第2話 限りなくゼロに近い存在

 山岸は、大学時代を、後から考えると、

「無為に過ごしてしまった」

 と思うようになっていた。

「とにかく、彼女がほしい」

 というのと、

「彼女を作って、童貞を卒業するのだ」

 ということを考えていたのだ。

 大学二年生の頃までは、

「とにかく、友達をたくさん作ろう」

 と考えるようになった。

「友達をつくれば、その中で自分を好きになってくれる女の子が、必ず含まれているはずだ」

 と、思うようになっていた。

「友達から始めるのが、一番自然だしな」

 とも思っていたので、

「無理がない」

 ということを考えると、まずは、

「グループ交際でもいい」

 と思うようになったのだった。

 確かに大学入学の時は、その開放感から、

「今なら何だってできるんじゃないか?」

 とすら思えていた。

 趣味よりも何よりも、

「彼女がほしい」

 と思うのも無理もないことで、何と言っても、

「彼女を作るということが、何をするにしても、難しい」

 と思っていたのだ。

 だから、

「今彼女を作ることができなければ、このまま一生作ろうとしても、できる自信がなくなるのではないか?」

 ということまで考えていたのだ。

 そんな中において一つ気になっていたのが、

「本当に彼女ができなければどうしよう?」

 という思いは、正直あった。

 しかし、逆に、

「できてしまったら?」

 という思いも無きにしも非ずだったのだ。

 というのは、自分が好きになる女の子というと、

「どこか、影があるような女性」

 しか頭に浮かんでこなかった。

 自分が、

「イケメンではない」

 という自覚があり、その思いがあるおかげで、

「明るくて、目立つような女の子が自分と一緒にいるところが、想像などできるはずもない」

 と感じるのだった。

 確かにイケメンというと、

 なかなか目立つような女性と一緒にいるのが、その場にも映えるということで、山岸は、それほど、

「キレイな女性は、好きではない」

 と思っていた。

 それよりも、

「可愛い女の子、下手をすれば、影があるような女の子でもいい」

 と感じていた。

 というのは、結局は、

「自分はイケメンではない」

 という、

「一周回って帰ってくる話」

 という感じで思うのだった。

「自分をわきまえている」

 と言えばそれまでなのだが、それよりも、結局、

「自分に自信が持てないからだ」

 といってもいいだろう。

 そうなると、逆に、

「自信過剰な方が、自分らしい」

 と思えることで、

「好きな人は、目立たない女の子だ」

 ということを、自己暗示に掛けているような気がした。

 それでも、その思いはずっと変わらないことから、

「案外と、的を得ていたのかも知れない」

 と思うようになっていたのだった。

 自分にとって、

「どれだけ好きになれる女性が、自分の目の前に現れてくれるか?」

 ということを考えると、結局、

「それだけたくさんの女性と、友達としてでもいいから、知り合っておければ、それがいずれ生きてくる」

 と思うようになってきたのだった。

 だから、

「大学に入ってから、とにかく友達を作りまくる」

 ということを考えたのであった。

 その大学では、想像はしていたが、

「友達はたくさんできたが、彼女になるような人はいないようだ」

 と思ったのだ。

 最初は、

「どうして彼女ができないのか?」

 ということが気になったので、他の友達に話を聴いてみたが、

「お前は、目が露骨なんだよな」

 と言われた。

 さすがに、これだけ直球なことを、すぐに言われたわけではない。

 むしろ、友達は聞かれることに、戸惑いがあったようだ。

 きっと、

「すべてを話そうとすれば、どう回りくどい言い方をしても、こんな言い方にしかならない」

 ということを分かっていたのか、その友達は、

「意を決して」

 話をしてくれたのだった。

 大学に入るとすぐにできた友達で、自分では、

「親友だ」

 と思っているが、相手がどう思っているかということまでは、分かるわけではなかった。

 親友ということを分かってくれているのかどうか。確かに、それを思うと、

「男女ともに、僕のことを本当に好きになってくれるなんて人、いるんだろうか?」

 と感じるのだった。

 誰が好きなのか?」

 ということは、親友は、結構気づくといっていた。

「だけど、お前ほど分かりやすいやつはいないんだけど、そのわりに、その中でもどのタイプが本当に好きなのかというのが分からないんだよな」

 と言っていた。

 好きな人を考えてみると、本当に好きな人を想像してみると、できないと感じることがある。

 それが、

「夢と似ているのではないか?」

 と考える時であった。

 夢というのは、

「目が覚める数秒前に、ちょとっこ見るものだ」

 という話であったり、

「夢を見るのは、眠りが浅いからだ」

 ということを言われたししているということを聴いたことがあった。

 そんな夢というのは、自分の中で、

「こうではいか?」

 ということを、いくつも考えさせてくれるものであった。

 まず一つは、

「夢というのは、眠っていて見る時と見ない時がある」

