第6話 騙す女

 そんな時に知り合った、

「あいり」

 という女が、自分にとって、どれほど大切な人だったのかどうかということは正直分からない。

 しかし、自分にとって、少なくとも、

「つかさとの時の教訓が、自分にはある」

 と思っていたのだった。

 あいりを好きになった瞬間があるとすれば、いつだったのだろう?

 というよりも、

「あいりのことを本当に好きになった瞬間があったというのだろうか?」

 という思いが結構あったりする。

 というのも、

「後から考えれば、今までであれば、つかさの時にだって、好きになった瞬間というものを聴かれれば、いつだったのかということくらいは、答えられるような気がする」

 しかし、なぜかあいりの場合には考えられないのだ。

「ひょっとして、この時」

 というのはあるのだが、そのすべてがいつだったのか? ということになると、分からない。

 もちろん、すべてということになれば、誰にでも無理なのだが、

「できそうな気がする」

 と思うだけで、考えられるような気がするのだった。

 あいりのことが気になってから、

「どこを好きになったのか?」

 と思うようにいなった。

 というのも、今までからすれば、自分が好きになる相手とは、どこかが違っていたのだ。

「今までは、キレイ系の女性に対して、好きになることはなかったはずなのに」

 という思いだけはあるのだ。

 本当に自分の好きな女の子は、前述のような二つのタイプで、

「どこか陰のある清楚系の女の子」

 あるいは、

「明るくて、いつも笑っていることにまったくの違和感を感じることのない女の子」

 ということであった。

 前者が、本当に女として見ている人であろうが、後者は、どこか妹という感じがする子で、

「妹を相手にしている」

 というと、背徳感があるが、それがまたいいというと、モラルに欠けるということになるのだろう。

 しかし、あくまでも、

「自分が好きになるタイプ」

 ということなので、

「それを変に捻じ曲げた形で考えるのは、おかしなことだ」

 と言えるのではあるまいか。

 だが、どちらにしても、あいりは、そのどちらでもないのだ。

 ただ、キレイ系の女性独特の、市制の良さであったり、フェロモンの放出度であったりというのは、

「今まで気づかなかった」

 というだけで、

「本当は好きなタイプの女性として意識をしていたのかも知れない」

 と感じるのだろうが、果たしてその通りなのかというのも、曖昧なものだった。

 そんなことを考えていると、

「キレイ系が好かれるというのも分かる気がする」

 一つ考えられるものとして、

「かわいい系の女の子には、若い子必須という気がする」

 ということであり、

「キレイ系の女性は、少々年を重ねても、その美しさは色褪せない」

 ということから、

「自分よりも年上でも十分にいける」

 と思うからだった。

 女性の美しさを容姿や年齢に重ねてみるというのは失礼なことなのかも知れないが、それはあくまでも、

「本人の勝手な感覚」

 ということで、この場はお許しいただきたい。

 しかし、

「美しさ」

 というものと、

「自分が好きになる女性」

 というものは、見え方が違うということで、同じ線上で見てはいけないということになるのではないだろうか?

 と感じるのだった。

 好きになったのかどうかも分からずに、

「自分が気になって仕方のない相手だ」

 ということになると、その人を、

「絶対に、見限ってはいけない」

 という義務感というか、覚悟のようなものが芽生えてくるのを感じた。

 それを考えてみると、

「本当に覚悟が必要だ」

 と思うことに行きついてしまった。

 というのが、

「あいりという女性には、精神疾患がある」

 ということだということを人づてに聞いたのだ。

 本人に聞いてみると、

「もう少し仲良くなってから言おうと思った」

 というのだ。

 なぜかというと、

「あまり早い段階でいってしまうと、冷められてしまって、せっかく仲良くなりかかっているのに、うまくいかなくなってしまう」

 というのであった。

「なるほど」

 と思った。

 確かに、精神疾患などというと、その瞬間に、重くなってしまい、相手をする方にも、覚悟のようなものがいることは、疾患のある人には、独特の感性で分かるものだということを聴く。

 そんなことを考えてみると、

「あいりとは、覚悟を持って付き合うか、別れるかということを、この時点で決めておかないといけない」

 と感じた。

 しかし、そう思ったのは一瞬だった。

「俺に、あいりと放っておくようなこと、できるはずがない」

 と思ったのだ。

 そして次に感じたのが、

「俺は覚悟を決める」

 ということであった。

 覚悟を決めてから、どう考えるかということになると、

「俺は、好きになったから、覚悟を決めたのか、覚悟を決めたことで、自分が好きなんだという自覚が持てたのか?」

 ということを考えるようになると、

「俺は一体、どっちだったのか?」

 と実際に、付き合い始めるようになってから、考えるようになった。

 だが、後から考えると、

「本当に、好きになったという時期もあったのだろうか?」

 ということを考えさせられるのだ。

 確かに、

「好きになった瞬間って、いつだったんだ?」

 と聞かれると、正直に言って、

「いつだったのか?」

 ということが分からない。

 それなのに、何をやっているのかが分かっていないことで、決めたはずの覚悟が揺らいでくるのだ。

「揺らがないのが、覚悟のはずなのに」

 ということを考えると、

「本末転倒なのでは?」

 と感じるようになってくる。

「覚悟というのは、どういう覚悟なのか? 一緒にいるということは、相手が犯した罪であったり、所業は、自分も一緒になってかぶるということなのだろうか? それとも、逃げられないことに対して、彼女がおかしくなった時、自分がサンドバッグになったとした時、甘んじて、自分の心を犠牲にして、相手に言いたい放題言わせるか?」

 ということになるというのだろうか?

