第5話 特別な



「──随分と楽しそうなことしてるね、蒼井くん。よかったら私も、混ぜてくれないかな?」


 唐突に姿を現した白髪の少女、浅間さん。


「……浅間 衣遠」


 そんな彼女の姿を見た蓮吾は、威圧されたように後ずさる。


 浅間さんは背が高いと言っても、俺と同じ170cmくらい。180cmを超える蓮吾の方が、ずっと背が高い。なのに、気の強い蓮吾ですら後ずさってしまうような何かが、浅間さんにはある。


 浅間さんはチラリと蓮吾を一瞥してから、尻餅をついている俺に向かって手を差し出す。


「近くのコンビニに行くだけだと思ってたのに、あんまり遅いから様子を見に来てみれば、随分と楽しそうなことをやってるみたいだね? 蒼井くん」


「……別に、楽しくはないよ」


 俺は浅間さんの手を取り、立ち上がる。そして一応、蓮吾に殴られた頬に触れてみるが、やはり痛みはなかった。


「おい、進。どうしてお前が、その女と一緒にいるんだよ?」


 蓮吾がこちらを睨む。俺は胸に溜まった鬱憤を吐き出すように、息を吐く。


「お前には関係ないよ」


「それはつまり、俺には言えないような関係ってことか? お前、莉里華のことが好きなんじゃねーのかよ」


「……宇佐さんとはいずれ、ちゃんと話をするよ。つーか、お前の方こそ、俺に言わなきゃならないことがあるんじゃねーのかよ。どうしてお前が、宇佐さんと手を繋いで歩いてたんだ?」


「…………」


 蓮吾は気まずげに視線を逸らすだけで、何も答えない。2人がどんな関係でも受け入れる覚悟はできているが、言いたくないなら無理に聞く必要もない。


「もういいよ、蓮吾。これ以上、お前と話をしても意味なんてない。お前はもう、家に帰れ」


「……そういうお前はどうすんだよ? 帰るとこあんのかよ?」


「俺は──」


 そこで俺の言葉を遮り、浅間さんが前に出る。


「蒼井くんはね、私が面倒を見ることにしたんだ。……蒼井くんは、いろんな意味で特別だから」


「んだよ、それ。そいつが特別なもんかよ。運動も勉強も半端で、得意の絵も言い訳ばっかでろくに描かねぇ。こいつが俺に勝るとこなんて、1個もねぇんだ。……そうだ。だから莉里華もこいつじゃなくて、俺を──」


「君のそれは、劣等感だね」


 蓮吾の言葉を遮り、浅間さんは断言する。また蓮吾が後ずさる。


「……どうして俺が、こんな奴に劣等感を感じなきゃならない? 俺がこいつに負けてるとこなんて、何も……ないだろうが」


「ならどうして君は、選ばれなかったんだろうね?」


「……何の話だよ?」


「君の話さ」


 浅間さんは笑う。飲み込まれるような、妖しげな笑み。どうしてか、俺の心臓がドクンと跳ねる。


「君がこんな時間に街をうろついていたのは、どうしてなのかな?」


「それは……」


「蒼井くんを心配して探していたようには見えないし、かと言って遊び回ってるわけでもない。でもだからって、どこかからの帰り道のようにも見えない」


 浅間さんはゆっくりと、蓮吾の方に近づく。


「君はさ、蒼井くんに勝ち逃げされるのが怖かった。何もかもで勝ってるはずなのに、君はどうしても自分の方が優れていると叫ばずにはいられなかった」


「何を、言って……」


「もし本当に蒼井くんが自殺してしまっていたら、君はずっと負けっぱなしのままになる。君は奪っただけで、選ばれたわけじゃない。だから君はただ、蒼井くんが──」


「う、うるせぇ! 何も知らねぇ女が、横から口挟んでくんじゃねぇよ……!」


 蓮吾が叫ぶ。でもその声に、さっきまでの威勢は感じられない。まるで先生に怒られてる子供みたいに、蓮吾が小さく見える。


「ふふっ、これ以上は可哀想だから辞めておこうかな。……えーっと、ごめん。君の名前なんだっけ? まあとにかく君も、早く家に帰るといい。大好きな彼女さんが、待っててくれてるんでしょ?」


「……っ!」


 蓮吾が拳を振り上げる。俺は慌てて止めに入ろうとするが、流石の蓮吾も女の子に手を上げるような真似はしないのか。疲れたように大きく息を吐き、拳を下ろす。


「……進。俺はお前に……負けたなんて思ってねぇ。ただ、莉里華の奴を悲しませるような真似だけはするな。俺が言いたいのは、それだけだ」


「……知るかよ」


 俺の吐き捨てるような呟きが、聞こえたのかどうかは分からない。ただ蓮吾は、まるで逃げるように早足で、この場から立ち去る。


「ふふっ」


 浅間さんはそんな蓮吾の後ろ姿を見て、蕩けるような顔で笑った。


「染み付いた劣等感っていうのは、なかなか消えてはくれないものだ。それはいつしか焦燥感に変わり、最後は怒りに転じる。彼はあのままだといずれ、全てを台無しにしてしまうだろうね」


「……どうして浅間さんに、そんなことが分かるの?」


「それは私が、特別だから」


 浅間さんは楽しげに笑って、俺の手を掴む。


「それより、せっかくだしこのままデートにでも行こうか? 今日は久しぶりに、雨も降ってないしね」


「あ、ちょっと……!」


 浅間さんに強引に手を引かれ、歩き出す。こんな時間にデートなんて言っても、行くとこないだろ? なんて言葉は通じない。そんな言葉では、この少女を止めることはできない。


