第18話 歯

 俺は足を上げ、横を向いて眠っている男のこめかみのあたりにかかとを落とそうとした。

 でも、それ以上足は動かなかった。

 殺すつもりで人を蹴るのは、俺にとってとてつもなくむずかしかった。

 殺したいとは思わなかったし、殺せるとも思えなかった。

 俺は足を下ろした。

 

 あかりちゃんは明らかに失望したようだった。

 ランタンに照らされた彼女の目は俺を責めるように細められ、その口はへの字に曲がっていた。

「このままじゃあたしたちは殺されるかもしれないんだよ」

 そう非難された。

「ふゆっちがやらないなら、あたしがやる」

 彼女は男の前に踏み出した。


「待って。俺たちの力じゃ大人の男の人を殺すなんて無理だよ」

「やってみなきゃわからない! 殺さないと殺されるの!」

 彼女は大声を出した。かなり大きな音が洞穴内で反響した。 

 男が起きると思ったけれど、相変わらずいびきをかいて眠っている。


 あかりちゃんに人を殺させるなんてだめだ。

 それがそのときに俺が思ったことだった。


 俺は彼女の手首を縛っているロープに歯を立てた。

 口で懸命にほどこうとした。

「無理だよ。意外とかたいんだよ、これ」

 それこそやってみなきゃわからない、と言おうとしたけれど、ロープを噛んでいるので、ほがほがと口から空気が漏れただけだった。

「なに言ってるかわからないよ、ふゆっち」

 あかりちゃんは泣き笑いをした。


 俺は歯で結び目を噛み、引っ張り、首を振って緩めようとした。右から、左から、上から、下から噛んだ。

 微かにロープが緩んだような感じがあって、俺はさらに強く噛み、思いきり引っ張った。

 あかりちゃんは反対方向へ手を引いた。

 ほどけた。


「ふゆっち、口から血が出てる……」

「痛くない」


 俺は空の結び目にも噛みついた。

 今度はなんとなく要領がわかっていて、ぐいぐいと歯でロープを引っ張っているうちに緩んで、さほど苦労せずにほどくことができた。


 あかりちゃんは自由になった手で俺の結び目をほどこうとした。

 なかなかうまくいかない。

 俺は自分のロープに噛みついたが、それだけ妙にかたくて、ほどけなかった。


「ふたりとも逃げて!」と俺は言った。

「でもふゆっちが……」

「いいから逃げて! 助けを呼んできて!」

「あかり、行こう」

 空は懐中電灯を手に取った。

「冬くんの言うとおりにしよう。お父さんとお母さんに来てもらうんだ」

「ふゆっち、必ず助けにくるからね!」

 ふたりは走って、洞穴から出ていった。

「気をつけてね!」

 雨が降っていて、夜道は暗い。

 彼女たちが無事に家に帰れますように、と俺は祈った。

 その場に座り込んだ。

 もし俺がここで死んだとしても、空とあかりちゃんを助けることはできた。

 3人とも死ぬことはまぬがれたんだ。よかった……。


 ふたりが脱出してしばらくしてから、男は目を覚ました。

 彼はぼんやりと俺を見て、「あっ」と叫んだ。

「他のふたりはどうした?」

 答えなかった。

「逃げたのか……」

 男は両手で頭を抱えた。

「どいつもこいつも逃げ出しやがる。くそっ……」


 ざーっという雨音を立てて、土砂降りの雨が降りつづいている。

「やべえ、警察に通報されてるかもしれん……」

 男は急に立ちあがり、俺を放っておいて、そそくさと洞穴から出ていった。

 あとには両手首を縛られた俺だけが残された。

 あれ、助かったのかな、と思った。急に歯と唇が痛くなってきた。


 ほどなくして、父さんと母さん、空とあかりちゃんが洞穴に現れた。

 俺は母さんに抱きしめられた。

 警察官もたくさん来て、洞穴の中を調べ始めた。

 いつの間にか雨音はやんでいた。


 こうして、俺は救出された。

 家族に逃げられた男の人が山奥で自殺したのかどうか、いまに至るまで俺は知らない。

 俺の手を縛ったままにして、洞穴にロープを残して去ったから、首吊りはできない。死んでいないかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る