第17話 苛立ち
顧問の八坂が立ち去り、蓮吾が進を連れて部室から出て行ったあと。美術部の部室には、ざわざわとしたどよめきが広がっていた。
「コンペだって、どうする?」
「八坂先生に見てもらえるなら参加してみたいけど、どうせ選ばれるのは東山先輩とかでしょ?」
「だよねー。あ、でもそういえば、久しぶりにコネ先輩……蒼井先輩、来てたよね? 飛び降りたとか、やっぱりデマだったんだ」
「まあ、今さら何しに来たのって感じではあるけどね。奨学金も打ち切られたらしいし、あの人の特別扱いもようやく終わりかー」
「さっき東山先輩が、凄い顔して連れてったもんね。今ごろ、クビとか言われてたりして!」
「なに言ってんのさ、部活にクビなんてないって!」
楽しげに笑う部員たち。美術部には、進の味方は1人もいない。例え過去にどれほどの実績があったとしても、彼女たちが知る進は特別扱いされてる癖に絵も描かない、そんな情けない男でしかない。
「……馬鹿みたい」
そんな中、莉里華は1人頬杖をついて、小さく息を吐く。見るからに覇気がなく、いつもの張り付けたような笑みも見えない。普段とは全く違う暗い雰囲気の彼女に、誰も声をかけようとはしない。
……空気を読まない、夜奈以外は。
「蒼井先輩と東山先輩、行っちゃいましたよ? 追わなくて、いいんですか?」
夜奈にそう声をかけられ、莉里華は不愉快げに口元を歪める。
「そんなの、私には関係ないよ。というか神谷さん、お肌荒れてるよ? ちゃんと寝れてないんじゃないの?」
「……今はそんなこと、どうでもいいじゃないですか。それを言うなら宇佐先輩の方こそ、髪に艶がないですよ?」
夜奈は莉里華の近くの椅子に座り、大きく息を吐く。
「神谷さんは、八坂先生の言ってたコンペに参加するつもりなの?」
「あたしは別に……時間があればって、ところですかね。あの先生、人の話聞いてくれないから苦手なんですよ」
「芸術家なんて、皆んなそんなもんだよ。絵を描かなきゃ、ただの変人でしかないからね」
「今は先生なんだから、もうちょっと……ちゃんとして欲しいんですけどね」
夜奈は足をぷらぷらとさせながら、机に体重を預ける。
「宇佐先輩は、参加するんですよね? コンペ。順当に行けば、勝つのは宇佐先輩か、東山先輩なんですから」
「私は出ないよ。なんかもう……疲れちゃった」
「……それって、蒼井先輩のことですか? それとも、東山先輩のことですか?」
「さあ、どうかな」
莉里華は、誤魔化すような笑みを浮かべる。夜奈は不愉快そうに、眉をひそめる。
「いい加減、はっきりしたらどうですか? 東山先輩と、蒼井先輩のこと。それともまた、あたしみたいな子どもには分からないって、そう言うんですか?」
夜奈の真っ直ぐな目に見つめられ、莉里華は大きく息を吐く。
「……いちいち、うるさいな。分かったよ、分かった。私は、進くんと付き合ってたの。それで彼が落ちぶれたから、蓮吾くんに乗り換えた。……これで、満足?」
「それが本当なら、宇佐先輩は最低ですよ」
「で? そういう自分はどうなの? 進くんに、ちゃんと謝れたの? 進くん、貴女の方に視線も向けてなかったけど、追いかけなくてもいいの? 助けてくれてありがとうって、ちゃんと言えた?」
「それは……」
そこで夜奈は、思い出す。この前の夜の、怪物のような目をした進のことを。謝ることはできた。許しても貰えた。でもそれはただ、相手にしてもらえなかっただけ。
……夜奈はどこかで、自分が特別なのだと思っていた。進にとって自分は特別な存在なのだと、そう信じていた。それをあの夜、真っ向から否定された。思い出すと、恥ずかしさに逃げ出したくなる。
