第10話 最悪
浅間 衣遠は、上機嫌だった。
放課後。見慣れた学校からの帰り道。まだ青い空の下、衣遠は楽しげに口笛を吹きながら、蒼井 進が待つマンションに向かって歩いていた。
「それってさ、カノン?」
ふと響い声に足を止める。振り返るとそこに居たのは、見覚えのある金髪の少女。背は低いけど、スタイルは悪くない。自分の見せ方を知っている、どこか幼さを感じさせる屈託のない笑み。
進の幼馴染である宇佐 莉里華は、口笛を吹きながら歩く衣遠に声をかけた。衣遠は真っ赤な目を楽しげに歪め、言葉を返す。
「そうだよ。パッフェルベルのカノン。最近、よく行く近所のカフェで、ずっと流れててさ。音が耳に残っちゃった」
衣遠の答えは、とても平凡なもの。なのに莉里華は、思わず後ずさってしまう。
「……貴女が、進くん……蒼井 進の面倒を見てるって噂を聞いたんだけど、それって本当なのかな?」
「そうだよ。蒼井くん、行くところがなくて困ってるみたいだったから、私が助けてあげることにしたんだ」
「それってつまり、貴女と進くんが一緒に住んでるってことだよね?」
「そうだよ。蒼井くんの彼女としては、やっぱり気に入らないかな?」
衣遠の白い髪が、風に揺れる。それを綺麗だと思ってしまった莉里華は、逃げるように視線を逸らす。
「そりゃ、気に入らないのは気に入らないよ。でも……それ以上に、理解できない。どうして貴女が、赤の他人である進くんの面倒を見るの? 貴女は関係ない他人でも、困ってれば誰でも助けるような善人だったりするのかな?」
「そうだよ。私はいい子だから」
「……っ」
断言されて、思わず黙ってしまう莉里華。彼女はここしばらく、夜奈と同じように進のことを探し回っていた。しかし成果は全くなく、未だに彼の姿を見つけられずにいた。
だからこうして意を決して、蓮吾が進と一緒にいたと言っていた衣遠に声をかけたのだが、莉里華は既に衣遠の雰囲気に飲まれてしまっていた。
「ふふっ」
衣遠は笑う。溶け込むような笑みを浮かべて、彼女は言う。
「なんて、冗談だよ、冗談。私は蒼井くんだから、助けたんだ。彼は特別だからね」
「……それって、絵のことを言ってるの? 残念だけど進くんはもう、絵を描けないよ?」
「違う違う。私はまだ、蒼井くんが描いた絵は見たことがない。……でもその様子だと君は、彼自身ではなく彼の絵に惹かれてるみたいだね?」
「……さあ。私、天才って嫌いだから。天才が描いた絵も、あんまり好きじゃないかな」
莉里華は無意識に、手をぎゅっと強く握りしめる。衣遠は静かな目で、ゆっくりと茜色に変わっていく空を見上げる。
「天才、か。……私も1つ訊きたいんだけどさ、君と蒼井くんは幼馴染なんでしょ? だったら君は、蒼井くんがどうして絵を描けなくなったか、知ってるはずだ。なのに君は、蒼井くんを助けようとはしなかった。それは、なぜ?」
「…………」
莉里華は言葉を返さない。衣遠は気にした様子もなく、続ける。
「そんなに蒼井くんのことが気になるなら。そうやって目の下にクマを作ってまで、探し回るくらいなら。最初から彼に優しくしてあげたら、よかったんじゃないの? それとも何か……それをしたくない理由でも、あったのかな?」
衣遠が一歩、莉里華の方に近づく。莉里華はまた、後ずさる。
「……貴女みたいな人には、分からないよ。持ってる側の人間に、持ってない人間の気持ちなんて分かるはずがない。……そうだよ。進くんはみんなの期待を裏切った。期待が大きければ大きいほど、それを裏切った時の失望も大きくなる。天才なんて今の時代、誰も必要としてないんだよ!」
「ふふっ、大きな声を出さないでよ、怖いな」
「……っ」
莉里華はそこで、自分が感情的になっていることに気がつき、恥じるように視線を下げる。辺りに人影はなく、夕焼けに照らされた2人の影が、ゆらゆらと揺れる。
「……進くんは確かに、可哀想だとは思うよ。でも何年も可哀想な子に寄り添ってあげるほど、私はいい子じゃないの。理由はどうあれ、自分の力で立ち上がれない人間は置いていかれる。それだけのことでしょ?」
