第8話 異常
「せん、ぱい……?」
夜奈の心臓がドクンと跳ねる。まるで今までとは別人みたいな顔で笑う、見慣れたはずの少年。心配になるくらい白い肌に、飲み込まれるような黒い瞳。線が細くて、どこか頼りなさを感じる普通の高校生。
彼は間違いなく蒼井 進だ。なのに笑い方が違うだけで、別人のように見える。
「……っ」
夜奈は恐怖に一歩、後ずさる。進の目が、夜奈の方を向いた。
「……なんだ、神谷さんか。こんな時間に1人で何やってんの?」
「……え?」
その瞬間、まるで魔法が解けたみたいに、進の雰囲気が見慣れたものへと変わる。夜奈は安堵するように、大きく息を吐いた。
「……先輩の方こそ、こんな時間にこんな……廃ビルで、何やってるんですか?」
「吸血鬼退治。する方じゃなくて、される方だけど」
「……は?」
意味が分からないと夜奈は首を傾げる。進はまた、笑った。
「冗談だよ。……俺に、特別な世界を見せてくれるって言った女の子がいるんだ。その子とちょっと、夜遊びしてたんだよ。……でもまさか、ここまで特別だとは思ってなかった」
「…………」
夜奈は何と返事をすればいいの分からず、視線を下げる。進が言っている言葉の意味が、全く分からなかった。……でも、前と同じように進と話すことができている。夜奈はそれが、嬉しかった。
「とにかくもう遅いから、神谷さんは帰った方がいいよ。この辺は……危ないから」
どうでもよさそうに言って、そのまま歩き出す進。夜奈は慌てて、進を止める。
「ま、待ってください! あたし……その、先輩に……謝りたいことがあって……」
「謝りたいこと?」
進が足を止める。……暗い瞳だ。進が時おり見せる、真っ暗で底の見えない瞳。未だに夜奈は、進がその目で何を見ているのか、分からなかった。
それでももう、逃げるわけにはいかない。夜奈は一度、深呼吸をする。大きく息を吐くと、余計な感情が消える。……なんて都合よくはいかない。
拒絶されたら、否定されたらと思うと、恐怖で手が震える。それでも夜奈は覚悟を決めて、進を見る。
7月とは思えないほど冷たい風が吹いて、夜奈は言った。
「その……先輩。あたし、ずっと……失礼なことばっかり言って……。先輩があたしのこと助けてくれてるなんて、あたし何も知らなくて……。だから、蒼井先輩! 何度も酷いこと言って……すみませんでした!」
言って、頭を下げる夜奈。……怖くて、進の顔を見ることができない。否定されたら、怒られたら、なんて思うと胸が痛くて泣きそうになる。
「…………」
進は静かな目で夜奈を見つめ、身体から力を抜くように息を吐く。そして彼は、夜奈が想像もしていなかった言葉を口にした。
「──今さらどうでもいいよ、そんなこと」
「……え?」
夜奈が驚きに顔を上げる。進は笑っていた。今までとは別人のような顔で、彼は言う。
「ようやく見つけたんだ。全てがどうでもよくなるくらい、特別なことを。ここにいたら、もう雨音は聴こえない。こんなに楽しいのは久しぶりだ」
「それって、どういう……」
「神谷さんには関係ないことだよ」
そう断言されると、夜奈は何も言えなくなる。進は冷めた目で、夜奈を見つめる。
「本当は俺、誰かに謝られるのって、嫌いなんだよ。……小学生の頃、何時間もかけて描いた絵に悪戯されたことがあってさ。幸い犯人はすぐに見つかって、そいつは俺に謝った。先生はそれで俺に、謝ったんだから許してあげなさいって言ったんだよ」
進はそこで、空を見上げる。今日は雲がなく、あの日と違い綺麗な星空が見える。
「俺が何時間もかけて描いた絵が台無しになったのに、俺はその『ごめん』って一言で許してやらないと駄目なのか? 君が何百、何千と投げかけた暴言を、俺はその『すみません』で許してあげないと駄目なのか?」
「それは……」
夜奈は何も言えない。進は小さく笑って、首を横に振る。
「勘違いしないで欲しいんだけど、俺は別に君を傷つけたいわけじゃないんだ。君に暴言を投げかけて、君を傷つけるような真似をしても、俺自身が嫌な気分になるだけ。……復讐なんて、馬鹿馬鹿しい。でもだからって、ここで許すと君ばかりが得をすることになる。この世界は明らかに、加害者に甘い」
