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 彼の部屋は片付いているように見えたが、それは単純に部屋の中に置いてある家具の少なさがそう見えるだけであり、入った時にはどこか煙たいような埃臭さが広がっていた。鼻につくほどの嫌悪感というものでもないが、入ってから十数秒ほど経つと、指先が乾く感覚を覚える。物に触れても滑りを意識してしまうほどの、そんな乾きが。


 彼は私を居間らしき場所に案内した。らしき、という表現を使うのが、どうにもそこが居間のようには見えなかったからだ。相応の広さについてはあるものの、そこには何かがあるわけではない。唯一あるのは、ちゃぶ台とも言い難い四角いミニテーブルが部屋の真ん中に置かれている程度で、それ以外の趣味の欠片がのぞけるようなものは何一つ存在していない。


「コーヒーでいいかい」と彼は私に聞いてくる。私はその声にうなずいて、指先で促されるままに居間らしき場所の、ミニテーブルのほうへと座る。女性らしい座り方を意識するべきなのか、一瞬迷ってしまったけれど、単純な居心地の良さを感じるために胡坐をかくことにした。その際に靴下が滑る感覚を改めて感じて、気を付けなければ転んでしまうかもしれない危険性を思考の裏で考えていた。


 コーヒーは好きではなかった。嫌いというわけでもない。飲もうと思えば飲める代物であり、特別感情をもって接している嗜好品ではない。ただ、彼がコーヒー以外にも選択肢をくれていたのなら、私はそれを選んだのかもしれない。どうせなら冷水であってもよかった。


 部屋の中では冷たさだけが空間を支配していた。乾いた空気、吐き出す息はすべてが白くなって、凍える気持ちを紛らわせるためだけに指先に息を吐く。乾いた指先に湿気のある息がまとわりついて、先ほどから違和感を覚えてしまっていた指の感覚を、いつも通りに戻すことができた。


 彼は台所でカチャカチャと陶器らしいものを触っているらしい。私は胡坐をかいてしまっているために、その高さからは彼が何をしているのかはわからない。台所と居間の間には腰の丈ほどの遮りが存在しており、その奥で彼は何かをやっている。お湯を注ぐ音が聞こえてくるような気もするし、単純に水を流しているだけかもしれない。人の部屋をよく見ることについて、どうにも後ろめたさを抱いてしまう私は、彼に案内された部屋をじろじろと眺めることはできずに、そうして居間だけを見つめている。だから、台所に何があるのかを理解してはいない。


 数十秒、もしくは一分か二分ほどだったかもしれない。それくらいしてから、彼はようやく台所から居間のほうへと移動していた。両手にそれぞれマグカップを持っており、それを落とさないように、慎重に歩いているようだった。それほどまでの慎重さが必要なのだろうか、そんなことを考えたけれど、また指先が乾く感覚を反芻して、なるほど、と理解する。


「掃除をすればいいのに」


 彼がミニテーブルにマグカップを置いたタイミングで、そう話しかけた。ミニテーブルの上には、彼が私に聞いた通りというべきか、もしくは予告したとおりにコーヒーが注がれているマグカップがある。白くゆらゆらと漂う湯気の雰囲気と、それにつられるように発生する香ばしい香り。きっと、コーヒーが好きな人間であれば、その匂いに身を浸すのかもしれないけれど、私はそうすることをせず、置かれたマグカップを手に取ってみる。なにより、指先の乾く感覚と、部屋の冷たさに絆された痛みにもならない苦しみがそこにあったから。


 取っ手に触れないまま、器を持つようにしたマグカップは温かく感じた。次第に温かさという心地は確実な熱へと転じて、それは痛みに変わろうとする。私は名残惜しい感覚をしみじみと感じながら、取っ手のほうへと指先を移す。ある程度、それだけで寒さは拭えるような感覚がした。


「面倒くさいんだ」


 彼は私の言葉にそう返した。彼は部屋をぼうっと見渡すようにする。


 本来なら家具でもっと圧迫されてもいいはずの、居間という空間はどうにも広すぎるように感じる。片隅にあるコンセント穴には、電力を求めるような代物は何もなく、ただ空虚だけを広げている。今時、テレビも、ましてやエアコンさえも存在しない無駄がない無駄な空間。そんな空間で過ごすことに、彼は何を感じているのだろう。


 私はコーヒーを一口含んで、その熱と苦みを舌に染み込ませる。舌に転がった苦みは喉の奥へと流し込む。鼻に届いた香りを楽しむ余裕があればよかったけれど、熱で舌先がしびれる感覚がして、はあっ、と静かに息を吐いた。


「それで、どうしたの」


 私は彼に聞くことにした。


 彼は私をこの部屋に案内した。人が部屋に案内する理由はそれぞれに存在する。単純に享楽を目的にした時間をつぶすだけの案内、もしくは相談事を抱えており、それを他人に聞かれたくないがための案内、更に可能性をあげることはできるけれど、それを思考の中に浮かべることはしたくない。同じことを彼が考えていないのならば、私だけが品の欠けた人間になってしまうから。


「特に理由はない」と彼は答えた。


「なんとなく、というだけで君を呼んでみた。強いていうのならば、なんとなく話し相手になってくれないかな、くらいのそんなもので、特に強い理由なんてない」


「それなら、別にここじゃなくても」


 ここじゃないほうが私はよかった。寒さに対して身が凍えそうだというのもあるけれど、彼と二人きりでいるというのは、どうにもそわそわとした焦燥感が心に漂って仕方がなくなるから。三人以上であれば、そのそわそわも消え失せるのかもしれないが、ここにはどうしたって彼と私の二人しかいない。それが、どうしようもなく嫌な予感のようなものを彷彿とさせてしまう。


「それなら、率直に話してみようか」


 彼はそう言葉を吐いてから、もうひとつのマグカップに手をかけて、中身をぐいと飲むようにした。私の舌では熱いと感じた温度を、彼が喉を鳴らして飲むので、少しの驚きが瞳の中に宿る。その動揺に彼は飲みながら、眉を緩めるようにして苦笑した後、ゆっくりと言葉を吐く。




「そろそろ、別れたほうがいいと思うんだ」



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