第36話 失われた文字を求めて

「な、何故っ!?」

 今度は、灯が疑問の叫びを上げる番であった。

 灯は、次のページを捲ってみたものの、そこにも文字は一文字すら書かれてはおらず、最後のページに至るまで白紙のままであった。


 夢でも見ていたのであろうか……。


 神保町の青空古本市で、深緑色のブキニストから、このプレラッティのグリモワールを贖った時、この本には確かにラテン文字が書かれていた。

 そして、東京大神宮の境内で意味も分からないままに声に出して読んでしまったそのテクストこそが、法と火の魔神アイムを召喚するヘブライ語の呪文を、表音文字であるラテン文字で書き下したものであった。

 自分のすぐ脇に、炎髪有角の大柄な男が存在している事それ自体が、灯の手の中にある肌色表紙の本に文字が書かれていた確かな証であろう。

 でも、それならば……。

「どうして、文字が全部消えているんだ?」

「汝よ、それはじゃな、ひとたび術を行使すると、書から文字が消え、同じ魔術書を用いての召喚が二度はできぬような式が組まれておるからなのじゃ」

「まじかよ、そんなの、きいてないよぉぉぉ~」

 灯は、再び、被っていたキャップを地面に叩きつけた。


「汝よ、いったん気を静めるのじゃ」

 灯は胸に手を当てると、自らを落ち着かせるかのように、右の掌を心臓の上に置くと、ゆっくりと下方に撫で下ろした。

「ふ、ふぅぅぅ~。アイムさまは、例えばソロモン王やボクによって、これまで何度もこの世界に召喚されているのですよね」

「然り」

「それじゃ、一度呪文を唱えると、それっきりで、グリモワールから呪文が消えてしまうのならば、一体どうやって、アイムさまは何度も召喚されてきたのですか?」

「一度、術を行使すると、呪文は消え去り同じ魔術書は二度と使えなくなる。じゃから、術師たちは呪文を暗唱できるようにしたり、あるいは、〈写し〉を作り、その複製した方を使って召喚術を行使してきたのじゃ」

「あっ!」

「ゆえに、ワレは汝に述べたのじゃ。『何故に、〈写し〉をせぬままに、直接、本にて召喚術を行使したのじゃっ!』と」

「そうゆう事だったのかっ!」


 でも……。

 それでは、魔神アイムを〈送還〉するには一体どうしたらよいのだ?

 手持ちのグリモワールから文字は失われてしまっている分けだし……。

 意味ある単語の連続だったのならば、まだ記憶に残っていたかもしれないが、いかんせん、読み方が分かるだけの、意味は不明な語の連続を単に音読しただけだったので、本に書かれていた文字など何一つとして覚えてはいないのだ。


