第17話 闖入者
空が目を覚まし、大きな男の人を見て、「ひっ」とのどを鳴らした。
ふだんは元気なあかりちゃんも、突然現れた大人の男性にびっくりしたのか、言葉を失っていた。
男の人は出入口に立って、しばらく俺たちと洞内のようすをうかがっていた。
「子どもだけか」
男性はのっそりと中に入ってきた。
俺の頭の中でサイレンが鳴った。
出入口はひとつで、他に逃げ場所はない。
「入ってこないでください。ここは俺たちの基地なんです」と俺は言った。
あかりちゃんが俺たちのリーダーだけれど、俺は男だ。女の子ふたりを守らなければ、と思った。
男の人は立ち止まり、意外なほど寂しげな顔を見せた。
そのとき俺は、その人がひどくやつれて、ひげが伸び、すさんでいるのに気づいた。
「外は雨だ。雨宿りくらいさせてくれよ。ここはずいぶんと居心地がよさそうじゃないか」
そう言って、ゆっくりと近づいてきた。
寂しそうだからといって、穏やかな人とは限らない。
「帰ろう、空、あかりちゃん」
俺は男の人の動きに注意しながら立ちあがった。空とあかりちゃんも立った。
男性は俺をじっと見ていた。
俺は幼馴染たちに視線をやり、「行くよ」と言って、男の横をすり抜けようとした。
できなかった。
ぱっと手首をつかまれた。
「そんなにつれなくしないでくれよ」
男の人と目が合った。
どんよりと濁った生気のない目。
「こんなところで可愛い子どもと出会えるなんて奇跡だ」
俺の手首は男に強く握られた。
俺は逃れようともがいたが、振りほどけなかった。
「3人とも座れ」
黒いレインコートを着た大柄な男性に命令されて、あかりちゃんはブルーシートの上にぺたんと尻もちをつくように座った。
俺は男の人を刺激しないようにおとなしく座った。
手首を痛いほどきつく握られた。暴力的であぶない人だ、と俺ははっきりと悟っていた。
空は反応できなくて立ち尽くしていた。
「座れって言ってんだろ!」
いきなり怒鳴った。やっぱり危険な人だ。
空は震えながら俺の横に腰を下ろし、両手で膝をかかえた。
「ちょっと休ませてもらうよ」
男の人は俺の正面に座り、背負っていたリュックサックを降ろした。
ぷーんとお酒の臭いがした。
頭の中で激しくサイレンが鳴りつづけている。
早くここから離れるべきだ。
俺は勇気を振り絞って言った。
「どうぞ好きなだけ休んでください。俺たちは帰ります」
「少しだけつきあってくれよ」
男性はリュックからロープと茶色い液体が入った瓶を出した。
「私は山に死にに来たんだ。このロープで」
彼は手で首を吊るしぐさをした。
「誰にも迷惑をかけないようにやる。もっと山奥に入って、丈夫な木の枝にこれを縛りつける」
彼は瓶に直接口をつけて、液体を飲んだ。またお酒の臭いがした。
男の人は首吊り自殺をしようとしている。
止めるべきなのだろうか。逃げるべきなのだろうか。立ち去ってくれるのを待つべきなのだろうか。
彼は顔をくしゃと歪めて、悲しげに俺を見つめていた。
なにか言わなくちゃと思った。
「し、死なないでください」
「やさしいじゃないか。私にもきみくらいの年の息子がいる。やさしくて可愛い子なんだよ。きみみたいにね」
「それなのに、どうして……?」
「息子はいまどこにいるかわからない。何か月も前のことだが、急にいなくなった」
男性はまたお酒を飲んだ。
「仕事から帰ってきたら、嫁と息子がいなくなっていた。最初はなにがなんだかわからなかった」
くさい息を吐いた。
「誘拐されたのかと思ったが、ちがったよ。部屋には荒された跡はなく、嫁と息子の私物だけがすっかりなくなっていた。私は家族に逃げられたんだ。貯金も根こそぎ下ろされて消えていた……」
男は俺の両手首をロープで縛った。
