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『そろそろ、別れた方がいいと思うんだ』


 彼は私に、確かにそんな言葉を吐いた。申し訳なさそうな表情を浮かべている。困り眉と言えるほどに、その角度は歪になっている。頬の筋肉が緩むことはなく、どこかこわばっている様子。罪を感じている彼のその表情に対して、私は人間というものを考えた、私というものを考えてしまった。考える他に選択肢などあるわけがなかった。


 人にはそれぞれ悪性というものが存在すると思う。きっと、それは罪とも言えるものかもしれない。


 生きる上で罪を犯さない人間などいない。些細なものであれ、重大なものであれ、それは関係なく行われる。人は必ず何かしらの罪を犯して生きるものであり、それから逃れることは誰にもできない。それは生命を受ける赤子であれ同様だ。


 例として挙げるのならば、生きる上では食事が必要になる。食事に必要になる食材はどうだろう。動物であれ植物であれ、確実にそれらは命を奪われたうえで提供される。悪趣味な食事を考えるのならば、命を食と同時に奪うものもある。不死が存在しない世の中で、これは絶対的なものであり、それを喰らいながら私たちは生きている。罪を抱えながらでしか、私たちは生きることはできない。


 私たちは罪人だ。その罪の重さを測ることはできないものであると考えているが、そうすることで逃避を図ろうとしているのかもしれない。それを律して思考を繰り返さなければいけない。私が犯している罪を、彼と犯している罪を認識しなければいけない。


 人には感情がある。その感情を私は利用した。私にはそんな罪がある、その罪を抱えているという自覚がある。思い出すのは嫌で仕方がない。だが、罪は抱えるからこそ意識に張り付いて消えないものであり、罪悪感とは背中にまとわりついて刃のように心臓を突き刺してくる。その痛みを繰り返して、贖罪のような紛いごとを繰り返す。だが、罪は清算されることなどなく、その罪を受容できるかと言えば違う。


 記憶を掘り返すことはしたくないが、彼の言葉はて意識させるように紡がれている。その言葉に対して、私は真剣に咀嚼を繰り返し、罪をなぞらなければいけない。


 彼はこう言っているのだ。


『今こそ罪を清算しろ』、と。





 彼と私の出会いは、夏場の公園だった。


 大学で人と馴染むことができなかった私は、どこにも居場所を見出すことはできず、近場にあった公園に寄って適当な時間をつぶすことしかできないでいた。適当な教科書類や、買ってきた本をベンチの上で広げ、静かとは言えない子供たちの喧騒の中で読書らしいことを繰り返す。だが、視線はいつも空をなぞっており、内容が頭の中に投影されることはない。視線は文章を滑るだけで、そんな活動から生まれるものは何一つない。私は孤独でしかなかった。


 そんなときに彼は話しかけてきた。


 白髪とも銀髪ともいえるかもしれない髪色、痩せこけている上に夏場だというのに厚着をしている彼に話しかけられた。そのとき、彼はどんな言葉を吐いたのだろう。今の彼では考えられないような口調で、ナンパのような言葉を私に振舞っていたような気がする。


 ナンパをするということは、彼が私を女だと意識していることに他ならないと思った。私はそれに嫌悪感を持った後、それを適当にあしらった。


 普通の大学生の女子であったのならばどう対処するのだろう。それが気になったけれど、私は普通の大学生ではないという自覚があったから、適当にあしらうという選択をして、ぽつりと言葉を紡いだ。


「私は、私です。男とか女とかないんです。私は私です。それ以上も以下もないんです。ナンパなんてくだらない」


 相手を性別で区別することが必要な要素であることは理解しているものの、それをくだらないと感じている。だからこそ、私は自身の性を『私』と定義した。個性が尊重されるように祈りながら。


 だからこそ感じた嫌悪感は粗暴な言葉へと変化した。明確に相手を傷つけることを目的とした言葉になり、それを彼に紡いだ、紡いでしまった。今までも何度か経験したことだったからこそ、そんな対応で終わると思っていた。


 大概の人間であれば、私に対して不信感を抱き、暴言のような言葉を吐いて立ち去る。暴言を吐くことがなくとも、それとなく気まずそうな顔をして私から距離をとる。今までそうやっていなしてきたからこそ、それからの彼の言葉は私の耳に留まった。


「なんだ、か」


 彼は、確かにそんな言葉を吐いた、吐いたのだ、そんな惹かれる要素を。


 直感が心に火を灯した。血流ともいえるものが耳元まで響いた。彼に視線が釘付けになり、彼の言葉を理解できるように何度も咀嚼をした。私の言葉を理解したように、彼はそう言葉を吐いたはずだ。


 私と同じような人種がいるとは思わなかった。だからこそ、彼に対して私は動悸のようなものを演出してしまった。それを恋だと疑わなかった。


 だが、彼はそんな言葉を吐いた後、途端に興味を失くしたように、視線を私から逸らした後、どこか遠くへ行ってしまった。彼に縋るように話しかけたい気持ちはあったものの、戸惑いの心が大きくあって話しかけることはできなかった。


 彼と再会したのは、大学の構内だった。


 大学の構内で、親しそうに話している姿を見かけた。食事を目的としたスペースで、対面となって男と話している彼を私は見かけてしまった。見間違えるはずのない姿、髪色、服装、痩せぎすの体。


 その男性と話していたときの彼の目には、どこか熱があった。私が同じようなものを彼に抱えていたからこそ、彼が同様のものを男に対して抱いていることを認識した。


 だからこそ、『君も同じか』と彼は言葉を吐いたのだろう。


 性別を意識するなんてくだらない、個性を尊重するように、私は私である、という定義。彼は本当に私と同じであり、そのうえで男に対して向き合っているのだと、そう思った。


 だからこそ、私は苛立ちを覚えて仕方がなくなった。


 女性性というものが私にあるというのならば、きっとこういった気持ちがそうなのだろうと思う。彼が焦がれた熱を込めた視線で男を見ていることが、ひどく気に入らなかった。そして、それならば何故私の声をかけたのか。同類だと分かった瞬間に蚊帳の外に置いたのか。


 その視線を独占したい気持ちがあった。どうにか彼の視線を私に集中させたい、という気持ちがあった。


 だから、私は利用した。




 彼ではなく、彼が視線を向けていた男の感情を、利用することにした。




 そう選択したことが、私の罪だった。

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