第13話 後悔
俺と蓮吾と宇佐さんの3人は、仲のいい幼馴染だった。
偶々、近所に住んでいた同い年の男の子と女の子。東山 蓮吾と、宇佐 莉里華。小学校に上がる前からの幼馴染である俺たちは、どこに行くにも一緒で、どんな秘密も隠さず話せる親友だった。
蓮吾は昔から身体が大きい奴だったけど、子供の頃は今とは違い内気な奴で、いつも周りの顔色ばかり窺っていた。宇佐さんは昔から器用で何でもできて、俺と蓮吾はいつも宇佐さんの後ろをついて回っていた。
宇佐さんは俺たちの、憧れだった。
俺たち3人は、とても仲がよかった。学校も放課後も、いつも3人で一緒にいた。これからもずっと3人で一緒にいるのだと、そう信じて疑うことはなかった。……そんな3人の関係に亀裂が入ったのは、近所にできた絵画教室に3人で通うようになってから。
俺は別に、特別な才能があるわけではかった。寧ろ、最初はめちゃくちゃ下手で、よく先生に叱られた。蓮吾も宇佐さんも、そんな俺をよく笑っていた。……けれど俺は、のめり込んでいた。病的と言っていいくらい、俺は絵に熱中していた。
俺はすぐに絵画教室を辞めて、1人で黙々と絵を描き続けるようになった。中学に上がる頃には、俺は絵のことばかり考えるようになっていて、2人はどこか引いているようだった。そして俺が、適当に送った海外のコンクールで入賞した後、宇佐さんが俺に告白してきた。
突然のことで俺は悩んだが、俺は宇佐さんの好意を受け入れることにした。宇佐さんなら、俺の気持ちを理解してくれるんじゃないかと、そう思ったから。
2人で何度も、デートをした。学校でもよく、話をするようになった。俺は依然として、絵のことばかり考えていたが、宇佐さんが隣に居てくれると安心した。彼女は俺のあの苦しみを、理解してくれているのだとそう信じていた。
でも、俺の両親が亡くなって、俺が絵を描けなくなったあと。彼女は俺を、避けるようになった。俺は自分のせいで両親が亡くなったことを悔やみ、自暴自棄になって周りとも距離ができていた。それから何もかもが、上手くいかなくなった。
そして先日、蓮吾と宇佐さんが手を繋いで歩いているのを見た。
別に、2人が付き合っているなら、それはそれで構わない。2人がどういう関係でも、俺にはもう関係ない。今ならそう思えるだけの余裕がある。だから今さら、宇佐さんが何を言ったところで、元の関係に戻るなんてことはできない。
……ただ俺には最後まで、宇佐さんが何を考えているのか、よく分からなかった。
「ねぇ、大丈夫? 進くん! ねぇってば! 進くん!」
そんな声で、意識が現実に引き戻される。……まだまだ寝足りないのか、酷く頭が重い。
「……ああ、宇佐さんか。そんな騒いでどうかしたの?」
身体を起こす。辺りを見渡して、すぐに思い出した。……ああ、そうだ。そういえば俺、路地裏で変な奴に襲われて、そのまま疲れて眠ってしまったんだった。
宇佐さんは酷く動揺した様子で、俺の腕を掴む。
「どうかしたの、じゃないよ! そんな……そんな傷だらけの身体でこんなところで寝てるなんて……何があったの? すぐに警察に連絡しないと!」
宇佐さんは慌てた様子でスマホを取り出す。俺は宇佐さんの腕を掴み、言った。
「問題ないよ。服はボロボロだけど怪我はないし。これは……ちょっと、大きな犬と遊んで噛まれただけだから。そんな大したことじゃないよ」
「犬と遊んだって、そんな……」
「とにかく、余計なことはしないでくれ。せっかく……」
せっかく、何なのだろう? 自分でもよく分からなくて、言葉に詰まる。宇佐さんは、疲れたように息を吐いた。
「ま、怪我がないならよかったよ。……でも進くん、ずっと学校休んでるよね? メッセージにも、既読もつけてくれないし。何かあったんじゃないの?」
「ああ、ごめん。ちょっと忙しかったから」
「忙しかったって……」
宇佐さんは、どうしてか痛みを耐えるような表情で、視線を下げる。俺はそんな彼女を見て、大切なことを思い出す。