 ということについての考え方である。

「夢というのは、目が覚めるにしたがって、記憶から消えていくものである」

 と思うようになってきたが、それも、間違いではない気がするが、それよりも、

「どんな夢を覚えているか?」

 という時の方がきになってくる。

 ただ、この考えにおいては、

「夢を見ているというのは、本当は眠っている時というのは、絶えず見ている」

 という考えである。

 つまり、

「夢の世界というものが、本当に存在し、起きている瞬間以外は、夢の世界に入りこんでいるのではないか?」

 という考えであり、そうなると、

「実際に眠っている時間というのは、本当に存在しているのだろうか?」

 ということである。

 そう考えてみると、浮かんでくる、

「疑惑」

 というのは、

「夢の世界と、現実世界に、それぞれの自分が存在しているのではないか?」

 という考えだった。

 それは、人間の、

「多重人格性」

 というものが、実は同じ肉体の中に、

「表の世界用と、夢の世界用に存在している」

 という考え方だった。

 だが、そう考えると、何も、現実世界と、夢の世界だけというわけではなく、一種の、

「マルチバース理論」

 のようなものが考えられないか?

 ということである。

 それが、無限の世界であり、そこに時間軸が入り込むと、

「次の瞬間の可能性は無限だ」

 と言われることと同じで、無限の広がりというものの証明ではないか?

 と考えられるのであった。

 ただ、実際に、

「自分で理解できるもう一つの世界は、夢の世界でしかないのだ」

 と言われているのだとすると、そこに存在している

「もう一つの世界」

 というのは、

「本当に夢の世界だけしかない」

 と思える。

 と考えてみたが、次の瞬間、

「待てよ?」

 と思った。

 それが、

「マトリョシカ人形」

 の考え方であったり、

「合わせ鏡」

 の考え方であったりするのだ。

 合わせ鏡のように、目の前と後ろに置いた鏡の間に自分を置くことで、半永久的につながっていて映っているものは、

「絶対にゼロにはならず、限りなくゼロに近いもの」

 ということで存在しているその世界は、

「本当は二つしかないのに。どんどん広がりを見せて、最後には、

「無限というものを作り出している」

 というものだ。

 それは、必ず、二つでしかない。

 一つであっても三つ以上でもあっても、その条件には当てはまらないということだ。

 だから、現実と夢の世界しかなく、そこには、

「遊びの部分」

 というのは、存在しないのだ。

 ということになるのだった。

 夢の世界が、どこか、

「無限の世界を創造する」

 というのは、そういう理屈からなのではないだろうか?

 そもそも、相対するものが、この世には一番多いではないか。それが三つになると、

「三すくみ」

 というものになってしまう。

 相対するものとして、

「善と悪」

「昼と夜」

「プラスとマイナス」

 などと、いくらでも発想ができるのだ。

 しかし、その相対するものに、世の中のものがすべて、

「そのどちらかに当て嵌まるか?」

 ということなのかと考えると、そういうことではない。

 よく考えてみると、

「相対するものが複数存在していて、それが無限にあることで、世の中が成り立っているのではないか?」

 と言える。

 それを考えると、相対するものの、無限というのがこの世だと考えれば、

「無限の集合体自体が、相対するものではないか?」

 ともいえるだろう。

 そう考えると、

「夢を見ている時間に見る夢というのは、パターンとして、無限にある」

 というもので、

「その発想は、起きている時に起こる、さまざまな可能性と似ているのではないか?」

 ということが言えるのではないだろうか?

「ロボット開発」

 において、不可能とされる、その問題点として、

「フレーム問題」

 というのがある。

「世の中には、無限の可能性があるが、それをロボットにいかに認識させるか?」

 ということであるが、普通であれば、無理である。そこで、

「パターンをフレームに当てはめるように、少し分割して考えればいいのではないか?」

 と言われるが、それを行うとすると、

「そもそもが、無限であるので、それを割り算で細分化するとしても、普通に割り算で考えたとしても、整数で割ったとすれば、その答えは結局無限にしかならない」

 ということである。

 つまりは、

「無限というものを、何で割っても無限しかならないのであれば、フレーム問題というのは、その段階でできるものではない」

 という考え方だ。

 しかし、夢のように。

「いくら無限にあったとしても、結果としては、二分割されたものからの派生なので、キチンと二つずつを分けていけば、いずれは、最終的な、

「相対する二つの塊にしか出てこない」

 ということであろう。

 そう考えれば、

「解読不可能」

 と言われた、フレーム問題も、

「元々は二つ、しかも、相対する二つの集合体ではないかと考えれば、そこに、細分化という法則が生まれ、その法則を見つけさえすれば、フレーム問題は解決する」

 と言えるのではないだろうか?