「ふふっ。君は見た目よりずっと、冷めた考え方をしてるんだね? ……うん。そういうのは私も嫌いじゃないよ。でもだからって、その理屈で浮気が許されるわけじゃないよね?」
「それは……」
「そもそも君が本気でそう思っているなら、わざわざ置いていかれた人間である蒼井くんを探し回っているのは、おかしいんじゃないかな?」
莉里華が自身の言葉通りに行動しているなら、とっくに進と別れて、高校生になって頭角を現し始めた蓮吾と付き合っているはずだ。なのに彼女は、ダラダラと関係性を引き伸ばし、病んでいく進を助けようともしなかった。
「君は否定したいんだね。前のあの背の高い男の子が劣等感なら、君は忌避感だ。君は純粋に恐れている、君の価値観を否定するものを。可愛いくて、要領がよくて、みんなから愛される。そんなの、本物の前では何の意味も持たないと、君は気づいてしまった」
衣遠が一歩、莉里華の方に近づく。莉里華は無意識に、口に溜まった唾を飲み込む。
「君が、蒼井くんを本当に好きだったのかどうかは、私には分からない。……いや、本気で好きだったら、浮気なんてしないか」
「だから私は別に、浮気なんて……」
「手を繋ぐだけなら問題ない。……本当にそれだけなのかどうかは訊かないでおいてあげるけど、そんなことを思ってる時点で、君は蒼井くんを軽んじているよね?」
「それは……」
莉里華は反論しようとするが、上手く言葉にできず、視線を下げる。
「君は器用だから、上手く立ち回っている気になっているのかもしれない。或いは君みたいな子が、将来、成功するのかもしれない。でも君はいつまで経っても、満たされることはない」
「……貴女にそんなこと、言われたくない」
「そうだね。私はみんなとは違うから、君の気持ちは分からない。……でも、君は蒼井くんを見つけて、何を言うつもりでいるの? 彼にはもう、私がいる。彼はもう、君なんかに頼らずとも生きている。……それとももしかして君は、未だに自分が特別なつもりでいるのかな?」
「……っ!」
莉里華は射抜くような目で、衣遠を睨む。けれど衣遠は、笑う。まるで獲物を前にした捕食者のように、裂けるように口元を歪める。
「心配せずとも、そう遠くないうちに蒼井くんの方から君に会いに行くと思うよ。だから君はこうやって彼を探し回るより、その時の為の言い訳を考えておいた方がいい。浮気した癖に、別れようと言われたらみっともなく足掻く。そんな女は、私も見たくないからね」
「……うるさい! 貴女なんかに……貴女なんかに、そんなこと言われたくない……!」
「蒼井くんに言われるよりかは、マシでしょ?」
「……っ! うるさい! うるさい!! 何も知らない女が、分かったような口を叩くな……!」
莉里華は逃げるように背を向けて、家とは反対の方に向かって走り出す。衣遠は小さく、息を吐いた。
「あの子も長くは保たないな。……でも、そんなに凄いのかな、蒼井くんの描いた絵って。一度私も、見てみたいな」
衣遠はまた口笛を吹きながら、帰り道を歩く。先ほどの莉里華のことなんて、もう既に頭から抜けてしまっているような、自然な仕草。
「思ったより、遅くなっちゃったな。蒼井くん、お客さんと鉢合わせてないといいけど……。まあでも、蒼井くんなら大丈夫か」
衣遠はそのまましばらく歩いて、いつものマンションに帰ってくる。
「ふふっ」
彼女はすぐに異変に気がついたが、慌てた様子はない。普段と同じように、慣れた手つきで玄関の扉を開ける。するとそこに居たのは、血を流して倒れた進と、初めて見るコートを羽織った長髪の男。
衣遠は、笑った。
「相変わらず下手くそだな、君たちは」
「……っ!」
衣遠は男の頭を掴む。男は必死に抵抗しようとするが、もう遅い。男の頭はぐしゃっと潰れ、衣遠はゴミでも捨てるみたいに男の身体を投げ飛ばす。
「あーあ、また部屋散らかっちゃった。……気分はどうかな? 蒼井くん」
その問いに、進はどこか高揚した声で、こう答えた。
「──最悪の気分だよ」
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