 あいりという女が、

「何か怪しいということは、少しは分かっていたような気がした。しかし、下手に詮索したり、相手に何か考えさせるようなことになれば、自分で自分の首を絞めるということになってしまう」

 と考えたからだった。

「俺が、好きになる女性には、こっちから従うようにしないと、相手が何かに気が付くと、俺のことを放って逃げてしまう」

 というような妄想に駆られていたのだった。

 だから、相手に、

「気を遣う」

 ということが一番大切なことで、それを気にしておかないと、悲惨なことになる。

 ということは分かっていることではないだろうか。

 そんなことを考えていると、あいりの怖さが身に染みてきた時期を感じていた。

 というのは、あいりは、

「毎日のようにトラブルを抱えている」

 ということを言っていた。

「ストーカーのような人がいるから、気を付けないと」

 と言っていたのだ。

「俺が、気を付けてやろう」

 と言って、

「彼女の様子を遠くから見ているようにしよう」

 というと、

「警察に相談しているから、下手をすれば、あなたが警察から職質を受けることになるかも知れない」

 ということと、

「あなたの存在が相手に分かると何をするか分からない」

 ということを言っていた。

「なるほど、その通りだ」

 と言って、自分は、表に出ないようにした。・

 また、

「会社の方で、会議中に話をしたことで、もめごとになって、自分だけが、悪者になってしまった」

 ということをいうのだった。

 会社のことであれば、こちらが入り込めるわけでもないし、信憑性に関しては、

「彼女の言っていることを信じるしかない」

 ということになるのである。

 そんな話が毎日のようにあり、絶えず、山岸に相談として聞いてもらっていたのだ。

 しかも、彼女には、何人もの相談相手がいて、

「俺だけじゃないのか?」

 という思いを抱くのだが、それでも、

「病気なんだからしょうがないか」

 ということになる。その病気も、大きなものとしては、

「双極性障害」

 だというのだ。

 この病気は、脳の病気であり、

「病院で処方された薬でしか効果がない」

 と言われているものだった。

 確かに病院で処方された薬というのは、結構な効き目がある。

「鬱病とは、薬の種類も違うから」

 ということを言われている。

「まぁ、トラブルが多いのも、病気だから、しょうがないんだよ」

 と言っている。

 確かに、

「病気だから仕方がない」

 と言われれば、それまでであって、それ以上のことを何も言えなくなってしまう。

「だけど、本当にそうなのだろうか? 病気と言えば何でも済まされるという、当たり前のことに対して、不思議に思わない方が、おかしいのではないだろうか?」

 ということであった。

 確かに、薬の効果があるから、双極性障害の人は、治療を受けられるのだろう。本当に大変な病気だということなのだろう。

 結局、

「俺というのは、都合のいい男であり、利用されているのではないか?」

 と思い始めると、その発想がどんどん深まっていき、しかも、その発想が次第に辻褄が遭ってきて、結果として、一つの仮説が生まれてくるのだった。

 その仮説は、結局、最初に

「考えていた内容であり、その内容が、自分の中で、一周回ったという感じになっているのではないか?」

 と思うのであった。

 結果としては、同じところに結びついてきたが、実際には、その思いは、一つのところで止まっているわけではない。いくつか、

「無限の可能性」

 のようなものがあり、その中のどれかが、

「結果として同じものを生んだ」

 ということになるのだろう。

 つまりは、実に偶然が重なったといってもいい。

 無限の可能性の中から、まったく同じ結果が出るというのは、結果が出たことが偶然ではなく、無数の可能性の中から選択された、そのプロセスが、偶然だと思うと、

「結果が偶然だ」

 と思うよりも、はるかに低い確率の、下手をすれば、

「限りなくゼロに近い」

 というくらいの確率だったのかも知れない。

 ということは、

「自分が、彼女と出会ったという確率よりも、さらに、この結果を生んでいるということは、さらに、その結果が出る確率は、非常に高い」

 ということになるだろう。

 そう考えると、

「そもそも知り合ったことを、ただの偶然と言ってもいいのだろうか?」

 ともいえる。

 出会いに、必然性も、当たり前だという思いというのもあったのかどうなのか?

 そういうことを考えると、

「出会うべくして出会った」

 というのは、不思議なことではなく、しかも、本当は、

「出会うべきではなかった相手と出会ったのではないか?」

 と言えるのかも知れない。

「出会うべくして出会った」

 という時の、

「出会うべく」

 というのは、

「出会うべきだった人と出会った」

 ということではなく、まったく逆の発想から生まれた言葉で、そう考えることが、最終的に、不自然ではなく、辻褄があっているのではないかと、感じさせるのだろう。

「違和感なく感じられた」

 ということから、

「出会いにぎこちなさがない」

 ということであれば、

「出会った時よりも、そこから見える結末の方が、限られている」

 ということである。

 それだけ、出会いというところの広さに比べれば、結末というのは、狭き門のようなものだといえるだろう。

 そうやって考えると、出会った相手に対して、

「出会うのではなかった」

 と、後悔を感じる相手であり、

「ここから、修復させたい」

 と思うと、なかなか難しい。

 やり方を間違えると、もっと悲惨なことになる。そうなると、怖いから、動けなくなるのだろう。

 動けなくなるから、意識をしないようにする。意識をしないから、結末だけしか見えない状態で、後から考えても、

「もうどうしようもなかったんだ」

 と、自分で考えるということをしないことで、自分の中での言い訳をしようと考えるのではないだろうか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る