第4話 親友
一度も話したことがない女の子が、これから俺の面倒を見てくれると言った。しかもその子は目を見張るほどの美少女で、大金持ち。
人生、逆転ホームランはあるんだな……なんて、呑気に考えられるほど、俺は能天気ではない。
「それで蒼井くんは、さっきから何をやってるのかな?」
「いやこの部屋、汚すぎるんだよ!」
月明かりが差し込む薄暗いマンションの一室で笑う、白髪の少女。それはどこか神秘的で美しかったが、明かりをつけると現実は悲惨だった。
脱いだら脱ぎっぱなし服。漫画やゲームがあちこちに散らばっていて、おまけにコンビニ弁当の空箱や飲みかけのペットボトルなんかが、そこら中に散乱している。
この部屋は、ただただ汚かった。
「蒼井くんって意外と几帳面なんだね。このくらいまだ全然、平気なのに」
「……このくらいって、これより酷くなることあるの?」
「酷いっていうか、住めなくなるまで散らかったら、別のマンションに引っ越すんだよ。私は基本、掃除しない」
「……どっかの芸術家みたいな生き方してるね。お金はあるんだから、掃除の業者を呼べばいいじゃん」
片っ端からゴミをゴミ袋に投げ入れながら、俺は呆れたように息を吐く。浅間さんは、大きな欠伸をしてから言う。
「業者なんて嫌だよ。私、他人を家に入れるの嫌いだから」
「いや、俺を入れてるだろ?」
「蒼井くんは特別だよ。蒼井くんは私のお気に入りだから」
浅間さんは笑う。嘘くさくて、でもどうしてか信じたくなる甘い笑み。俺は逃げるように視線を逸らす。
「……って、ゴミ袋切れた。買い置きって、どこにあるの?」
「そこにないならないよ」
「やる気ないスーパーの店員みたいなこと言うね」
「でも事実だし。欲しいなら買ってきたらいいんじゃない? そこのテーブルの上のカード、使っていいからさ」
「うわっ、ブラックカード。初めて見た……」
テーブルの上に無造作に置いてあるクレジットカード。1人で住むには広すぎる部屋。……どうやら浅間さんは、かなり甘やかされているようだ。
「あ、先に言っとくけど、月に1億以上使うと止められちゃうから、それだけは気をつけてね?」
「……1億って、街中のゴミ袋を合わせても、そんな額いかないよ」
「違う違う。他に欲しいものあったら、なんでも買ってきていいよって言ってるの。私はアイス食べたいから、買ってきて。チョコのやつね」
「分かったよ。……なんかちょっと、イメージと違うな」
俺がカードを持ち逃げするなんてことは、微塵も考えていないような適当な態度。凄いと言うより、なんか呆れる。
「まあいいや。とりあえずちょっと、出てくるよ。いろいろ、欲しいものとかあるし」
ポケットにサイフとスマホがあるのを確認してから、テーブルのカードを無視して部屋を出る。何もかもが滅茶苦茶で、どこまでも自由な女の子。浅間さんが何を考えているのかなんて、俺にはやっぱり分からない。
でも俺は久しぶりに、楽しいと思っていた。
◇
「でもまさか、3日も寝てたなんてな……」
煌々とした街灯が照らす夜の街を歩きながら、大きく息を吐く。
スマホを確認してまず驚いたのは、どうやら俺は3日も眠ってしまっていたということ。流石に3日も音信不通になっていたら、多少は騒ぎになっているだろう。
ただ不思議と、身体の不調はどこにもない。寧ろ、倒れる前より身体が軽い。
「問題があるとするなら、こっちか……」
スマホの着信履歴やSNSを確認すると、いろんな人から連絡が来ているようだった。
幼馴染の宇佐さん。後輩の神谷さん。親友の蓮吾。お世話になってた親戚の家に、絵の先生。あとはいくつか、知らない番号……。
普通に考えたら、すぐに返事をするべきなのだろうが、とりあえず今は放置しておく。
「でも、いつまでも逃げられないよな。今から飛び降りるなんて真似は、もう無理だし……」
あの時はタイミングがよかった……というより、悪かったのだろう。落ち着いた今、また同じように飛び降りる勇気は、今の俺にはなかった。
「……これからどうするんだろうな」
当面の生活費は、父さんと母さんが残してくれた遺産がある。部屋は、浅間さんが貸してくれる。生きていくだけなら問題はない。
「女の子と同居なんて初めてだけど、あのマンション死ぬほど広いし、なにか間違いが起こるなんてこともなさそうだ」
でもまあ流石に、ずっとお世話になるわけにもいかない。というかそもそも、いつまでも行方不明のままではいられないし、高校もずっとサボっているわけにはいかないだろう。
生きるとなれば、やらなければならないことが沢山ある。
「そもそも俺、本当に生きたいと思ってるのか?」
いくら浅間さんが優しくしてくれたとしても、1番大切なことは自分でどうにかしなければならない。……でも、俺はまだ絵を描くことが──。
「こんなところで何やってんだよ、進」
ふと声が聴こえて、視線を上げる。そこにいたのは……。
「蓮吾……」
