Mise-en-scène

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 使い古したカトラリーに錆は見られなかった。数年ほど使っているはずなのに、その経年劣化さえ確認できることはない。


 私が使っていたカトラリーは独特な色合いをしており、光の当て方によっては紫や青に変わったりする。おおむねその見え方というのは寒色系と言えるものであり、それを食事の際に使用するものと考えると、カトラリーとしてはふさわしくはないかもしれない。やはりカトラリーは銀色か、もしくは食欲を旺盛にさせる要素があるかもしれない暖色であるべきであり、それを損なう機能を発生させてしまうそれについては、どうしても意味がないように思えた。


 それでも、私はこのカトラリーを使っている。主にはフォークを、ついでスプーン、たまに高価な肉を買って調理をした際にはナイフだって使うことがある。


 別に、気に入っているわけでもない。使わない理由がないから使っているだけであり、特にこだわりもないから、このまま使用すればいいような気がする。


 元来、私は不器用な人間だ。手先についてはもとより、もしくは生き方についてもそういうことができる。箸を使うことを不得手としており、他人と食事をすれば、だいたいの人間がその持ち方についてを言及してくる。それは雑談の種としての笑い話であったり、些細な自己肯定感を高めるための嘲りであったりする。だから、私は箸を使うことはやめて、カトラリーを使用してしまう。洋食だけではなく、和食に対しても。もしくは食事の雰囲気に関係なく、私はそれらを使用してしまう。


 気に入ってはいないけれど、それでもこのカトラリーを使うということは、多少なりとも思うことがあるのかもしれない。なんとなく、というだけで寒色系のそれらを使用している。外に出向くとき、念のために鞄に忍ばせたりすることもある。それが私にとっては普通のことだった。


 だが、今日はそんなカトラリーを使うことに寂しさを覚えてしまった。どことなく疎外感のようなものを抱えてしまった。色が寒色系だからかもしれない。気分が落ちるときの色合いとして言い訳する材料がそこにはある。郷愁的要素を持ち合わせているわけではないが、なぜか昔を思い出したくなるような、懐かしんでしまいそうな衝動があった。食事をする際には色合いを意識することはやめているのに、今は肉を刺したフォークのその先端から柄を、特に口に運ぶことはなく呆然と見つめている。


 寂しさを感じているというのなら、私は何に対して感じているのだろう。どのようにその感情は生まれたのだろう。心を冷水に沈めているというのだろうか。


 目の前の食品は、そこそこの時間がたってしまった故に、温くなってしまったことが見て取れる。十数分ほど前までは湯気のような煙がのぼって、食欲を沸き立つ要素があったのに、今ではそれがただの肉というだけしか見えなくなってしまった。もう、食楽にいそしむことは難しくなるかもしれない。


 難しくなったとしても、何も考えずに食事をとればいいだけだ。食事をとる際に必要な事柄なんて、自身が持っている器具の扱い方や、不満を抱くかどうかの差異でしかない。もしくは生きるために不可欠だから、残すことは理性が許さないから、単純に空腹だから、適当に理由をあげ連ねて、それらを体に取り込んでしまえばいいような気がする。


 でも、それでも食事は進まない。呆然とそれらを見つめたままで、寂しさのような気持ちを感慨深く俯瞰で見つめていることを止められない。


 胃袋の奥底、もしくは心臓にどんよりのしかかる、飲み込もうとしても飲み込むことができないなにか。目の前の食事を咀嚼することはたやすいかもしれないが、その寂しさを咀嚼することは難しいかもしれない。いや、きっと咀嚼している段階なのだろう。


 私には、そんな切ない感情があふれている。


 取り留めることしかできない、私には不要な感情が。





「今日は寒いね」と語っていた彼の身なりは厚着だった。上着を何重にも着込んでおり、その色は上下全てが黒色だった。だが、歪にも頭髪の色は金にも慣れない白色、もしくは銀髪であり、どこか特殊な人間であることを彷彿とさせる。


 そんな服装のせいで、遠目から見てしまえば中肉中背のように見えてしまえば、少しでも彼に近づけば、彼が痩せぎすであることは見てとれる。骨ばった手の甲、痩せこけている頬、どこか堂々としない立ち方、女性らしさを感じてしまうほどに、彼は細身でしかなかった。きっと、身長が小さければ女子と見間違えてしまうのかもしれない。


 彼の現在の格好は冬だけに限定されない。年がら年中厚着をしている。寒い時期には妥当と思えるその格好も、春になれば大げさだと感じるし、夏になれば狂人だ。流石に季節によって、その厚着の量については変わるものの、体のすべてを後ろめたく思っているような隠し方を、彼は一年を通してやりきっている。


 それに近づく人間は、そう多くはない。いるとするならば、好奇心をもったいたずらのような人間か、私のような彼の事情を知っている人間だけだろう。それ以外の人間は彼の奇抜な見た目に近寄ることさえなく、遠く風景のように見つめるだけでしかない。


 そんな彼が、寒いね、と言葉を吐いたのが、私は少し可笑しく思った。そんな厚着をしているのに、どうして寒いと感じられるのだろうか。そんなことを思っていたら、私の表情を読み取ったようで、彼の手が私の首筋をとらえていく。芯に伝わる凍えた表面が、私の背筋を弾ませた。


「ね、寒いだろ」


 私は悪戯っぽく笑う彼に対して「私じゃなければ怒っている」と返した。君にしかやれない、と彼はそう返す。やらない、ではなく、やれない、という言葉が彼らしいと思った。


 どうして、こんな気さくな振る舞いをできる彼が歪とも奇抜ともとれる格好をしているかと言えば、彼は相貌失認というものを患っているかららしい。失顔症とも言われるそれは、人の顔を覚えることができず、人の顔を理解することができない。


 そんな病を抱えている、と彼は言った。


「こうしておけば、知り合いだけが話しかけてくれる。こうしておけば、知らない人は話しかけてこない。だから、髪も脱色したんだ。どうだ、合理的だろう?」


 彼のいつかの説明を思い出したけれど、今もその当時でさえも、もっとやりようはあったのではないか。そんなことを考えてしまう。


 そんな、春先とも馴染めない冬末のことだった。

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