「……っ」
夜奈は痛みを堪えるように、スカートの端をぎゅっと強く握りしめる。そんな夜奈を見て、莉里華はまた疲れたように息を吐く。
「進くんはね、昔から強かった。いつもどこかで、私たちとは全く別のことを考えてるような、そんな独特な雰囲気があった」
「それはあたしにも……なんとなく、分かりますけど……」
「対する蓮吾くんは、弱虫だった。ううん、蓮吾くんは今でも弱虫。頑張って自分を大きく見せないと、不安で不安で仕方ない。……昔はあんなに、怒ってばっかじゃなかったのにさ」
「東山先輩が怒るのは、蒼井先輩の話をしてる時だけですよ」
「だろうね。私たちは、進くんって天才に狂わされた」
莉里華は前髪に指を絡め、目を細める。
「だから、進くんが絵を描けなくなった時、私は……」
「ざまぁみろって思ったんですか? 最低ですね」
「……そうだよ、私は最低な女なの。私は私より才能がある人間が全員、嫌いだから」
「…………」
しばらく沈黙した後、夜奈は言った。
「宇佐先輩は、このままでいいんですか?」
「……進くんのこと?」
「東山先輩のことですよ」
「知らない。どうでもいいよ。私にはもう、関係ない」
それだけ言って、莉里華は立ち上がる。……今日、進が登校してきたと聞いて、彼女もどこかで、もしかしたらと期待していた。進が自分のところに来て、何か言ってくるんじゃないかと、そんな期待を捨てられなかった。
でも実際は彼は、莉里華の方に視線を向けることすらしなかった。彼にとってはもう、莉里華とのことも夜奈とのことも、終わったことでしかないのだろう。
「蓮吾くんはきっと、進くんに絵で勝負とかそんなこと言ってるんだろうな……」
描けない相手に勝って、それで彼の自尊心は満たされるのだろうか? ……もし、負けるようなことがあったら、彼は一体どうすつもりなのだろう?
『今度のコンテストで賞を取れたら、俺と……付き合ってくれ!』
そう言った蓮吾の言葉を、莉里華は思い出す。男なんて、皆んな馬鹿だ。自分の価値を証明したら、それで相手が惚れてくれると思っているのだから。
「……それは私も、同じか」
進の才能を否定したら、それで自分の価値が上がるのだと、どこかでそんな馬鹿なことを思っていた。……この前、浅間 衣遠に言われた通りだ。莉里華はどこかで、自分は進にとっての特別なのだと思い込んでいた。
でも、この前の夜でのこととさっきの彼の目を見て、そうではないのだと気がついた。ならもう関係ないと割り切ってしまえばいいのに、未だにこんなに胸が痛むのは……。
「……もしかして宇佐先輩って、蒼井先輩の気を引きたかっただけなんじゃないですか? だから、そんな──」
「それは貴女の方でしょ? 神谷さん。子どもみたいに悪口言って、本気で拒絶されたら被害者ヅラ。……どうせ進くんにも、相手にされなかったんでしょ?」
「……っ! 貴女にそんなこと、言われたくないです! 遊んでるように見えて実は純情……とか、馬鹿みたい。実はずっと好きだったなんて言葉だけで、遊んできた過去は帳消しにはなりませんよ?」
「……そういう言い方は、カチンとくるな。そもそも私、遊んでなんかいないし」
「さっき自分で、乗り換えたって言ったじゃないですか? それともその程度、宇佐先輩の中では遊んでるうちには入らないんですか?」
2人は睨み合う。結局、こんなところで言い合いをしても、何の意味もない。それは2人とも、分かっていた。分かっていても、今から進に話しかけるだけの勇気が2人にはなかった。
莉里華は、乾いた笑みん浮かべ、言った。
「神谷さんは知らないだろうけど……進くん、本当に屋上から飛び降りようとしたんだって。この前、偶然会ったとき本人がそう言ってたよ」