 どうにかならないものか、と思考をぐるぐると巡らせてみたものの、灯には全く妙案が思い浮かばなかった。

 これは――

「ば、万策尽きたぁぁぁ~」

 灯は、被り直した帽子の両脇を両手で押さえながら、つい叫びを上げてしまった。


 それから、灯の脳裏にふとこんな疑問が浮かんだ。

「ところで、〈送還〉の呪文って、〈召喚〉の時に唱えたのと同じなのですか?」

「否っ!」

「それじゃ、文字が消えていようがいまいが、そもそもの話、このグリモワールで〈送還〉はできなかったのではないのですか?」

「否っ!」

「どっちも『否』『否』って、いったいどうゆう事なのですっ!?」


「汝よ、先ずは、ワレの話を聞くのじゃ」

「はい」

「汝が持っておる魔術書は、ワレを〈召喚〉する呪文が書かれていたものじゃ」

「消えちゃいましたけどね」

「通常、〈召喚〉の魔術書は二つに分けられておる」

「上巻と下巻みたいなものなのかな?」

「その『ジョーカントゲカン』というのはよく分からんが、要は、召喚の書と送還の書は、普通、分割されておるものなのじゃ」

「だから、これが、その『召喚の書』ならば、そもそも〈送還〉には使えなかったのではないかって話で、なんでそれが『否』なのかって事なのですよっ!」


「実はじゃな、送還の書が無くとも、召喚の書だけで、ワレを送り返せる術があったのじゃよ」

「なんですとっ! そんな裏技みたいなのが消えた文字に隠されていたなんて……。それじゃ、やっぱり、文字が消えちゃったのは大問題じゃんかよ……」

「じゃろ?」

「ところで、それってどういった方法だったのですか?」

「なぁに、それは極めて単純で、召喚の書を逆から読んでゆくだけじゃ」

「というと?」

「そうじゃな」

 アイムは、座っていたベンチの前の鉄柵に掛けられていた白地に黒文字の看板を指さした。


「汝よ、そこの文字を読んでみよ」

「『せんろないにごみをすてないでください』ですね」

「ふむ、今、汝は左から右に読んでいった分けなのじゃが、それを逆から、右から左に読むとどうなる?」

「『い・さ・だ・く・で・い・な・て・す・を・み・ご・に・い・な・ろ・ん・せ』ですね」

 灯は、読み間違えないように一文字一文字を丁寧に読み上げていった。

「要は、召喚の呪文を反対側から読めば、それが送還の呪文となるのじゃ」

「でも、ですよ。アイムさま、順読みすれば召喚、逆読みすれば送還ならば、そもそも、召喚の書と送還の書に分けずに一冊で事足りるのでは?」

「たしかに汝の言う通りなのじゃが、文字数が少ない場合には間違わずとも、これが長くなると、実は、慣れぬ逆読みはそう簡単ではないのじゃよ」

「たしかにそうかも」

 灯は、鞄から適当に本を一冊取り出してみて読んでみたが、逆読みは、読めない事はなかったものの、つっかえつっかえになってしまった。

「これは、簡単じゃないぞ」

「そのようにたどたどしくなっては術は発動せぬのじゃ。

 そこで、召喚の書とは別に、順読み版の送還の書も作られるようになった次第なのじゃ」

「なるほど……」

「で、じゃ。汝よ、その手にある召喚の書と対になっておるはずの送還の書はどうした? 通常、両書を同時に手に入れるものなのじゃが」

「な、なぃです……」

「えっ? 何だって?」

 消え入りそうな小声での返答が魔神にはよく聞き取れなかったようだ。


「ボクが手に入れたのは、この召喚の書〈だけ〉なのです……」

「う、嘘じゃろ。嘘だと言ってたもれ」

「ほ、本当に、神保町の青空古本市で買ったのはこれ一冊っきりなのです」

「あ、ありえぇぇぇ~~~ん」

 今度は、魔神アイムが、自分の二本の角の根本あたりを押さえながら、何度も頭を横に振っていた。


「あっ!」

「突然、どうしたのじゃ? 汝よ」

「あくまでも可能性の話になるのですが……」

「なんじゃ? 疾く申せ」

「ボクが、この召喚の書を買った深緑色のブキニストに、もしかしたら送還の書があるかもしれないのです」

「汝よ、本当かっ!」

「実は、その店には、肌色表紙の人皮装丁本が二冊あって、一冊買うには財布の中身全部って言われて、これだけしか買えなかったのです。その時は、二冊は同じ本としか思わなくて、もしかしたら、残りの一冊が、その送還の書だったのかもしれないって今思い付いたって分けで」

「多分、それじゃっ!」


 一人と一柱は光明が見えたような思いを抱いた。


「ところでじゃ、汝よ。その深緑色の露店はいずこにあるのじゃ?」

「神保町ですっ! この飯田橋からならすぐなので、明日、いや、もう日付的には今日か、とまれ、青空古本市の開始と同時に凸りましょう。

 いざ、神保町へ、ですね」

 そう言いながら灯は、タブレットに映し出していた、アイムの魔法陣を重ねた千代田区の地図で、神保町の位置を魔神に指し示した。


「ならぬ……」

「えっ、何が?」

「そのジンボチョウとかいう地は最後に訪れる点という術法を掛けてしまっており、その〈制約〉を破る分けにはいかぬのじゃ」


 飯田橋から神保町までは約二キロ、徒歩で二十五分程度の距離なのに、そこに至るまでに大回りをせざるを得ない事に愕然とした気持ちになった灯であった。

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