粛々と告げられる言葉。それは怒っているというより、ただ事実を確認しているだけのような、淡々とした響きだ。進は、言葉を続ける。
「加害者だって傷ついてる。人を殴ると殴った拳も痛い。そんな理屈で、俺は君を許さないと駄目なのかな? 考えると分からなくなる。……神谷さんも、八坂先生が言ってたの覚えてるだろ? 絵で食べていきたいなら、絵のことだけを考えていては駄目だと。だから俺はいろんなことを考えて──」
「ま、待ってください! あたしはただ……」
何だか進の様子がおかしくて、夜奈は思わず進の言葉を遮る。けれど続く言葉が思い浮かばず、自分の影を睨みつけることしかできない。
進はそんな夜奈を見て、小さく笑った。
「そんな顔しなくてもいいよ。別に俺は、神谷さんを責めるつもりはないから。……でもさ、神谷さん。君は結局、謝って許してもらって、自分が楽になりたいだけなんじゃないの?」
「そ、そんなこと……!」
「ま、別に君の本心がどこにあろうと、どうでもいいけどね」
進はいつもより、よく喋る。どこか、ハイになっているようにも見える。でもその理由が、夜奈には分からない。
「ま、いいさ。もういいよ、全部許す。だからもう、俺に関わらないでくれ。ようやく……楽しいことを見つけたんだ。これ以上、関係ない他人に水を差されたくない」
それだけ言って、進は立ち去る。
「ま、待って……!」
止めたいと思った。言いたいことは、まだまだ沢山あった。でも、それはただ自分が言いたいだけで、進はそんな言葉を聞きたいなんて思っていない。
夜奈の足が、止まる。
「先輩の言う通りだ……」
自分が必死に進の姿を探していたのは、ただ許して欲しかっただけ。許してもらって楽になって、つまらない罪悪感から解放されたかった。そんな心を見透かされて、それでもなお彼は許すと言った。
否定されるわけでも、拒絶されるわけでもない。怒っているわけでも、恨んでいるわけでもない。
──眼中に、なかった。
彼の目に、夜奈の姿は映っていなかった。……夜奈はそれを、悔しいと思った。同時に酷く恥ずかしかった。自分が進について回っていたことを、進もどこかで嬉しく思ってくれている。そんな風に考えていた自分に、気がついてしまったから。
「恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい! 恥ずかしい……! 馬鹿みたい……!」
莉里華に言われた通りだった。自分は本当に子供だった。好きな子に意地悪をして、女の子に本気で拒絶されてショックを受けている小学生の男子と、何も変わらない。
好きな反対は無関心なんて、悪意を向けられたことがない人間の戯言だと、夜奈はずっとそう思っていた。余計な人間とは関わらない。関係ない人間に余計な感情を向けない。無関心でいることは、自分も他人も守ることに繋がる。
……でも、何の感情も向けられないことがこんなに傷つくことだなんて、夜奈は想像もしていなかった。罵倒されて、殴られていた方が、ずっとずっと楽だった。
「ほんと、馬鹿みたい……」
夜奈の瞳から、涙が溢れる。どれだけ目元を拭っても、涙は止まらない。何だか酷く情けなくて、夜奈は逃げるように空を見上げる。
「────」
ふと、目があった。屋上からこちらを見下ろす、真っ赤な目。……浅間 衣遠。そういえば蓮吾が、彼女と進が一緒にいたと言っていたことを思い出す。
「ふふっ」
「……っ!」
衣遠は笑った。夜奈は胸の痛みに耐え切れず、全速力で走り出す。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい!」
夜奈は夜の街を走る。走りながら、無理やり自分に言い聞かせる。たとえ自分が何とも思われていなかったとしても、進が元気そうでよかった。彼が幸せになれるなら、自分は嫌われても構わない、と。
……でも、事実はそうではない。進は、知るべきではない世界を知ってしまった。あの日、あの屋上から飛び降りたせいで、彼がどんな身体になってしまったのか。血だらけの男の噂は他ならぬ進のことで、彼がどんな世界で生きることになったのか。
夜奈がそれを知ることになるのは、もう少し先のことだ……。
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