第6話 嫉妬



 そして、翌日。俺は正式に、浅間さんの家でお世話になることを決めた。


 なので面倒ではあるが一応、世話になっていた親戚の家に電話をかけ、家から出て行くと伝えた。何やらいろいろと嫌味を言われたが、彼らはそもそも俺に興味なんてない。一度、必要な荷物を取りに戻った時も、かなりおざなりな対応をされた。


 その後、いろいろと面倒な手続きを終わらせて、学校に電話をして、浅間さんが用意してくれた部屋の片付けなんかをしていると、あっという間に夕方になっていた。


 ……ちなみに浅間さんは、普通に学校に行ってしまった。まあ、高校生なので当たり前のことではあるが、なんかちょっと寂しい。


「俺も明日からは、学校行かないとな……」


 宇佐さんとも、ちゃんと話をしなければならない。蓮吾の奴は結局、言葉を濁すだけではっきりとしたことは言わなかったが、だからって否定もしなかった。


 今さら2人の関係なんて興味はない。ただ、中途半端な関係のまま、他の女の子と同居なんて真似はしたくなかった。


 だから明日、学校に行ったら宇佐さんに、別れようと自分の口から伝える。……本当はもっと早くに、伝えるべきだった。


「いつまでも、中途半端なままではいられないよな」


 俺は確かに、宇佐さんのことが好きだった。その気持ちに嘘はない。でも多分、彼女が好きだったのは今の俺ではなく、昔の絵のことしか頭になかった俺なのだろう。


「浮気するくらいなら、別れようって直接言えばいいのに」


 吐き捨てるように呟いて、スケッチブックを広げ、鉛筆を握る。……ドクンと心臓が跳ねる。聴こえないはずの雨音が、聴こえてくる。俺はすぐに鉛筆を手離す。


「はぁ、今ならいけると思ったんだけどな……」


 結局、環境が変わっても俺自身が変わらなければ、前へは進めない。


「でも不思議と、身体は軽いんだよな」


 それに以前より、頭が冴える。昨日の夜はいろいろ考えてしまって全く寝つけなかったのに、少しも眠いとは思わない。


「あ、やべ」


 テーブルに置いた鉛筆が、半分に折れてしまっていた。大して力を入れたつもりはなかったのだが、思った以上に緊張していたようだ。


「……なんか料理でも作るか。浅間さん、食生活とか酷そうだし」


 気を紛らわせるように呟いて、部屋を出る。するとタイミングよく、来客を知らせるチャイムが鳴った。



 ◇



 蒼井 進が所属する茜坂高等学校あかねざかこうとうがっこうの美術部には、明確なヒエラルキーが存在する。



 美術部の顧問を務める八坂やさかという教員は、過去に大きなコンクールの受賞歴もある優秀な人間ではあるのだが、基本的に指導というものをしない。


 彼女は気まぐれに美術室にやってきては生徒が描いた絵を批評し、いくつか課題を押しつけてる。それ以外は何もせず、生徒が職員室を訪ねても、適当に追い返してしまう。そんな自由奔放な顧問の代わりに美術部をまとめているのが、である東山 蓮吾。


 彼を中心とした実績のあるメンバーが美術部の心臓であり、20人近くの美術部員は基本的に彼らの指導の下、活動している。……例外があるとするならそれは、神童と言われた蒼井 進ただ1人。


「ああ、くそっ……」


 そんな、本来なら部を取りまとめるべき人間である蓮吾は、周りの視線を気にすることなく悪態をつく。昨日の進の言葉と、浅間 衣遠の言葉。それが頭の中をぐるぐると回り、少しも集中することができずにいた。


 そんな彼を諌められるのは、部長を除けば彼と付き合っていると噂の宇佐 莉里華か、空気を読まない神谷 夜奈だけ。


「…………」


「…………」


 しかしその2人も、蓮吾と同じように険しい表情を浮かべているだけで、手を動かそうともしない。


 美術部の部活は基本的には自由参加なので、そんな空気が嫌になった部員たちは、1人また1人と美術室から出て行く。そして残ったのは、蓮吾と莉里華と夜奈の3人だけ。


 夜奈は一度咳払いをしてから、離れたところにいる2人に向かって、よく通る声で言う。


「今日、学校に先輩……蒼井先輩から連絡があったって話、知ってますか?」


 その声を聞いて、莉里華が顔を上げる。


「……知ってるよ。うちの担任が言ってたから。明日からは普通に登校できるらしいね、進くん」


「登校って、住むところとかはどうするんですか? 親戚の方の家は……追い出されちゃったんでしょ?」


「そこまでは、私も知らないよ」


 視線を合わせることなく、淡々と交わされる言葉。そんな2人の会話を聞きながら、蓮吾は2人には聴こえないよう小さく舌打ちをする。


「……くそっ」


 蓮吾は昨日のことを、まだ誰にも話せずにいた。進がこの高校で知らない者はいないほど有名な美少女、浅間 衣遠と一緒にいた。それを聞いたら、2人……いや莉里華がどんな顔をするのか。想像すると、怖かった。


