第4話 転移2日目
「では、お休みなさいませ。私はこちらの部屋で休ませて頂きます。御用の時はこちらのリンにて、いつでもお呼びください。」
すぐ隣の部屋に入ろうとした森を、太い腕が捕まえる。
「蘭ちゃんはこっち」
義顕は、森の小柄な体を小脇に抱えると自室に消えていった。
「じゃ、お休み。今日は疲れたでしょう。眠れそう?お酒でも付き合ってあげたいところだけど、明日朝が早いので失礼するね。今度、義明と3人で飲みにでも行こうぜ。じゃ、お休み。」
信康が立ち上がる。
「お心遣い痛み入る。」
やっと一人になった鹿之助は、あかるすぎるリビングの明かりを消した。夜だというのに明るい。眼下には無数の星が瞬いている。
この世界は、地上にも星が瞬くんだな。夜空の星はどこへ行ってしまったんだ。今日何度目かのため息をつく。俺はいったいどこにいるんだ。これは現実のことで、俺はちゃんと生きているんだろうか。訳のわからないことだらけだ。腑に落ちぬが、取りあえず疲れたので寝るか。起きたら元に戻っていたり。
夜空には、ビルの隙間からは三日月が見えるだけだ。
「おはようございます。眠れましたか?」
次の朝は、蘭丸の優しい声で目覚めた。元に戻っていないことに、若干、気落ちをする。
慣れぬベッドは、適度に体が沈み、思いのほかに深い眠りを誘ったようだ。白いシーツの上に長い黒髪を波打たせ、引き締まった腰から下はベッドカバーが乱れている。いつもは目が覚めると同時に起きるのに、けだるく、しばらく体が言うことを利かなかった。
頬を上気させた蘭丸が手伝って、綿麻のシャツとスラックスに着替えさせる。
「鹿之助様。明日からは自分で着られそうですか。」
「問題ない」
蘭丸が朝食を作ってくれた。白いご飯に豆腐とあおさの味噌汁。卵焼きにあじの干物。蕪の千枚漬け。贅沢すぎる。
朝食をとりながらこれからのことが話し合われた。これからひと月の間、現代の生活を学び、適正を調べたのちに、仕事というものに就かねばならぬらしい。
「仕事に就くまでの生活費は、国から補助金が出ますので心配いりません。同部屋の方たちは、ご自分たちも先人の方たちにお世話していただいてたでしょうし、また、次の方たちを手助けするという伝統がございます。お二方とも手広く商売をなさったりしていますので、気前よくなんでも買ってくれるでしょう。」
食後のお茶をすすりながら、予定表を眺める。この後は早速、転移局に行き、マンツーマンの個別指導があるらしい。
転移局に行くと、皆が一斉に鹿之助に注目する。高身長に小さい顔、波打つ黒髪は、一つに束ねられている。戦国時代の顔とは思えぬ鼻梁の高さ。少し釣り目の切れ長の瞳。大きめの薄い唇。口元のホクロがなまめかしい。女性社員はもちろんだが、鹿之助のガタイの良さに男子社員までもが羨望のまなざしで見ている。
蘭丸がなぜかどや顔で、辺りを見回す。
「私はこれから、仕事場に戻って昨日の分の日報を提出してきます。私はここまでで失礼してまた夜にお伺いいたします。では、鹿之助様はこちらです」
近くのデスクに案内されると、黒髪も豊かな女性が待っていた。
「鹿之助様、こちらは小町殿です。今日の先生です。日常生活に支障がないように教えてくれます。どんどん質問してくださいね。」
広いデスクの上には、大量の書物などが広げられている。椅子は何故か隣り合わせ。今日はいい日になりそうだ。
覚えることがありすぎて、頭がぼうっとする。小町殿という先生も最高。若いし優しいしかわいいし、意外とぐいぐい来るし。とりあえず、携帯というものが、とても便利だということはわかった。ぐーぐる 最高。小町ちゃんが不在でも、何でも教えてくれる。打つのに時間かかるけど。この小さな箱の中、どうなってるのか知りたいものだ。これから、昨日も転移の時に乗った電車に乗って家に帰るのだが、今日は小町殿が一緒に帰ってくれるらしい。
「私もあそこに住んでいるんですよ。今日は、早めに帰りましょう。」
小町殿は、わしの二の腕をそっとつかむと立ち上がった。
帰る道々、電車の乗り方、駅を降りると商店街で買い物の仕方。駅からタクシーの乗り方、支払方法、様々なことを教わる。今日の夕飯のために総菜やで適当に見繕う。見たこともない食べ物がたくさんあって目移りする。これからの楽しみになりそうだ。
夕飯は、こまちちゃんの家でごちそうになった。二人だけかと、期待していたが、同部屋の二人も帰って来ていた。3人のかわいい娘たちに囲まれ、悪い気はしないが、ちょっといたたまれない。今の状態では遠からず理性の扉を全開してしまう。いや、していいのか?
