第19話 期待



「奨学金の延長が決まったって、それ本当ですか⁈」


 莉緒さんとラーメン屋をはしごした翌日の放課後。美術部の顧問である八坂先生に呼び出されて美術準備室にやって来た俺に、先生はまた禁煙用のガムを噛みながら、そんなことを言ってのけた。


「ついさっき、そういう通達があったんだよ。なんでも、理事長たってのご希望だとか」


「……それって、俺の親戚が理事長と知り合いだから──」


「ちげーよ。あの人は単に、お前のファンなんだよ。だから多少強引にでも、お前の援助がしたいんだと」


「って、言われましても……」


 有難い話ではあるが、今更もう奨学金は必要ない。今までお世話になった手前、失礼なことは言えないが、今ここで延長されてしまうとトラブルの元だ。


「今から辞退って、できますか? 俺が直接、理事長に頭を下げに行きますよ?」


「お前なぁ。そんな単純な話でもねぇんだよ」


「でも、理事長が俺のファンだから奨学金を延長させたって、めちゃくちゃ公私混同してるじゃないですか。周りから、いい感情は待たれないんじゃ……」


「だからって、お前が頭を下げてどうにかなることじゃねーんだよ」


 八坂先生は、面倒くさそうに椅子の背もたれに体重を預け、大きく息を吐く。


「お前はまだ若いから分かんねぇだろうが、大人の仕事の半分は、お偉方のわがままをどう処理するかってところにあるんだよ。今お前が頭を下げても、別のところで別の問題が起こる。余計な仕事は、増やさないでくれ」


 そういうものなのだろうか? まあ、辞めるなら辞めるで、もっと早くに伝えるべきだったのだろう。無理して延長してもらった後に、やっぱ要らないですと言われると、向こうのメンツも潰れてしまう。


「でも、俺はもう……2年以上、まともに絵を描いてないんですよ? この高校に入学してから、まだ1枚も完成させてない。それなのにその理事長さんは、俺に期待してくれてるんですか?」


「お前らみたいに若い奴からすれば2年は長いだろうが、年寄りからしてみれば2年なんて、昨日のことみたいなもんなんだよ。お前がこの高校に入学して、まだ1年と少し。理事長からしてみれば、お前なんてついこの間、入学してきたようなもんだ」


「その感覚は、まだちょっと分からないですね……」


 期待してくれているのは嬉しいが、さて……どうしたものか。別に、延長してくれるなら拒む理由はない。期待してくれるのも、有難い話だ。……ただ、どうしてもモヤモヤしてしまう。


 俺は奨学金の為に、死ぬ気で絵と向き合っていた。……それこそ自殺するまで、俺は追い詰められていた。なのに、理事長が気に入っているからなんて理由で、奨学金の延長が決まった。



 ──それだと本当に、ただのコネ野郎だ。



 俺は小さく息を吐く。八坂先生は偉そうに足を組んで、言った。


「エトワール絵画展。50年近く続くそのコンクールで、日本人での受賞者はお前を入れて3人だけ。世界を見渡しても、未成年での受賞は初だ」


「いきなり、何の話ですか?」


「お前の話だよ」


 八坂先生は呆れたように目を細め、言葉を続ける。


「エトワール絵画展で入賞した絵画が、過去に何億という値段で取引されたこともある。絵画に人生捧げた奴が、その人生を投げ打っても、入賞まで手が届かないなんてザラにある世界だ。お前は、紛れもなく天才なんだよ。……それは自分でも、分かってるんだろ?」


「まあ、あの絵の価値は理解してるつもりですよ」


「それでもまだ、過小評価なんだよ。……お前が思っている以上に、お前に期待してる奴は多い。お前はもう少し、それを自覚しろ」


「美術部だと、俺は嫌われ者でしかないですけどね」


 俺は誤魔化すように笑う。八坂先生は少しも笑うことなく、またガムを取り出す。


「若いとどうしても、目に見えるものだけが全てだと思いがちだからな。……だが、才能ってのは、目に見えない。目に見えないからこそ、価値がある。お前らの年齢で、それを理解しろとは言わんがね」


「…………」


 俺は何も言わない。この先生も昔は天才と言われ、いろんな賞を総なめにしていた。ただ、ある時期から絵を描かなくなり、唐突に画家を引退してしまった。



『あたしはお前とは違う。あたしは描けないんじゃなくて、描かないだけだ。だからあたしじゃ、お前の力にはなれない』



 俺がこの部に入部した直後、先生はそんなことを言った。この先生が何を考えているのか、今でもそれは分からないが、きっと先生にもいろいろあったのだろう。


「でも俺、奨学金は打ち切りだって、聞いてたんですけどね」


「そりゃ……比治山ひじやまが辺りが、流した噂だろ」


「……と、いうと?」


「お前、同級生の名前くらい覚えとけよ。……比治山ひじやま かおる。今は伸び悩んでるが、昔はいくつか賞を取ったことがある優秀な奴だ。ま、お前の実績と比べると子どものお遊戯会みたいなもんだが……。その子は教頭の娘さんでね」