「……え?」
その言葉を聞いた瞬間、夜奈の顔が青く染まる。莉里華は乾いた笑みを浮かべ、言う。
「私が進くんを追い詰めた。貴女も進くんを追い詰めた。……私たちは中学の頃のあの進くんを知ってるから、どこかで彼は何をしても平気な怪物なんだと、そう思い込んでいた」
「……飛び降りたって、それ……ほんとうなんですか?」
「私も進くんも、そんな嘘はつかないよ。……それで、その進くんを助けたのが、あの女……浅間 衣遠なんだってさ」
そこで夜奈は思い出す。あの日の夜、屋上からこちらを見下す、真っ赤な瞳を。
「そんな事情があって、進くんは浅間 衣遠に夢中。……どうせ騙されてるだけなのに、ほんと男って馬鹿」
「……騙されてるって、なんですか? どうして浅間 衣遠が、先輩を……」
「この前、進くんが深夜の裏路地で、ボロボロになって倒れてるのを見つけたんだよ。犬と遊んでたとか、意味わかんないこと言ってたけど、どうせあの女に変な遊びに付き合わされてるんでしょ」
「…………」
そういえばと、夜奈は思い出す。あの日も進は、深夜の廃ビルから出てきたようだった。あんな場所、何の用もなく行くところではない。
嫉妬が、判断力を鈍らせる。後悔が、思考力を削ぐ。罪悪感が、焦燥感に変わる。
「あはっ」
莉里華は笑った。それはとても無理やりな笑みだったけど、本人はそうだとは気がついていないのか。声はどこか、高揚しているようだった。
「だから、そうだね。私が進くんに声をかけるとするなら、進くんが浅間 衣遠に捨てられて、落ちぶれた時かな」
「……宇佐先輩は、落ちぶれた男には興味ないんじゃないですか?」
「さあ、どうだったかな」
それだけ言って、莉里華は美術室から出て行く。夜奈はそんな莉里華を引き止めることはせず、疲れたように息を吐く。
「……あたしも帰ろ」
莉里華の姿が見えなくなってから、夜奈も美術室を後にする。……部内のコンペなんて、そんなものに参加するだけの余裕が彼女にはもうなかった。
「……あれ?」
しばらく歩くと、どうしてか昇降口の近くで立ち止まっている莉里華の姿が見えた。
「宇佐先輩、こんなところで──」
言葉の途中で、夜奈も気がつく。……雨が降っている。梅雨はもう明けたと思っていたのに、嫌になる。折り畳み傘を持ってきていただろうかと、夜奈は足を止める。
「……あ」
そんな夜奈の隣を通り過ぎたのは、目立つ白髪の少女。彼女は鞄から折り畳み傘を取り出すが、昇降口で傘を持って佇んでいる少年の姿を見つけ、慌ててそれを鞄にしまう。
衣遠は、幸せそうに笑った。
「蒼井くん、待っててくれたんだ。ちょうどよかった。傘持ってくるの忘れちゃったから、家まで入れてよ」
「別に、待ってた訳じゃないけどね」
「ふふっ。もしかして、照れてる? ま、いいや。私、アイス食べたいから、帰りに買って帰ろうか? お姉さんが、ご馳走してあげる」
「浅間さんって偶に歳上ぶるけど、俺と同い年だよね? それとも実は……歳上だったりする?」
「さて、どうかな」
2人は同じ傘の下、仲睦まじげに歩き出す。……ふと、衣遠が背後に視線を向ける。莉里華も夜奈も、自分のことを見ているのだと思い、身体に力が入る。
──衣遠は、笑った。
その笑顔を見て、2人の胸に生じた痛み。後悔と嫉妬。進のいないところでつまらない言い争いをしていた自分が、急に恥ずかしくなる。……けれど2人はその感情を言葉にすることができず、幸せそうに歩く進と衣遠を、遠くから眺めることしかできなかった。
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