「ああ、そうだ。そんなことより俺、宇佐さんに言いたいことがあったんだ」
「言いたいこと……?」
宇佐さんが首を傾げる。俺は少しも迷うことなく、言った。
「宇佐さん、俺たち別れようか」
「……っ!」
宇佐さんはどうしてか、動揺したように後ずさる。まるでショックを受けているかのような反応に、俺は思わず笑ってしまう。
「なに驚いた顔してるのさ。別に嫌なんて、言わないだろ? というか俺、見たんだよ。宇佐さんと蓮吾が、手を繋いで歩いているのを」
「! あれは……」
「言い訳はいいよ。宇佐さんにどんな理由があって、2人がどんな関係でも、今さらもう関係ないし」
宇佐さんが泣いて謝るところを見て、溜飲を下げるような感性は俺にはない。元々、終わっていたような関係だ。それこそただ続けていただけで、とっくの昔に死んでいたようなものだ。
今さら、未練はない。
「そもそも、メッセージに既読もつけてくれないってなんだよ。もう半年以上、メッセージのやり取りなんてしてないだろ? 今さらそんなこと言われても、反応に困るよ」
「……もしかして、浅間 衣遠のせいなの?」
と、宇佐さんは言った。
「それ、どういう意味?」
と、俺は言葉を返す。
「言葉通りの意味だよ。進くんはあの女に唆されて、変な遊びに付き合わされてるんじゃないの? 夜遊びの途中でそのまま道で寝ちゃうなんて、進くん……そんなことするような人じゃなかったでしょ?」
「そんなことするような人じゃないって、そんなこと言えるほど、宇佐さんは俺のこと知らないだろ?」
「そんな……そんな言い方しなくてもいいじゃん! 私たち、ちっさい頃からずっと一緒で、今だって──」
「でも、俺が何に苦しんでいるのか、宇佐さんは知ろうともしなかった」
「それは……」
夜風が頬を撫でる。鬱陶しい梅雨の風だ。
「別に、優しくして欲しかったなんて言わないよ。……でも俺さ、屋上から飛び降りたんだよ。全部が嫌になって、俺は一度……死のうと思った」
「……! ほんとなの、それ?」
「こんなことで、嘘なんてつかないよ。……それで、そんな俺を助けてくれたのが、浅間さんだった」
俺は宇佐さんの方に一歩、近づく。
「浅間さんが善人かどうかなんて、俺にもまだ分からない。でも少なくともあの子は、俺に手を差し伸べてくれた」
「……騙されてるだけかも、しれないよ?」
「それでもいいよ。俺が苦しんでる時、別の男と手を繋いで笑ってるような女より、ずっとマシだ」
「……っ!」
宇佐さんは歯を噛み締める。俺は更に一歩、距離を詰める。
「宇佐さんはさ、みんなから凄いと言われてた俺の側に、いたかっただけなんでしょ? 君はいつからか、周りの視線ばかり気にするようになっていた」
「違う! あれはただ、進くんがいつまでも……」
そこで宇佐さんは、黙ってしまう。
「はっきりしないな。……結局、宇佐さんも蓮吾と同じだ。はっきりしたことは言わず、肝心なところで言葉を濁す」
苛々する。はっきりしないことにじゃなくて、中途半端な関係を壊すことを恐れていた、過去の弱い自分に。宇佐さんと蓮吾との関係を断ったら、俺は本当に1人になる。それが怖かったから、俺は宇佐さんと蓮吾との関係をダラダラと続けてしまっていた。
でももう、大丈夫だ。もう俺は、1人になることを恐れない。……孤独でも、誰より楽しそうに笑う少女を知ってしまったから。
だから俺は、言った。
「──俺は宇佐さんのことが嫌いだよ。だからもう、別れよう。というかもう、構わないでくれ」
それだけ言って、俺はそのまま宇佐さんに背を向ける。けれど宇佐さんは俺の肩を掴み、言った。
「自分だけ言いたいこと言って、悟ったような顔しないでよ! 私だって……私だって、進くんのことなんて嫌いだよ! 大嫌い! 私は私より優れた人間が……私より才能のある人間が、嫌いで嫌いで仕方ない!」