 そんな蓮吾の気持ちを知ってか知らずか。莉里華はどこか疲れた顔で、夜奈の方に視線を向ける。


「それより神谷さん、もしかして昨日の夜とか、進くんのこと探してたりした? なんかちょっとお肌荒れてるし、疲れてるように見えるけど……」


「……あたしは別に、探してなんかいませんよ。そういう宇佐先輩こそ、髪に艶がないですよ?」


「私は勉強してただけだよ。期末テストも近いしね」


「そうですか。じゃあ昨日、駅前をうろついてたのは別の人みたいですね」


「…………」


 夜奈は笑う。莉里華は色のない目で、真っ白なスケッチブックを睨みつける。


 夜奈と莉里華の2人も、蓮吾と同じように進のことを探していた。2人の胸に巣食う小さな後悔。自分たちの態度が、彼を追い詰めていたのかもしれない。


 できることなら、謝って許してもらって楽になりたい。そんな情けない感情を認めることができず、2人は無理に去勢を張る。……特に夜奈は、進が自分を助けてくれていたという事実を、受け止めることができずにいた。


「…………」


「…………」


「…………」


 そしてまた、沈黙。3人とも、今の精神状態で集中なんてできないことは分かっていた。分かっていても、3人は動かない。



 ──もしかしたら進が、美術室にやってくるかもしれない。



 3人は全く別のことを考えながら、それでも待っているのは同じ1人の人間だった。


「……実は昨日、進の奴と会ったんだよ」


 長い沈黙に耐えきれなくなったのか。蓮吾は吐き捨てるように、小さな声で呟く。


「それ、ほんとですか⁈」


 その言葉に一番最初に反応したのは夜奈。彼女は驚きに立ち上がり、蓮吾の方に駆け寄る。蓮吾は大きく息を吐いた。


「こんなことで嘘なんて吐くかよ。ただあいつ……なんかいつもと、別人みたいな顔してた。雰囲気も普段と違ったし、何より……」


 蓮吾の頭に思い浮かんだのは、楽しげに笑う白髪の少女。……彼女が言った劣等感という言葉が、蓮吾の胸を締めつける。


「途中で言葉を止めないでください。何より、なんですか?」


「……なんでもねぇよ」


 誤魔化すように視線逸らす蓮吾。夜奈は少しも迷うことなく言った。


「いい機会だから訊かせてもらいますけど、宇佐先輩と東山先輩は付き合ってるんですか?」


「はぁ……? なんだよ、急に……」


「いいから、答えてください。別に隠すようなことじゃないでしょ?」


「…………」


 蓮吾は気まずげに、莉里華の方に視線を向ける。莉里華は夜奈と蓮吾の2人の顔を見比べてから、口を開く。


「別に私と蓮吾くんは、付き合ってるわけじゃないないよ。ただ、これからどうなるかは分からない。それだけのことだよ」


「意味が分かりません。はっきり言ったらどうですか?」


「ふふっ。神谷さん、男の子と付き合ったことないでしょ?」


「……だったら、なんですか?」


「もう少し大人になったら、私の言ってることが分かるかもしれないね。付き合うとか付き合わないとか、それだけじゃないんだよ。男女の関係はさ」


 挑発するような言葉に、夜奈の顔が赤くなる。そんな莉里華の言葉を聞いた蓮吾は、自信を取り戻したように笑う。


「そうだ。関係ない奴が、いちいち首を突っ込むようなことじゃねぇんだよ。……浅間 衣遠だって、偉そうなこと言ってやがったが、結局は──」


「待ってください! 浅間 衣遠ってあの……浅間 衣遠ですか? どうしてその名前が、ここで出てくるんですか?」


「いや、それは……」


 蓮吾は、思わず口から溢れた言葉を隠すように口元を手で覆うが、今さらもう遅い。彼は諦めるように、髪をかき上げる。


「昨日、進の奴がどうしてか……浅間 衣遠と一緒にいたんだよ。それでなんか、これからあの女が進の奴の面倒を見るとか訳わかんねぇこと言って──っ」


 そこで蓮吾は、思わず口を閉じてしまう。……夜奈と莉里華の顔に浮かんだ表情。それは今、蓮吾が1番見たくなかった顔。



 2人は明らかに……嫉妬していた。



「……悪いけど、用事思い出した。俺はもう……帰る」


 蓮吾が、逃げるように美術室から立ち去る。2人はそれを、黙って見送った。


「浅間 衣遠がどうして先輩と……」


「……そんなの明日、本人に直接訊いてみればいいことだよ。神谷さんは他にもいろいろと、言わなきゃならないことがあるみたいだしね?」


「それは宇佐先輩も同じでしょ?」


 2人は静かに睨み合う。2人はどこかで、進を助けられるのは自分だけだと、そんな風に思い込んでいた。


 夜奈は進を馬鹿にするようなことを言いながらも、孤独な進のことを理解しているのは自分だけなのだと、優越感を感じていた。莉里華もまた同じように、いざという時、進が頼るのは自分なのだと信じていた。


 しかしそれは、都合のいい勘違い。そんなことにも気づけないほど、2人はまだ子供だった。


 2人の胸にできた小さな棘が、ゆっくりと大きくなっていく。……そして翌日もまた、進は学校に来なかった。


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