 ただ、実際にフレーム問題を、

「こんな簡単に言えるのは、他人事だからだ」

 という人もいるかも知れないが、

「他人事ではなく、客観的に見ている」

 と考えれば、納得できることもあるだろう。

 それを考えると、

「夢がまさか、ロボット工学への解決につながるとは、思ってもみなかった」

 と言えるのではないだろうか?

 そういうことであれば、同じ発想としての、

「タイムマシン」

 という問題も、理屈医叶うのかも知れない。

 タイムパラドックスの考え方として、まずは、四次元という発想が問題なのだ。

 タイムマシンというのは、そもそも目的としては、

「縦横高さという三次元のどこかに、時間軸が広がれば、四次元の世界であり、その時間軸を操れるのが、タイムマシンということである」

 ということになるだろう。

「次の時間には、果てしない無限の可能性が」

 ということであるが、それは、本当に次の瞬間ではなく、

「自分が求めている瞬間に、無限の可能性が広がっている」

 というだけである。

 無限の可能性というのは、あくまでも、

「目指しているところであり、直感の可能性というのは、本当は、相対する二つに凝縮されるのではないか?」

 ということである。

 さて、今度問題になるのは、

「直近の次の瞬間というのは、どういう時間なのか?」

 ということである。

「一秒なのか?」

 というと、もっと細かい時間なのかも知れない。

 この曖昧さが、実際に分かっていないので、

「次の瞬間」

 というものが、本当の時間というものの刻みのさらに広いものであったとすれば、そこに無限という言葉が絡んできても仕方がないことだろう。

 しかし、その瞬間が、まるで、

「限りなくゼロに近いもので、それ以上分割できないものだとすれば、半永久的に進んでいる問題の逆バージョンなのかも知れない」

 ということである。

 だから、

「限りなくゼロに近いものの存在を考える時、

「可能性の、裏表」

 と考えれば、

「タイムパラドックス」

 にしても、

「ロボット工学の問題」

 としても、そこに広がっているキーワードは、

「限りなくゼロに近い」

 という存在になることであろう。

 そんなことを考えていると、

「裏表などの、両極性と呼ばれるものは、この世にはある意味必須かも知れない」

 と言えるだろう、

 そんな中で、

「両極性障害」

 と呼ばれるものがある。

 この両極というのは、

「躁と鬱」

 と呼ばれるものが存在している場合のことをいう。

 よく言われる、

「鬱病」

 というものとは、似たような言葉ではあるが、病気としてはまったく違っているものだということで、

「双極性障害というものは、脳の病気で、薬などの処方による正しい治療を行わないといけない」

 と言われている。

 双極性障害というものには、二つあり、

「Ⅰ型」

「Ⅱ型」

 と、それぞれある。

 前者の方は、躁状態がハッキリとしていて、完全な双極性で、後者の場合は、それほど大きな躁状態を伴わないものをいうという。

 後者の方が、症状的には軽いように思えるが、難しいところがあって、

「躁状態が少ないので、ただの鬱病だということで診断されてしまう」

 ということであった。

 実際には鬱病と双極性障害の鬱状態とでは種類が違う、薬も違うものなので、医者が、

「鬱病だ」

 と判断して、薬が効かないということもあるようだった。

 もう一つ言えば、

「躁状態においては、躁状態になると、ハイになって、自分が病気ではないという錯覚を起こしてしまう」

 というのだ。

 だから、医者に通わなかったり、自分で勝手に治ったと思って、薬を飲むのを辞めてしまったりする人もいる。

 どちらにしても、病気の進行を早めてしまい、治療の機会を失わせるということになると、大きな問題となるのであった。

 そんな双極性障害というのは、

「鬱状態と躁状態が交互にくるもので、昔でいう、躁鬱病と呼ばれるものと同じようなものである」

 といってもいい。

 しかし、双極性障害は脳の病気であり、薬の処方がなければ治らないと呼ばれるものである。

 躁状態になってくると、何でもできるような気がしてくるので、一気にやる気が漲ってくるのはいいのだが、眠れない状態が続き、疲れやすく。眠りが浅いという状態になったりするのだった。

