最終話

 私は荷物を取りに行くため、嫌々ながらも今自宅の前にいた。


 鍵を開け、恐る恐る家に入る。

 そこにはあの影はおらず、数日前と全く同じ景色が広がっており私は安堵のため息をつく。


 ドアの染みを見てみると、以前と変わらず赤黒い人型の染みが広がっているだけだった。


 リビングに行くと、クローゼットの扉は半開きになったままだった。


 以前ならその光景を気味悪がっていただろうが、私はクローゼットが半開きになっていることに安堵していた。


 もし、未だ閉ざされたままであったのなら、私は今すぐにでもこの場から逃げていただろう。


 半開きになったクローゼットの中は、宇宙空間のような光の届かない暗黒が広がっていた。

 私は導かれるように、その暗闇に手を伸ばす。


 しかし、私は手を止める。


 視界の端に奇妙なものが映ったからだ。


 それは古びた小さな紙切れのようなものだった。


 数日前にはこんなものは落ちていなかったはずだ。


 私はそれを拾い上げ、よく観察する。その紙は破れてしまったような長方形で、ざらざらとした質感をしており、長い年月が経過したのか埃にまみれていた。


 表面には何か幾何学的な紋様が施されていた。私はこの紋様を初めて見た気がしなかった。


 これはどこかで――。


 そんなことを考えながらクローゼットの中を見ると、暗闇は赤黒く蠢いていた。


 そして、勢いよく音を立ててクローゼットは閉まった。


 玄関の方を見ると、ドアの方も、あの暗闇に呼応するように赤黒く紋様を蠢かせていた。








 それ以降のことを私は覚えていない。


 気づいたときには、すでにあの部屋から引っ越してしまっていたからだ。


 荷物も、あの部屋からどうやって運んだかも覚えていない。


 人間はあまりに恐ろしい恐怖に晒されると、記憶が欠落すると聞いたことがある。

 私もきっとそうなのだろう。


 あの後、私は自分の家について調べてみることにした。

 ネットで検索したが、それらしい情報は全くと言っていいほどヒットしなかった。


 不動産屋にも問い合わせてみたが、あの部屋は事故物件でも無ければ、同じマンションで死人が出たということもこれまでに無いとのことだった。


 私の前に住んでいた住人は、あの部屋に5年ほど住んでいたとのことだ。その間、特にクレームもなかったと言われた。



 ここで私の勝手な考察を披露しようと思う。


 あの紙切れ――あれは御札のようなものなのではなだろうか?


 紙切れの紋様、あれは影にまとわりついていた赤色のものと全く同じ形をしていた。

 だから、それを封印するための御札。


 あの影のようなものは、きっと外に出たがっているのだ。


 だから、クローゼットから這い出て扉に染みをつける。

 あのドアの染みは、その結果なのだろう。


 あの染みがドア全体に広がったその時は――どうなるのだろうか?


 誰が何のために、あの部屋にあんなものを閉じ込めているのかは分からない。

 前の住人がやったことなのだろうか。


 しかし、あの紙切れは5年以上――いや、数十年は経過していそうな消耗具合だった。

 下手をすればマンションが建造された時代よりもさらに前のものかもしれない。


 私はあの部屋にもう関わろうとは思わない。


 だが、あの部屋は今も存在し、入居者を募集している。

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赤暗闇のクローゼット 不労つぴ @huroutsupi666

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