「なにをするんですか。やめてください!」と言ったが、男は黙って俺の手をきつく縛りあげた。
ロープは長く、まだまだ余っていた。
男は俺の隣にいて、呆然としている空の手首も縛った。
そのとき、あかりちゃんが立ち上がって、走り出そうとした。
「逃げるんじゃねえよ!」
男はまた怒鳴って、彼女のお腹を殴った。
まともに拳を食らって、あかりちゃんは「がはっ」とうめき、お腹を抱え、背中を丸めた。
男は話しつづけた。
「嫁と息子の行き先を探したよ。まったくわからなかった。私は絶望した。仕事も手につかなくなって、首になった。なにも悪いことをしていないのに、なにもかも失ってしまったんだ……」
しゃべりながら、男はあかりちゃんの両手も縛った。
「ちょっとばかり嫁に手をあげたことはある。ほんのちょっとだよ……」
男はきょろきょろと目をさまよわせ、岩の出っ張りを見つけて、ロープの端を縛りつけた。
「きみたちは逃がさないよ」
据わった目で俺を見下ろした。
俺たちは3人とも囚われてしまったのだ。
「これ、ほどいてください。誰にも迷惑をかけないって言ったじゃないですか」
「ああ、確かにそう思ってた」
男は腰を据えて、お酒を飲み始めた。
「でもなんか気が変わった。道連れにしてやろうかな……」
男の目はどんよりと濁っている。
「いやあッ、帰りたいッ」
あかりちゃんが叫んだ。
男は彼女の頬を張った。ぱぁんという大きな音がした。
「うっ、うっ」
あかりちゃんは涙を流し始めた。
「トイレに行きたい……」と空がおずおずと言った。
「その場でしろ」と突き放すように言われて、彼女もすすり泣いた。
俺はひどくのどが渇いていた。
男は俺たちの前で酒を飲みつづけ、嫁が息子がと愚痴を言い、やがてろれつが回らなくなって、寝入ってしまった。
「なんとかして脱出しよう」
俺は手首を動かしてロープをほどこうとしたが、無理だった。
「だめだ、かたい……」
「わたしもだめみたい」
「帰りたいよお……」
外はもう暗くなっていた。
父さんと母さんは心配しているだろうな……。
雨音は日中より激しく、洞穴の中に雨水が流れ込んで、水たまりができていた。
のどの渇きが耐えがたくなって、俺は雨水をすすった。
それを見て、あかりちゃんも飲んだ。尿意を訴えた空は、水を飲むのを我慢していた。
「わたしたち、どうなっちゃうのかな……」
「親が心配していると思う。きっと助けが来るよ」
「この人、あたしたちをどうするつもりなんだろう」
「きっと解放してくれるよ」
あかりちゃんは首を振った。
「本気で殴られた。まともな大人じゃないよ。さっき道連れとか言ってたし、あたしたちたぶん無事では済まない……」
そうかもしれない。
男が眠っているいまが、最後のチャンスなのかもしれない。
「この人、死のうとしてるんだよね?」と俺はつぶやいた。
空が息を飲んだ。
「そうだよ、山に死にに来たって言ってた」とあかりちゃんは言った。
「じゃあ死なせてあげてもいいかな?」
あかりちゃんはうなずいた。
空を見ると、彼女も震えながら小さく頭を下げた。
俺は黒いレインコートの男を見下ろした。
大きないびきをかいて、岩の上に頭をのせて眠っている。
手首は縛られているけれど、俺の足は自由だ。
このかかとを、思いっきり男の頭に落としたらどうなるだろう。
想像すると、呼吸が荒くなった。
俺は暴力を振るったことがない。
人を全力で、殺すつもりで蹴るなんてできるだろうか。
空がごくりとのどを鳴らした。
あかりちゃんは期待の込もった目で、待ちわびるように俺を見つめていた。
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