不機嫌そうな顔でこちらを睨むのは、親友……だったはずの男──
「進、お前こんな時間にこんな場所で何やってんだよ?」
「そっちこそ、夜遊びが趣味だなんて知らなかったよ」
「そういうおふざけはいらねぇんだよ」
蓮吾の切長な目が、こちらを射抜く。相変わらず、意志の強さを感じさせる真っ直ぐな目だ。
「お前、3日も家に帰ってないらしいな? 学校もサボって何してんのかと思えば、夜遊びかよ。馬鹿じゃねーの」
「……お前には関係ないよ」
「はっ、なんだよその態度。悲劇のヒーローでも気取ってるつもりか? ガキじゃねーんだから、家出なんてつまんねー真似してんじゃねぇよ。莉里華の奴だって……」
そこで蓮吾は何かに気がついたように、気まずげに視線を逸らす。俺は肩を掴んだ蓮吾の手を振り払う。
「誰が何を思おうと、俺にはもう関係ないよ。お前も、俺に構う必要はない」
俺はそのまま歩き出そうとするが、蓮吾はまた強引に俺の腕を掴む。
「待てよ。……なぁ、進。いつまでガキみたいな真似、続けるつもりだ? 莉里華の奴、昔から心配性なの知ってるだろ?」
「……だから俺には関係な──」
「あいつを傷つけるような真似、するなって言ってんだよ!」
蓮吾が声を荒げる。蓮吾は昔から短気な奴だが、ここまで本気で怒っているのは珍しい。……そこまで大切なのか、宇佐さんのことが。
「でもやっぱり、俺にはもう関係ないよ。……というか、宇佐さんはお前が慰めてやってるんだろ? ならそれでいいじゃねーか」
「……っ! おまっ、何言って──」
蓮吾は露骨に動揺する。……本当に、馬鹿馬鹿しい。
「この前、お前と宇佐さんが仲良さそうに手を繋いで歩いているのを見た。……お前、昔から女として見てないとか言ってたくせに、やることはやってるんだな?」
「違っ、俺は──」
「言い訳なんていらないよ。どのみち俺と宇佐さんは、しばらくまともに会話もしてなかった。だからお前が宇佐さんのことが好きだって言うなら、俺は──」
「テメェ! ふざけるなよ!!」
胸ぐらを掴まれる。街中で何やってんだと思うが、今の時刻は夜の11時過ぎ。辺りに人影はない。蓮吾は、殴りかかりそうな勢いで叫ぶ。
「お前が情けねぇ真似ばっかしてっから、俺がフォローしてやってるんだろうが! いつまでもウジウジ悩んで、絵も描かない! そんなお前が、偉そうなこと言ってんじゃねぇよ!」
「それが、友達の女を奪った言い訳か?」
「っ! ち、違う! 俺は……お前が馬鹿な真似ばっかりするから、みんなが安心できるように……」
「みんなの為なら、俺はお前を許してやらないと駄目なのか? ……つまんないこと言ってないで、いい加減手を離せよ、蓮吾」
蓮吾の手を無理やり振り払う。……ああ、苛々する。せっかく嫌なことを忘れられていたのに、どうしてこんなつまらない言い合いをしなければならない?
「だいたいなんで俺が、俺のことを裏切った女の顔色を窺わないといけない? 学校でも美術部の連中の陰口を気にして、家では親戚の顔色を窺って……。別に、助けて欲しいなんて言わないよ。でも、俺を裏切った女が何を思ってようと、そんなの俺には関係ないだろ?」
お前だけが辛い訳じゃない。みんな頑張ってる。暗い顔ばっかりしてないで、もう少し明るくなりなさい。……ああ、うるさいうるさい。それくらい分かってる。分かってんだよ。分かってるから、こっちも必死で頑張った。
それでも何も、上手くいかなかった。どうしても、手が動いてくれない。ならもう……逃げたっていいだろ?
「ふざっ……ふざけんなよ、進! お前、莉里華が今どんな気持ちでいるのか、考えたことあんのかよ!」
「だから知らねーよ! あいつだって俺の気持ちなんて、考えてなかっただろうが……!」
俺も蓮吾の胸ぐらを掴む。蓮吾の顔が、怒りで真っ赤に染まる。
「悟った顔してんじゃねぇよ! お前のそういうところが、昔から気に食わなかったんだよ! 進ッッ!!!」
「……っ!」
蓮吾が俺の頬を殴った。不思議と痛みは感じない。ただ、蓮吾は俺よりも背が高いし筋肉もある。気づけば俺は尻餅をついていて、蓮吾は怒りに歯を震わせながらこちらを睨む。
昔から蓮吾は、宇佐さんのことが好きだった。なんとなく分かっていたけれど、蓮吾はいつもそれを否定していた。だから俺は、宇佐さんの気持ちを受け入れた。
──俺は蓮吾を親友だと思っていた。
でも、こいつはずっと俺のことが気に入らなかったのだろう。何もできない癖に初恋の幼馴染を奪って、言い訳ばかりで絵も描かない。そんな俺を、こいつはずっと疎ましく思っていた。
……でももう、どうでもいい。いちいちそんなことを気にして病むくらいなら、俺は──。
「──随分と楽しそうなことしてるね、蒼井くん。よかったら私も、混ぜてくれないかな?」
そして、そこで現れたのは……俺を見送ったはずの少女──浅間 衣遠だった。
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