第7話 崩壊



 神谷 夜奈はその日も、当てもなく夜の街を歩いていた。



 蒼井 進から学校に連絡があった翌日も、進が学校にやってくることはなかった。メッセージを送っても返事がないどころか、既読もつかない。


 最初は小さかったはずの後悔が、徐々に徐々に胸の内で膨らんでいく。気づけば、進の姿を探している。


「先輩、ほんと何してるんだろ……」


 進が屋上から飛び降りたという噂が事実ではないことは、もう分かっていた。仮に本当に飛び降りていたなら、学校に連絡なんてくるはずがないし、何より蓮吾が進の姿を目撃している。


 でもならどうして、学校に来ずメッセージに既読もつけてくれないのか。……自分が嫌われてしまったということだけでは、学校にまで来ない理由にはならない。


 もしかしたら進は、何か事件にでも巻き込まれているのではないか。最近はこの辺りで、血だらけの男を見たという噂もある。……夜奈は、不安だった。


 けれど唯一、進を目撃した蓮吾は、いくら問いただしても大したことは言わない。そもそも蓮吾も、あの日から部活に顔を出さなくなってしまった。蓮吾が口にした、進が浅間 衣遠に面倒を見てもらっているという話の真偽も、未だに分からない。


 なので夜奈は毎晩、蓮吾が進を見たという場所の近辺を探して回っていた。


「ほんと……馬鹿みたい。なにやってんだろうな、あたし」



 最初はただの、好奇心だった。



 高校に入学した直後。一つ上の学年に、あの蒼井 進がいるという噂を耳にした。


 世界中から応募を受け付けているエトワール絵画展で、最年少で入賞を果たした天才。彼の名前は、この年代で絵を描く人間にとっては特別なものだった。


 その天才である蒼井 進が、同じ高校に通っている。そんな噂を聴いた夜奈は、面白半分で美術部を訪れ、彼の姿を見つけた。


「…………」


 覇気がなく気怠げで、陰口を叩かれているのに曖昧に笑うだけで言い返しもしない。そんな気弱そうな少年。それが進の第一印象だった。


 ニュースで見た彼は、中学生とは思えないほどの貫禄があり、自分より倍以上歳上のマスコミを黙らせてしまうような独特な雰囲気があった。


 でも今の彼は、美術部のお荷物。先輩からも後輩からも煙たがられ、ろくに絵も描かない。そのくせコネと過去の栄光で、誰よりも特別な扱いを受けている。過去の実績に縋っているだけの元天才。



 それが、蒼井 進という少年だった。



 ……でも夜奈は、そんな進に惹かれた。線が細くて叩けば折れてしまいそうなのに、時折見せる世界を睥睨するような真っ黒な瞳が、彼の印象を得体の知れないものへと変える。


 もしかしたら過度とも思える彼に対する陰口は、怯えの裏返しだったのかもしれない。……特に幼馴染である蓮吾と莉里華は、進に普通ではない感情を向けているように見えた。


 まあとにかく、テレビで観た天才とはまるで違う蒼井 進に、夜奈は惹かれた。彼の暗い瞳が何を見ているのか、どうしても知りたくなった。だから夜奈は、高校ではもう絵を辞めるつもりでいたのに、わざわざ美術部に入部し、彼に声をかけた。


 最初はおっかなびっくりと。次第に緊張も解け、馴れ馴れしく。3ヶ月もすれば小馬鹿にするような態度で、進のあとをついて回った。元々、コミュニケーションをとるのが得意ではなかった夜奈は、わざと悪口を言うことで彼に構って貰っていた。


 ……内心、優越感もあったのだろう。あの世間を騒がせた天才が、凡人である自分に何も言い返すことができない。それは何だが心地がよくて、一度、挫折したはずの絵画にまたのめり込むことができた。


 それに進は、何を言っても許してくれる。彼は何を言っても、決して怒りはしない。進になら、気を遣わなくても大丈夫だ。


 いつしか夜奈はそんな風に思い込み、自分が度を超えた言葉を口にしていることに、気がついていなかった。


 そしてその結果が、あの日の屋上。


 別に、夜奈に全ての責任があるわけじゃない。階段を上ったのは進の意志で、フェンスを乗り越えたのも彼の意志。でも……最後の一押しをしたのは、間違いなく夜奈だった。


「……謝らないと」


 今更になって、夜奈は罪悪感を感じていた。……無意識に、進のことを見下していた嫌な自分。彼を馬鹿にすることで、優越感を感じていた弱い自分。進の気持ちを考えず、酷いことばかり言ってしまった馬鹿な自分。


 振り返ると本当に酷い女で、それなのに彼はいつも陰で自分のことを助けてくれていた。


 天才とか、絵のこととか、そういうのはもう関係ない。一度ちゃんと、謝らなければならない。許してもらえるかなんて分からないし、元のような関係に戻れるとも思えない。


 それでもこのまま、なかったことにする訳にはいかない。


「宇佐先輩や東山先輩とは、あたしは違う。結局あの人たちは、自分のことしか……考えてない」


 そんな言葉を呟きながら、夜奈は夜の街を歩く。進が姿を消してから、毎夜、出歩いている夜奈。理由を問いただす両親とも、険悪になってしまっていた。


 それでも夜奈は、進のことを探し続けた。その感情がどういったものなのか、気がつきもせず……。


「……あ」


 そこで夜奈は、廃ビルから出てきた1人の少年の姿を見つける。


「あれ、もしかして……」


 夜奈の歩くペースが上がる。まるで吸い寄せられるように、足が勝手に動く。気づけば夜奈は、親に駆け寄る子供みたいに、その少年の方に向かって駆け出していた。


「やっぱりそうだ。……先輩。先輩! 蒼井先輩!」


「…………」


 そんな夜奈の声が聴こえていないのか。少年……蒼井 進は何の言葉も返さず、暗い瞳で空を見上げる。


「先輩! 無視しないでくださいよ! こんなところでなにやってるん──っ」


 そこで夜奈は、思わず口を閉じてしまう。……進は笑っていた。裂けるように口元を歪め、まるで今までとは別人のような顔で、彼は笑う。


 ……多分、ここで声をかけたのが1番の間違いだったのだろう。この夜のせいで、夜奈は……。


 夜奈は何にも、気づいてはいなかった。彼女は進を心配して、夜の街を歩き回っていたわけではない。彼女はただ優しく、『君のせいじゃないよ』と言って欲しいだけだった。



 ──そんな弱い心から、夜奈は未だに目を背けていた。



 そして何より進はもう、夜奈が知っている気弱な少年ではなかった。


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