第2話 出会い



「……っ」


 ふと頭に走った鈍い痛みで、目を覚ます。……知らない部屋だ。どこかのマンションの一室だろうか? カーテンが閉め切ってあるせいで薄暗く、部屋全体を見渡すことはできないが、かなり広い部屋なのは分かる。


「なんで俺、こんなところで寝てるんだ……?」


 前後の記憶があやふやで、ここがどこで自分がどうしてこんなところで寝ていたのか。何も思い出すことができない。


「目が覚めたみたいだね」


「……っ!」


 すぐ側から声が響く。近くに誰かいるなんて思ってなかった俺は、思わずベッドから落ちそうになる。


「おっと、危ない」


 少女が俺を支えてくれる。少女と目が合った。


「……浅間あさま 衣遠いおん


 無意識に、少女の名前が口から溢れる。


 目が眩むような真っ白な髪に、飲み込まれそうな真紅の瞳。すらっとした長い手足に、大きな胸。そしてどこか人間離れした、超常的な雰囲気。


 うちの高校で、この少女のことを知らない人間はいない。


「なんだ、私のこと知ってるんだ。……意外」


「浅間さんは有名人だから……」


「そうなの? ま、自己紹介の手間が省けてよかったよ。私も君のことは知ってるからね。……蒼井あおい すすむくん」


 少女……浅間さんが、俺の名前を呼ぶ。なんだか不思議な感覚に、思わず視線を逸らしてしまう。


「……って、そうだ。そんなことより俺、屋上から……」


 そこでようやく、自分が何をしたのか思い出す。俺は全部が全部嫌になって、屋上から飛び降りたはずだ。なのにどうして俺は、こんなところにいるんだ? 見たところどこにも、怪我はないようだが……。


「君はね、屋上で倒れてたんだよ」


 俺が眠っていたベッドに腰かけ、浅間さんは小さく笑う。


「屋上で? 俺は確か、フェンスを乗り越えて飛び降りたはずじゃ……」


「いいや。。雨に濡れててなんかちょっと可哀想だったから、思わず連れて帰って来ちゃったんだ」


「連れて帰ったって、犬じゃないんだから……」


 でも、いくら身長が高いとはいえ、この少女1人で俺を屋上から運び出すなんて真似ができるのだろうか? いや、そもそもとして、倒れてる人を見たら救急車か警察に連絡……。学校の屋上でのことなら、先生に言うのが普通じゃないか?


「君さ、飛び降りようとしてたんでしょ? それで、フェンスを登ろうとして、失敗して落ちて気を失った」


 こちらの思考を見透かしたような表情で、浅間さんは言葉を続ける。


「そんな君を教師に突き出したら、救急車を呼ばれて、騒ぎになって、今頃病院のベッドの上だ。目を覚ました君に、家族や教師が何を言うのか……。想像するだけで、気が滅入る」


「……だから思わず、連れて帰ってしまったと」


「そ。私はいい子だからね」


 嘘くさい笑顔。現実感のない言葉。それでも不思議と、不快感はない。


「ま、とにかく世話になった。俺はもう行くよ。このお礼は……できないかもしれないけど、本当に助かった。ありがとう」


 身体が動くのを確認してから、立ち上がる。どうやら俺の自殺は、失敗してしまったようだ。……本当に、とことんまで上手くいかない人生だ。あの時……父さんと母さんが死んでしまったあの時から、全てが狂ってしまった。


