」


 反論の言葉が思い浮かばず、夜奈はそのまま逃げるように美術室から出て行った。その途中、運悪く進と遭遇してしまったが、彼女は進を止めることも、薫たちを止めることも何もできなかった。



 そしてその翌日、進は学校を休んだ。



 あの絵のことを気に病んで……とも思えないが、進が屋上から飛び降りたという話をこの前、莉里華から聞いたばかりだ。……夜奈は心配だった。でも今さら、メッセージを送ることも、電話することもできない。


 薫たちは、まるで自分たちが正しいことをしたと言うかのように、自慢げにあの絵のことを吹聴して回っていた。自分たちは進に勝ったのだと、進が学校を休んだことを都合よく解釈し、彼女たちは悦に浸っていた。


 副部長である蓮吾がそれを止めるのかと思ったが、彼は進とコンペで勝負するということを、高揚した様子で語っているだけで、薫たちを止めるようなことはしなかった。


 そして莉里華も、そんな部内の騒ぎをどこか冷めた目で見下しているだけで、別に注意したりすることはしない。彼女は何かを考えるように、1人ぼーっとしていることが多くなった。


 莉里華がそういう態度をとるから、蓮吾が意地になるのだと夜奈は思ったが、それを指摘するだけの元気が夜奈にはもうなかった。


 結局、テスト前だというのに美術部内ではつまらないことで盛り上がり、誰もそれを止めようとはしない。進はテスト前で溜まったストレス発散の捌け口にされてしまい、部内での彼への嘲笑は日に日に酷くなっていく。


「あたしが、もっと前に素直になって、先輩の力になってあげてれば……」


 そうすれば、或いは進も夜奈に好意を持ってくれたのかもしれない。もっと前に素直になっていれば、彼も自分を必要としてくれたかもしれない。


 でももう、全てが遅い。


「……っ」


 あの雨の日の、浅間 衣遠の顔。それを思い出すと、悔しくて悔しくて胸が張り裂けそうになる。


「ほんと、何やってんだろ、あたし」


 結局夜奈は、進に許してもらうことも、彼の力になることもできない。進がつまらない奴らにどれだけ嘲笑われたとしても、夜奈にそれを覆す力はない。


「……最悪」


 空を見上げる。また、雨が降り出した。傘は持ってきてはいない。何もかもが上手くいかない世界に、夜奈はまた大きく息を吐いた。



 ◇



 宇佐 莉里華は、くだらないと思った。



 美術部のグループに投稿された、1枚の絵。それは、特別扱いを受ける進を揶揄した絵だった。でもそれを見ても、莉里華は特に何も思わなかった。芸術の世界は残酷だ。10年努力しても、なんの成果も出せない者が数多くいる。


 そんな中で、何も描かない進が誰よりも高い評価を受ける。それに苛立ちを感じている生徒は、数多くいる。特に比治山 薫は、昔から進を敵視しているようだった。


 夜奈のように好意の裏返しではなく、自分のように……彼の才能を嫌悪している訳でもない。彼女は純粋に、進自身のことを嫌っているようだった。……きっと彼女は、自分こそが特別扱いを受けて然るべきだと、そう思っているのだろう。


「自己顕示欲が強くなきゃ、こんな絵は描かないもんね」


 下手な絵だ。けれど人を傷つけるだけなら、こんな絵で充分なのだ。描けない進がこの絵を見たら、何を思うのか。描けない今の進は、こんなものしか創れない薫より、劣っているということになる。


 歴史上には、人を傷つける為に描かれたような名画も存在する。その絵を見た人間が、怒り狂って破こうとした絵が、多くの評価を受けるような世界だ。


 自己顕示欲も嫉妬も劣等感も、立派な感情だ。それを武器にした薫を、莉里華は悪だとは思わない。


「結局、描かない進くんが悪いんだよ」


 進が自分のせいで家族を亡くしたことを、ずっと悔いているのは知っている。彼が強いトラウマのせいで、精神を病んでいるのも分かっていた。


 それでも莉里華は、進を助けようとは思わなかった。……天才も、枯れるのだということに、凡才である彼女は救われてしまったから。


「……っ。頭、痛いな」


 なのに、あの時の浅間 衣遠の笑顔を思い出すと、頭が痛む。……気に入らないと思った。あの勝ち誇ったような顔が、死ぬほど気に入らない。思い出すと今でも、苛々して仕方がない。


「でも、もういいよ。貴女じゃ進くんを変えられない。結局、貴女も外側を見てるだけだから」


 進が抱えている問題は、進自身でどうにかしなければならないものだ。そして今の進には、それだけの力がない。……昔の進なら、あんな絵を描かれて程度で学校を休んだりはしなかった。



 あの世界を染め上げるような天才は、もう居ない。



 放課後の教室で、莉里華は小さく口元を歪める。そんな莉里華に、別の教室からやって来た蓮吾がどこか高揚した様子で、声をかける。


「なぁ、莉里華。美術部のグループ見たかよ? あの絵、笑ったよな?」


 莉里華は『くだらないな』と思いながらも、いつもの作り笑いを浮かべる。


「見たよ。……進くんも、あんなので本気で怒ってたらしいね。ほんと、馬鹿みたい」


「ははっ。あいつは昔から、悟った顔して短気だからな。昔はそれを支える才能があったが、今のあいつは単なる短気の馬鹿だ」


「でも蓮吾くんは、そんな進くんと勝負するって言ったんでしょ?」


 莉里華に真っ直ぐに見つめられ、蓮吾は逃げるように視線を逸らす。


「そ、そうだ! 俺がここで完膚なきまでにあいつを叩き潰して、美術部から追い出す! そうすりゃ、余計な問題も起こらず、お前が傷つくこともない!」


「私が傷つく? 何に?」


「あ、いや、それは……」


 蓮吾は一歩後ずさり、手をぎゅっと強く握りしめる。


「と、とにかく! 進の奴はもう、才能の枯れた枯れ枝だ! 俺があいつを超えて、それを証明する! だから、その……俺が進に勝ったら、今度こそ俺と……」


「分かった分かった。私も別に、蓮吾くんのことは嫌いじゃないからね」


「ほ、ほんとか!」


 莉里華のを聞いて、蓮吾の顔がパッと明るくなる。


「……結局、描かない進くんが悪いんだよ」


 莉里華は最後にもう一度、同じ言葉を呟いた。



 ◇



 浅間 衣遠は笑っていた。



 進が討伐者のルスティーチェと食事をした同日の深夜。衣遠は、楽しげに口笛を吹きながら、進が待ってくれているはずの部屋に戻ってきた。


「……あれ? 蒼井くん、まだ出かけてるのかな……?」


 けれど進は、どうやらまだ帰ってきてないようだ。残念だな、と思いながら衣遠は窓の外に視線を向ける。すると、そこには1羽のカラスが。


「……あいつも中々、しつこいな」


 衣遠は窓を開ける。カラスは綺麗な封筒を落とし、そのままどこへと飛び去る。衣遠は強引にその封筒を破り、中の手紙を確認する。



『君の番犬は預かった。返して欲しければ、あの日の館に来い』



 たったそれだけの、簡素な内容。それを見て、衣遠は裂けるように口元を歪めた。


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