第23話 けんか
「冬樹は……命の恩人!」
叫ぶようにもう一度言って、空は洞穴跡の前でへなへなと座り込んでしまった。
「はあ……長年思っていたことを、ようやく言えたわ……」
俺は彼女の隣に腰を下ろした。
あの日起きたことを思い出そうとした。
懸命に歯でロープを噛んで、それほど結び目がきつくなかったから、たまたまうまくほどけて、空とあかりちゃんを解放することができた。
それから俺は「ふたりとも逃げて」と言って……。
いや、「きみたちだけでも逃げろ」と言ったのか……?
空の話には、俺の記憶との食いちがいがあった。
あの男の人の頭にかかとを落とそうとしたのは俺だ。あかりちゃんは俺が実行できなくてがっかりしただけで、蹴ろうとまではしなかった。いや、蹴る直前までいったのだったか……?
鮮明だと思っていた記憶がぼやけて、なにが本当にあったことなのか、よくわからなくなってきた。
もう何年も前の出来事なのだ。
ひとつだけ確かなことがある。
彼女たちは俺を実像以上に高く評価している。
俺はかっこよくなんてなかったし、ましてやヒーローなんかではない。
「ずっとそんなことを思っていたの? 俺なんか、たいしたやつじゃないのに……」
空の隣で俺はつぶやいた。
「ちがう、冬樹はすごいわ。ここは特別な場所で、あなたは特別な男の子なのよ!」
彼女が強く言うので、俺はもう否定できなくなって、黙って景色を見つめた。
展望台ほどではないが、ここからの眺めも悪くない。
俺たちの街が見下ろせる。
電車が駅から発車して、速度を上げようとしていた。その風景がジオラマのように見える。
空が腰の位置をずらして俺に近づき、頭を俺の肩にのせた。
柑橘系の甘い匂いがした。
綺麗な女の子が俺にぴったりと寄り添ってくれている。
頭がぼうっとして、なにも考えられなくなってきた。
空とあかりちゃん。
ふたりともとても可愛い……。
「あかりちゃんとけんかしたの?」
思わず口から漏れていた。
ずっと気になっていたことだった。
空は俺の肩から頭を離し、不機嫌そうに遠くの山々を見つめた。
「ちょっと言い争いをしたわ……」
「どんな?」
「天乃さんのせいであぶなかったとか、浅香はなにもしなかったとか言い合った……」
「きみたちは仲がよくて、あかり、くうっちって呼び合っていたよね?」
「さあ、もう忘れたわ」
空は雑草をちぎって、宙に投げた。
やっぱりけんかはあったんだ。
空とあかりちゃんの間に亀裂が走ったのは、あの事件が原因だった。
いまに至る人間関係は、すべてあのときに端を発して形成されていたのだ。
空が立ちあがり、スカートを手で払った。
「帰りましょう」
登山道のマイナールートは狭くて、ふたり並んでは歩けない。
今度は彼女が先頭に立って、山道を進んだ。
俺は彼女の後ろ姿を見ながら歩いた。
黒いストッキングにつつまれた脚はすらりとして美しい。
あんまり見てはいけないと思っても、目を離すことはできなかった。
下山したら、正午ごろになっていた。
「お腹がすいたわね」
「そうだね。どこかで食べていこうか」
「うん」
「なにか食べたいものはある?」
「身体が冷えちゃった。あたたかいものが食べたいわ」
あたたかい食べ物なら、心当たりがあった。
「鍋焼きうどんが美味しいお店があるけれど……」
「いいわね。そこに行きましょう」
駅前のうどん屋さんは、俺の家族の行きつけだった。
老夫婦が切り盛りしている老舗で、メニューが豊富だ。
きつねうどんや天ぷらそばのような定番メニューも美味しいが、熱々の鍋焼きうどんが俺のお気に入り。
店に入ると、お客さんでいっぱいだったけれど、ちょうど食べ終わった人がいて、入れかわりで座ることができた。
俺たちはふたりとも鍋焼きうどんを注文した。
おじいさんが厨房で料理をし、おばあさんが接客を担当して、狭い店内を動き回り、うどんやそば、お水を運んだり、レジで代金を受け取ったり、食器を下げたりしている。
忙しく働いているふたりはかなりの高齢だけれど、まだまだ元気でいきいきとしている。
鍋焼きうどんがテーブルに運ばれてきた。
蓋を開けると、もわっと湯気が立ちのぼった。美味しそうな具がたっぷりと入っている。
鍋からはみ出しそうになっている海老の天ぷら、半熟の卵、紅白のかまぼこ、長ねぎ、ほうれんそう、しいたけ。
俺たちはずずっと音を立ててうどんをすすり、夢中になって食べた。
「美味しかったわね。いいお店だわ」
うどん屋さんから出た空は、満足そうだった。
「父さん、母さんとよく来たお店なんだ」
「タイではこんなに美味しいうどんは食べられないでしょうね」
「きっとそうだね」
熱帯の国にいる両親は、いまごろなにをしているのだろう。
タイの辛い料理でも食べているのだろうか。
「ご両親がいなくて寂しい?」
「うん。少し寂しいかな」
「家族がいなくなると、家の中ががらんと広く感じられるわよね。お姉ちゃんが家を出たときは、わたしも寂しかった」
空には4つ年上の姉がいる。
俺はあまり話したことがないけれど、清楚で綺麗な人だ。
「お姉さんはいまどこにいるの?」
「東京の美術大学。油絵を学んでいるわ」
大学に通うために、家を出たんだな。
そんなことを思ったとき、不意に空に似ている女の人のヌード写真集のことが頭に浮かんだ。
「ねえ、空のお姉さんって、目の下にほくろがあったっけ?」
「よく見ているわね。あるわよ、ほくろ。左目の下に」
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