迷っていると、義明と信康が
「鹿之助君、飲みに行こうぜ。」
と、誘いに来た。近くのjazzbarに行こうという。「base」というそのバーは、本当に近くにあった。昼間だったら気が付かなかったであろう、小さなビルの地下にその店はあった。看板もネオンサインさえもない。わざと店があるのを隠しているように、壁と同化しているドアは、一見の客を拒んでいる。
中に入ると思いのほか広い。7割ほどの席が埋まっている。カウンターに一人、フロアに一人黒服がいる。
4人掛けのソファが3つ、2人用テーブルが3つ、カウンターは7席。贅沢にスペースを取ってある。程よい音量で重低音が響くオールドジャズ。間接照明はやや光をしぼってある。
「まずは、乾杯しようぜ。」
信康が慣れたようにバーテンダーに目配せする。
ほどなく、水割りセット、ミックスナッツ、グリーンオリーブとブドウのマリネ、タコのバジルソースが運ばれてきた。
「まずは、乾杯だな。新たなる世界へようこそ。存分に楽しもうぜ。乾杯。」
「鹿之助殿、とても呼びずらいので鹿ちゃんと呼んでもよろしいか。さわりがなければ。」
「くだけすぎなら、鹿さんでも。あ、俺はよしあきで呼ばれてるし、こいつは信康だから信さんで。」
ウィスキーは、響。カウンターの後ろには、貴重なアイリッシュウイスキーがオークの棚に並んでいるが、信康のお気に入りは、国産のウイスキーらしい。ウィスキーを口に入れたとたん、むせてしまった。喉の奥の方から香りが広がる。
「もう少し薄くしておこうか?慣れるまで。本当はそのままで味わうんだぜ。強くて胃がびっくりするだろうから、徐々にならそうな。」
グラスのなかに氷が入っていてびっくりする。どこの氷室から取り寄せたのか。透明度の高い氷がこんなにたくさん。ウィスキーはともかく、氷はとても気に入った。
男が一人、店に入ってきた。仕立ての良いピンストライプのスーツ。光沢のある紺のシャツをボタンをはずして着こなしている。鹿之助たちの方を一瞥すると、奥のカウンター席に着いた。水割りを口に運ぶたび、ちゃらん、とごついチェーンブレスレットが音を立てる。
「新しく来たってのは、あいつか?」
カウンターの中のバーテンダーに問う。
「鹿之助様と申されます。」
「へえ、山中鹿之助か。この間小説で呼んだばっかりだ。あいつがそうか。ふ、姿勢が良いな。まっすぐじゃないか。人前で崩すことをしない世代か。いい目をしてるな。」
姿勢を崩さないくせに笑うと目が無くなり、口を開けて歯を見せて笑う。それだけのことで、こいつ、いい漢だなと思わせる特殊なオーラを纏っていることに気づかされた。
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