第3話 掃除の子
いかに電車が空いているとはいえ、俺は可能な限り人混みを避けるために、できるだけ早く通勤することに決めた。毎日感染者が増えているし、取り引き先でも感染者が出て、オフィスのワンフロアを消毒したという話がちらほら聞こえて来た頃だった。
ある朝、俺が会社に行くと、誰かが無人のオフィスに掃除機をかけていた。後ろを向いているけど、細い感じでスタイルがいい。背中を見た感じではまだ若そうだった。知的障がいの人かな。かわいい子だったらいいなと変な期待をしてしまった。もちろん、観賞用だ。口説いたりなんかしない。俺は既婚者だし。若い子を騙すのは最低だというのも理解している。おじさんになると、若い子は見てるだけで楽しいもんだ。
俺はその人に近付いて行った。時々、横顔が見えたけど、その人は、色白でショートヘアで、小顔だった。マスクをしていてもかわいいのがわかった。目がぱっちりしていたし、マスクを外しても、絶対かわいいだろうという感じだった。髪がサラサラで手もきれいで、そんな仕事をしてるのがもったいないない人に見えた。そんな仕事というのは失礼だけど、若い子なら受付とか、接客とかあるだろう。その時は、コロナ禍というのを忘れていた。
その時、同時に気が付いたのだが、その人は何度も洗ったような、ゴワゴワのガーゼマスクをしていた。あ、マスク買えてないんだ。俺は希少なマスクを買い占めていることを恥じた。
この子にマスクをあげよう。
俺は決めていた。
いきなり言うのは変だから距離を詰めよう。
その人は黙々と掃除機をかけていて、俺に気が付いていなかったようだ。
そもそも、誰も出社していないんだから汚れるはずはない。掃除機はやらなくていいと言ってやろう。
「おはよう」
俺は自然とため口になってしまった。その人は、うつむいて仕事をしていたから、聞こえなかったみたいだ。俺はもう一回大きな声で言った。
「君、君」
「はい」
やっと俺に気が付いて掃除機を止めた。
その子は俺と全然目を合わせなかった。俺の腹の辺りを見ていた。
「今、誰も会社に来ないから、掃除しなくて大丈夫だよ」
「あ、でも…やるって決まってるんで」
すごく小さい、おどおどした声だった。
しかも、男だったのだ。
俺はその人に話しかけたことを後悔した。喋るのが苦手なんだ。だから、こういう(汚い)仕事をしてるというのが、一瞬でわかった。
彼は掃除することで一時間いくらかの時給をもらってるんだ。俺ははっとした、
「そっか、邪魔してごめん。コロナなのに、掃除してくれてありがとう」
俺は部屋に入ると、話しかけてしまったことを激しく後悔した。
あっちだって、今はコロナだし、人と喋りたくなかっただろう。恥ずかしかった。
そして、俺が個室に入って仕事をしていると、彼が中に入って来た。
「失礼します」
蚊の鳴くような声で、床を見たままだった。ぺこぺこと歩きながらお辞儀をしていて、異常にへりくだっている。何だ、この子は。
まるで、庄屋と小作人みたいな距離感だ。
俺はちょっと緊張して手を止めた。何をするかじっと見ていると、俺のデスクの方まで来てゴミ箱にかがんだ。やはり、他人に足元に跪かれると緊張する。すると、彼はゴミ箱ごと持って行くと、部屋の外で中身を空けて戻って来た。
「悪いね」俺は言った。
その子は頭を下げて出て行こうとした。
「あ、君…」
「はい」
すごく緊張したような返事が聞こえた。
「君、マスクってどうしてるの?」
その子がガーゼのマスクをしていたから、気になって声を掛けた。
「あ、百均で買ってます」不織布をしてないことに、俺がクレームを入れると思ったようだった。
「不織布のマスクいる?」
「え?」
「ドラッグストアで買いすぎて…いっぱいあるから」
そうなんだ。俺はドラッグストアで買い占めて余っていたから、マスクを一日何度も取り換えていた。俺はその子に、七枚入りの一パックを御裾分けした。大手メーカーの製品で、金額にして五百円くらいのものだった。
「君、小顔だから大きいかもしれないけど」
「あ、ありがとうございます」
その子は頭を下げて出て行った。一回も目を合わせなかったが、その子が嬉しそうだったのはわかった。
俺もいいことをしたようで嬉しかった。毎日使えるように、もっとあげようかな。今度、小顔用のも買って来ようか。
俺はマスクの販路を調べ上げていて、早朝のコンビニに行くと、マスクが買えるというのも知っていた。今思うと、俺はエゴの固まりだった。
今思うと気持ち悪いけど、その後は、あの子のことを俺はずっと考えていた。
男の子だけど、肌が白くて、全体的にほっそりしていて、物凄くかわいい子だった。何でこんな仕事してるんだろう。もったいないな。もっといい仕事があるんじゃないか。
インフルエンサーとか。
ホストとか。
モデルとか。
アイドルとか。
世の中、自分の価値をわかっていない人っているもんだ。彼もそうなのかもしれない。
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