「それで、どこに連れて行くつもりなの?」


「楽しいとこ」


「具体的には?」


「それは秘密」


 しばらく手を引かれるがまま歩いていると、町外れの廃ビルの前まで来てしまっていた。浅間さんは当たり前のように扉を開け、非常階段を上がっていく。


「これ、勝手に入って大丈夫なの?」


「大丈夫、大丈夫。ここ、私の持ち物だから」


「持ち物って……スケールが違うな」


 理解できない言葉と行動。……ああでも、やっぱりそうだ。この子の隣にいると、余計なことを忘れられる。


「っと、残念。晴れてると綺麗な星が見えるのに、今日は曇りだから何にも見えない」


 薄暗いビルの屋上で、浅間さんが笑う。俺から手を離し両手を広げて笑う姿は、やっぱり……綺麗だ。


「……なぁ、浅間さん。さっきはその……ありがとう」


「うん? 何が?」


「いや……俺なんかちょっと、頭に血が上ってたし。間に入ってくれて、助かった」


「別に、気にしなくていいよ。私は蒼井くんの味方だから」


 都合のいい言葉。無条件で愛してくれる人間なんていない。そう分かってはいるのに、思わず信じたくなるような優しい声。


「ねぇ、蒼井くん。どうして蒼井くんが絵を描けなくなったのか、聞いてもいい?」


「唐突だね」


「嫌なら、答えなくてもいいよ」


「……つまんない話だよ?」


「大丈夫。つまらなくても、笑ってあげる」


「なんだよ、それ。そんな気遣いらないよ」


 思わず俺が、笑ってしまう。……別に隠すようなことでもない。想いを口に出して傷つくほど、俺ももう子供じゃない。でも思えば俺は、自分の弱みを誰かに話すようなことはしなかった。


 空を見上げる。月も星も見えない暗い空。でもあの日は空は、もっと荒れていた。……聴こえないはずの雨音が、聴こえてくる。


「中学の頃さ、急に星が描きたくなった俺は山の麓のコテージを借りて、1人引きこもって絵を描いてたんだ。その時の俺はすごい賞を取った後で調子に乗ってて、絵のことしか頭になかった」


 当時の俺は、自分が天才だと思っていた。自分は絵を描く為に産まれてきたんだと、そんな風に思い込むほど自惚れていた。


「でもちょうど運悪く台風が来て、電車も止まって帰れなくなって、父さんと母さんに車で迎えに来てもらうことになったんだ」


 そこで一度言葉を止めて、屋上のフェンスに触れる。大した高さはない。これなら乗り越えるのは簡単だ。俺は小さく、息を吐く。


「でもいくら待っても、父さんと母さんは来なかった。何度、電話をかけても繋がらない。気づけば夜が明けていて、台風は過ぎ去っていた。そしてその後、父さんと母さんが……事故で亡くなったと聞かされた。俺が余計なことをしなければ……父さんと母さんが、死ぬことはなかった」


 後悔した。後悔して、後悔して、後悔して。でも、いくら泣いても父さんと母さんは帰ってこない。


「筆を持つと、聴こえないはずの雨音が聴こえてくるんだ。優しかった父さんと母さんの死に顔が……頭にこびりついて、離れなくなる」


 気づくと身体中が汗だくで、過呼吸で倒れそうになる。もう何年も前のことなのに、未だに俺は忘れることも乗り越えることもできていない。


「結局、俺は逃げたかっただけなんだよ。コンテストに落ちたことも、親戚の家を追い出されたことも、宇佐さんと蓮吾が手を繋いで歩いてたことも、神谷さんに馬鹿にされたことも。そりゃ、傷つきはするけど、それくらいで死のうなんて思わない」


 薄暗い空から、浅間さんの方に視線を向ける。


「俺は……できない自分から、逃げたかったんだ。それだけなんだよ」


 言葉にすると情けない。でもそれが、俺の悩みの本質だった。


「じゃあ、私が忘れさせてあげるよ」


 浅間さんが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。笑うことも、嘲ることも、憐れむこともせず、彼女はただ真っ直ぐに俺だけを見つめる。


「蒼井くんが、痛みも苦しみも忘れちゃうくらい特別な世界を私が見せてあげる」


「特別な世界?」


「そう、特別な世界」


 俺は浅間さんが冗談を言っているのだと思い小さく笑うが、浅間さんは笑わない。


「蒼井くんが自分のことを話してくれたお礼に、私も私の秘密を教えてあげる」


 雲の切間から、月明かりが差し込む。浅間さん赤い瞳が、月明かりを反射して妖しく光る。……綺麗だと思った。それこそ本当に、全てを忘れてしまうくらい綺麗で、俺は思わず見惚れてしまう。


 浅間さんは溶け込むような笑顔で、言った。



「──実は私ね、人間じゃないんだ」



 どうしてか、息が詰まる。そんな俺を見て、浅間さんは本当に楽しそうに、笑った。


「なんて、冗談だよ、冗談。辛いことなのに、話してくれてありがとう。……そろそろ帰ろっか? あ、帰りにアイス買うの忘れずにね。お姉さんが、好きなアイス買ってあげる」


 浅間さんが、また俺の手を引いて歩き出す。浅間さんの言葉の意味なんて分からない。でも確かに俺は、この少女に惹かれていた。


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