「待ってよ、蒼井くん。そんな逃げるようなことされると、私も少し傷つくな」


「別に逃げるわけじゃないよ。俺はただ──」


「言い訳は聞かなーい」


「ちょっ、なにを……!」


 柔らかな胸が、俺の胸板で潰れる。甘い香りが脳を痺れさせる。浅間さんが、俺の身体を抱きしめた。


「蒼井くん。私はもう少し、君と話がしたい。だから、行かないで」


「……話って、君は俺のこと何も知らないだろ?」


「知らないから、話を聞きたいんだよ。君に何があって、どうしてあんな顔で……泣いていたのか。私に君の痛みを教えて欲しい」


 柔らかで温かな感触。ドクンドクンと、浅間さんの鼓動が伝わってくる。心配するわけでも憐れんでいるわけでもない、感情の読めない真っ赤な瞳。


 浅間さんは、成績優秀で運動もできて顔もいい。おまけに親は、大会社の社長。なのに彼女は、いつも独りぼっち。



 ──浅間 衣遠に、人間の言葉は通じない。



 そう言われるくらい、彼女は普通の人とはものの考え方が違う……らしい。それもまた噂でしかない。俺はこの少女のことを、何も知らない。


「……はぁ、分かったよ。でも別に、そんな大した話じゃないよ?」


 でもどうしてか、この真っ赤な目で見つめられると、逆らう気になれない。気づけば俺は、自分に何があったのかを話してしまっていた。


 ……まるで魔法にでも、かかったみたいに。


「へぇ、随分と運がない1日だったんだね」


 俺の話を聞き終わった後。浅間さんはどこか嘘くさい表情で、小さく笑う。俺はベッドに腰掛け、天井を仰ぐ。


「別に、同情はいらないよ」


「同情なんてしないよ。でも、そこまで不幸が重なることは、中々ない。絵のコンテストに落選して、奨学金を打ち切られて、親戚の家を追い出されて、付き合ってた幼馴染を親友にとられて、後輩の女の子に馬鹿にされた。君が飛び降りたくなる気持ちも分かるよ」


「理解できたところで、共感はできないよ」


「ふふっ、理解と共感は同じものだよ。君はまだ、知らないのかもしれないけどね」


 浅間さんの手が俺の頬に触れる。冷たい手だ。思わず身体が震えるくらい。


「決めた。私が君を助けてあげる。絵のことは知らないけど、それ以外は全部、私がどうにかしてあげる」


「……どうにかって?」


「どうにかはどうにかだよ。行くところがないなら、この部屋を貸してあげる。お金がないなら、好きなだけあげる。不満があるなら、どんなことでもしてあげる。私が君を……幸せにする」


「……意味が分からない。どうして浅間さんが、俺の為にそんなことを──」


「無論、タダでとは言わないよ? 実は君に、お願いしたいことがあるんだ。君にしかできない特別なお願いが、ね」


「特別なお願い……?」


「そ。だから私は、君を助ける。君はその時が来たら、私の願いをなんでも聞く。等価交換だよ、等価交換。……それに私、君みたいな子がタイプなんだよね。肌が白くて線が細い。クールで大人しそうに見えるのに、胸の内にとびっきりの悪魔を飼ってる。そんな可愛くて怖い男の子が、ね」


 そこで浅間さんが、俺から手を離す。赤い射抜くような目がこちらを見る。


「どうかな、蒼井くん。どうせ死ぬなら、私の為に死なない?」


 いきなりな展開で、理解が追いつかない。この少女が何を考えているのか、想像することすらできない。


 でも……


「分かった。なら俺は、君のために死ぬよ」


 それでも俺は、頷いた。頷くしかないくらい、彼女の笑みは魅力的だった。


 そうしてここから、変わった少女との同居生活が始まった。



 ◇



 神谷かみや 夜奈やなは、不安だった。


「……あーもう、苛々する」


 放課後の美術室。少し離れた場所で、手を動かすことなくコソコソと噂話をしている少女たち。夜奈はそんな少女たちに、苛立ちをぶつけるように舌打ちをする。……が、そんな舌打ちなんて聴こえていないのか、少女たちの言葉は止まらない。


「ねぇねぇ、知ってる? あのコネの先輩……蒼井先輩。なんか、屋上から飛び降りたらしいよ?」


「知ってる知ってる。でも、あれでしょ? 死体は見つかってないから、見間違いとかだったんでしょ?」


「でもでも! 蒼井先輩、3日も家に帰ってないらしいし。何かあったのは間違いないよ!」


「確かに。……あ、神谷さんなら何か知ってるんじゃない? あの子、先輩とは仲良しだったんでしょ?」


 噂話に興じている少女たちの視線が、夜奈に集まる。夜奈はそんな視線から逃げるように、立ち上がる。


「あたしは何も知りませんよ。別に……仲良くもないですし」


「あ、ちょっと待ってよ!」


 引き止める声を無視して、夜奈はそのまま美術室から出て行く。


「先輩が自殺なんて、そんなこと……あるわけない」


 蒼井 進が屋上から飛び降りたのを見たという噂が、学校中に広がっていた。しかし当の蒼井の死体は見つかっておらず、本人は行方不明。


 娯楽に飢えている生徒たちは、そんな蒼井のことを面白おかしく噂していた。


「あたしは別に、追い詰めたかったわけじゃないのに……」


 夜奈は不安だった。もし本当に蒼井が屋上から飛び降りていたなら、自分が責任を取らされるかもしれない。……などという不安ではなく、彼女はただ純粋に……。


「神谷さん、少し話いいかな?」


 そこで夜奈に声をかけたのは、蒼井と付き合っていた幼馴染の少女──宇佐うさ 莉里華りりか。彼女はウェーブがかかった金髪を指に絡めながら、夜奈を見る。


「……少しだけなら構いませんよ、宇佐先輩」


 莉里華の冷たい顔を見て、彼女が何を言いたいのか察した夜奈は、気怠げにそう言葉を返す。……進のいないところでも、彼を取り巻く環境が少しずつ変わっていく。


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