「……なるほど。娘さんより描かない俺が優遇を受けているのが、気に入らないと」


 どうやら教頭先生は、中々に親バカのようだ。


「ま、本来、奨学金ってそういうもんじゃねぇんだけどな。どうも、大人のオモチャになってていけねぇよ。そういう恣意的な行為の皺寄せは、ガキであるお前らにいくんだからよ」


 八坂先生が、真っ直ぐにこちらを見る。先生がどうして俺を呼び出したのか、なんなく分かった。


「あたしはダメ教師だからな。お前らが多少、揉めた程度で口を挟むつもりはない。よっぽどなことにならない限り、自分たちでどうにかしろと思ってる。それくらいは、できる奴らだと信じてる」


「美術部、俺も含めて性格悪い奴しかいませんよ?」


「ちっさい箱庭で、誰が上か競い合ってんだ。嫌なところが表に出るのは当然だよ。問題があるとするなら、それを自覚できない奴がいるってことだ」


 どこかニヒルな感じで口元を歪め、八坂先生は大きく息を吐く。


「とにかく、どうしようもなくなったら、あたしに相談しろ。大抵のことはどうにかしてやる。……ただ、そうなるまでは、自分の力でどうにかする方法を考えろ。それもまた、勉強だ」


「俺、昔から人に頼るのは苦手なんですよね」


「だったらガキのうちに、慣れておけ。人に頼れない大人は悲惨だぞ? 他ならぬあたしが言うんだから、間違いねーよ」


 八坂先生は、笑った。俺はそんな先生に苦笑いを返して、美術準備室から出ていく。


「……また、揉めそうだな」


 奨学金のことが噂になるまで、そう時間はかからないだろう。……いや、教頭先生の娘が同じ美術部にいるのなら、もう既に噂になっていてもおかしくはない。


「ま、正直そんなの、どうでもいいんだけどな」


 そういうのに追い詰められて、自殺までしたんだ。今さら余計なことに関わるつもりはないし、気にするだけの理由もない。……そうは思うがしかし、放置しておいてもろくなことにはならないだろう。


 トラブルなんて、放置すればするだけ悪化するものだ。


「とりあえず、美術部の方にも顔を出してみるか」


 うちの部活は元から自由参加なので、テスト前だからといって、部活休止になったりはしない。……といっても、こんな時期に部室に来るのは、相当な暇人か、或いは……。


「いい加減にしてください!」


 美術室の扉に手をかけたところで、そんな声が響いた。俺は思わず、扉から手を離す。するとちょうど扉が開いて、凄い目つきをした神谷さんが出てくる。


「…………」


 目が合ったが、彼女は何も言わず、そのまま部室から立ち去る。


「神谷さんもいい加減、短気だよな……」


 またなんか、揉めてるのか? なんて思いながら美術室に入ると、黒板前にたむろしている女子の集団を見つける。それで俺は、八坂先生が言っていた比治山という女の子のことを思い出す。


 比治山 薫。背が低いけど目付きの鋭くて、どこか威圧感のある少女。……この子は確か、少し前に生意気な神谷さんに嫌がらせをしようとして、俺がそれを注意して止めたんだった。


 比治山さんは俺の方を見て、一瞬驚いた顔をするが、すぐに嘘くさい作り笑いを浮かべて口を開く。


「聞きましたよ? 蒼井さん。奨学金の延長が、お決まりになったようですね?」


「みたいだね」


 と、俺は適当に言葉を返す。そんな態度が気に入らないのか、比治山さんは張り付けたような笑みを浮かべ、言う。


「それにしても、蒼井さん。随分と理事長さんに気に入られているようですね? 蒼井さんは華奢でお顔も可愛らしいですから、媚の売り方もさぞ、お上手なのでしょうね」


「どうかな。比治山さんよりかは、上手いとは思うけどね」


「……っ」


 自分から挑発しておいて、返されると不機嫌そうな顔をする。……典型的だな。


「なんて、冗談だよ。奨学金は辞退するつもりだし、君たちに祝ってもらう必要はない」


「……そうですか。それはつまり、端金なぞお前に譲ってやると、そう仰っているのですね?」


「譲るとか譲らないとか、そういう話じゃないでしょ? ……単純な実力で言うなら、次は蓮吾か宇佐さんだろうし」


「その言い方だと、まるでその2人より自分の方が優れていると言っているように、聞こえますよ? その2人は描かない貴方と違って、ちゃんとした成果をお出しになっていますから」