「だったらどうして、好きだなんて言ったんだよ?」
「……っ! そっちだって、私のこと好きだって何度も言ったじゃない!」
「俺は宇佐さんのことが、好きだったよ。……昔の宇佐さんは、優しくて強い人だったから。でも君は変わった。俺も変わった。それだけのことだよ」
「でも進くん、まだ絵が描けないんでしょ?」
「…………」
俺は何の言葉も返さない。宇佐さんは笑った。
「そんな……服がボロボロになるまで変なことして、お金持ちの女の子に気にかけてもらって、それで変われたつもりでいるの? 結局、うだうだ言い訳して、絵から逃げてるだけの癖に!」
「はっ、それは君だってそうだろ? 昔は何でもできた宇佐さんが、今は下手くそな作り笑いをして男に媚びてる。真面目に頑張ることから、逃げてる。自分には才能がないなんて言い訳して、他人の才能に寄生することしか頭にない害虫が、いい女ぶってんじゃねーよ!」
俺は笑った。どうでもいいと言っておきながら、何を熱くなっているんだ、俺は。心臓をナイフで突き刺して、訳の分からない理由で俺を犬の餌にしようとした男より、俺は浮気をした幼馴染に苛立っている。
俺は大きく、息を吐いた。
「もしかして宇佐さん、嫉妬してるの? 俺の方が、宇佐さんよりずっと才能があったから。昔は何でもできる俺たちのリーダーだった君が、いつからか……つまらない外面だけの女に変わった」
「うるさい……! うるさいうるさいうるさいっ! 一度、まぐれでいい賞を貰っただけの男が、偉そうなこと言うな!!」
宇佐さんが、俺の頬を叩いた。痛みはない。その程度で今さら、痛いなんて思わない。
「浅間 衣遠も、進くんも、何にも分かってない! 私のことなんて、何にも分かってない癖に、知った風な口を叩くな……!」
それだけ言って、宇佐さんは走ってこの場から立ち去る。
「何も分かってないって、何も言わなかったのはそっちだろ……」
あの子が結局、何を言いたかったのかなんて、俺には分からない。でも俺は、言いたいことを言えた。ならもう、余計なことを考える必要はない。
俺は薄暗い夜の空を見上げ、大きく息を吐いた。
「……帰るか」
さっきは頭に血が上って馬鹿みたいなことを言ってしまったが、別に俺は自分に才能があるだなんて思っていない。そもそも俺に本当に才能があるなら、今もずっと手を動かしているはずだ。
天才と呼ばれる人間が、その裏でどれだけの修練を重ねているのか、俺はよく知っている。ピアノを弾かないピアノの天才なんていない。サッカーをしないサッカーの天才なんていない。絵を描かない絵の天才なんて、そんなのどこにもいやしない。
「ここ最近、ろくにデッサンもしてない俺が、いきなり昔みたいな絵が描けるなんて、そんなことはあり得ない」
特別な世界に身を置くことになって、それで変われたつもりでいる。宇佐さんの言葉はズレてはいるが、間違ってはいないのだろう。
「ま、もうどうでもいい。それより、別れられてよかった」
俺はそのまま、ふらふらとした足取りで家に帰って、ベッドの上に倒れ込んだ。そしてそのまま、夢なんて見ないほど深い眠りについて、目を覚ますと……空は変わらず暗いまま。
スマホを確認すると、日付が変わっていた。
「……やば、もしかして丸一日寝てたのか?」
なんだか、身体の作りがおかしくなっているような気がする。1日以上ずっと寝ていたのに、身体は軽いし、お腹も空いていない。本格的に、化け物になってきたような気がする。
「……というか、また学校サボっちゃったな。浅間さんも、起こしてくれればいいのに」
なんてことを呟いた直後、部屋の扉が開いて、浅間さんが顔を出す。
「おはよう、蒼井くん。寝起きで悪いけど、今から出かけようか? 私が君に……特別な世界を見せてあげる」
浅間さんはそう言って、蕩けるような顔で笑った。
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