 比治山さんは小馬鹿にしたような顔で笑い、言葉を続ける。


「わたくしは別に、自分が奨学金を頂きたいなどとは、思っていません。ただわたくしは、コネで不正に奨学金を受給している貴方のことが、気に入らないと言っているのです」


「気に入らないなら、どうするの? 前の神谷さんの時みたいに、嫌がらせでもするつもり?」


 俺はわざと、挑発するようなことを言う。そんな俺の言葉を聞いて、比治山さんは小さく口元を歪める。


「貴方は随分と、あの子のことをお庇いになるのですね? もしかして、お付き合いされていたりするのですか?」


「まさか。神谷さんとは、先輩と後輩以上の関係はないよ」


「ではどうして、わざわざあの子を庇うような真似をするのですか?」


 言われて少し、考える。神谷さんは出会った時から、俺のことを小馬鹿にしてくる嫌な子だった。あの子が俺のことをどう思っているのかなんて知らないが、俺は普通にあの子のことが嫌いだ。今後、関わるつもりもない。


 そんな神谷さんを、俺が庇った理由。それは単に……。


「君と同じだよ、比治山さん。俺もただ、気に入らないから止めたんだよ」


「それはつまり、わたくしのことが嫌いだと?」


「君のことじゃなくて、君の行動が気に入らないんだよ。……相手がムカつくからって、徒党を組んで嫌がらせをして、それで言うこと聞かせて君は満足なわけ? ……ちっせー、女だな」


「……っ!」


 比治山さんが、凄い目でこちらを睨む。……が、すぐに表情を塗り替え、彼女は小馬鹿にするような顔で笑った。


「今日は随分と、口が回るようですね? ……やはり、奨学金の延長が決まって嬉しいのでしょう。それだけ口が回るのなら、ディベート部にでも転部なさればよろしいのでは? どうせ絵なんて描かないのですし、貴方ならそちらでも奨学金を貰えると思いますよ?」


 あはははは、周りの女の子たちが笑う。俺も釣られて、笑ってしまう。


「いいね、それ。なら君たちはさしずめ、嫌がらせ部ってところか。そっちでは比治山さんも、1番になれるかもしれないね。お互い、新天地でも頑張ろう」


「……っ!」


 比治山さんの目つきが鋭くなる。蓮吾も、宇佐さんも、神谷さんも、この子も。自分が言うのはよくて、言い返されるのは許せないのか。……どれだけ下に見られてるんだ、俺は。


 俺は疲れたように息を吐いて、少女たちに背を向ける。この子とこれ以上、言い合いをしても仕方ない。


「待ってください、蒼井さん。……どうしても、貴方に見て欲しい絵があるんです。この絵、とてもいい絵だとは思いませんか?」


 その言葉に振り返る。少女たちが黒板から離れると、そこにはスーツ姿のおじさんの靴を舐める、可愛らしい男の子の絵が描かれていた。


「……へぇ」


 理事長に媚を売る、卑しい男。これはきっと、俺を描いた絵だ。……わざわざこんなものまで描くとは、俺が思っているより彼女たちは俺のことを嫌っているようだ。


 しかも、この絵のタッチは……


「わたくし、この絵で次のコンペに参加しようと思っているのですが、貴方はどう思われますか?」


「作者の精神性が反映された、いい絵だと思うよ? ……ただ、君が本気でこれを描いたなら、それは俺じゃなくて……自分自身への冒涜だ」


「描けない癖に、他人の絵は批評なさるのですね?」


「批評なんてしてないよ。ただ……」


 俺はどれだけ描きたいと思っても描けなくて、ずっと苦しんできた。それなのに、自由に描きたいものを描ける奴らが、こんなくだらないものを描いて嗤っている。


 ……苛々して、仕方がない。


「ただ、なんですか?」


 と、比治山さんは笑う。俺は言った。


「テメェの性根が、気に入らねぇつってんだよ。……なんだよその不細工な笑みは。鏡見て出直してこい」


「っ……!」


 少女たちが、怖がるように後ずさる。……どいつもこいつも、本当にくだらない。


 俺は呆れるように息を吐いて、部室から出て行く。……しばらくした後。その絵の写真が美術部のグループで共有され、俺が笑いものにされているという話を聞いた。


「ははっ」


 なのにどうして俺は、笑っているのだろう。その理由は自分でも、よく分からなかった。


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