 そのため、自分がまわりよりも偉いと思い込み、上から目線で人に当たったり、そんな態度を取ることで、まわりから恨まれるというような、人間関係のトラブルを生みやすい。

 問題は、

「鬱から躁になる時である、一番気が楽そうに思うが、実際は、鬱の状態を引っ張りながら、頭では何でもできると思っているのだから、下手をすると、自殺でも何でもできると思うのである」

 つまり、自殺をしようと思うのであれば、

「今のこの瞬間が一番危ない」

 ということで、鬱から躁状態に変わる時が一番自殺の可能性があるのだというのであった。

 そんな脳の病気の人以外で、

「自殺を何度も繰り返す」

 という人がいる。

 確かに、いろいろなことがあり、

「病んでしまっている」

 という人がそのほとんどなんだろうし、今の世の中、本当であれば、、

「税金を払っているんだから、何とかするべき政府」

 が、まったく役に立たない。

 特に、パンデミックの時には、

「経済を動かさなければいけない」

 ということや、ちょうどオリンピックだったということもあって、一年は、よかったのだが、それ以降は、

「金の亡者」

 と言われている。

「世界オリンピック協会」

 だったか、そういう名前の組織と手を組んで、

「金が儲からないと困る」

 ということで、国民の八割以上がオリンピックに反対しているにも関わらず、事もあろうに、

「パンデミックに打ち勝った」

 などという、とんでもないスローガンで、開催に踏み切ったという政府である。

 打ち勝ったなどというのは、ちゃんちゃらおかしい話であり、そうこう言っている間に、人がバタバタと死んでいき、医療崩壊まで起こしているので、救急車が来たはいいが、

「受け入れ病院がない」

 ということで、

「半日近く救急車の中で、応急手当てを受けている間に、なくなってしまった」

 などという、とんでもない自体が起こっていたのだ。

 要するに、政府は、

「自分たちは何もしないから、自分たちの命は自分たちで守れ」

 と言っているようなものだ。

 そんな状態の国が、何をしてくれるというのか、正直、

「経済を回す」

 といっても、そんなによくなったわけでもない。政府が何かをしたわけでもないし、ただ、自粛が緩和されたというだけのことで、政府の手柄でも何でもない。

 そんな、

「バカ政府」

 は放っておいて、自殺をする人が、絶えないのは、今に始まったことではない。

 実際に病んでいるわけでもなく、普通に生活していて、

「あの人が自殺なんて、まさか」

 という人が結構流行ったことがあった。

 それは、パンデミックになったことで、あまりウワサにはならなかったが、もし、パンデミックでかき消されることさえなければ、社会問題になっていたことだろう。

「列車に飛び込む人」

「自殺の名所から飛び降りる人」

「リスカを繰り返す人」

 リスカを繰り返す人はなかなか死にきれないともいうが、この時期は確実に死んでしまっていた。

 まるで、

「覚悟の決め方がハンパではない」

 という感じであった。

 そんなことを考えていると、

「本当に今の世の中、何が起こっても不思議がない」

 と言われたパンデミックの時代の前哨戦として、

「それにふさわしい時代だった」

 と言えるだろう。

 それを思うと、

「自殺をする人の心境に、いくつかの種類か、パターンがあるのではないか?」

 と考えられるというような話をしている学者もいた。

 しかし、あまりにも、奇抜な発想なので、誰も打て遭わないというのが、その常識だったのだ。

「自殺菌」

 なるものがあるという発想である。

 これは、人の心にそっと忍び寄って、少しでも、

「死にたい」

 と感じた気持ちを、継続させるというものだ。

 というのも、

「本当に死にたいという気持ちは、自殺菌によるものではなく、衝動的なものであっても、心の奥にずっとくすぶっているものであっても、そこは、しょうがないというものであろう」

 という発想で、

「しかし、問題は、目的である自殺してしまうまで、その気持ちが継続し続けるという作用を持っている」

 ということだった。

 つまり、

「自殺菌自体は、市に至らしめる直接的なものを持っているわけではなく、一種の誘発剤というものだ」

 と言えるだろう。

 以前、あるインフルエンザの特効薬として脚光を浴び、今も主流になっている薬の中にあるもので、その副作用に、

「思わず自殺をしたくなる」

 というものがあるということがあった。

「ベランダから飛び降りる」

 という人が多発するということで、社会問題にもなったが、これも、ある意味、

「しょうがない」

 ともいえるかも知れない。

 今では、聴かないので、改良されたのかどうか分からないし、他の薬が出てきたのかは分からないが、実際に今でも使われているということは、ある程度の改良はされているのかも知れない。

 そういうことを考えると、

「この自殺菌というのは、突然変異的なものではなく、元々は何かの副作用ではないのか?」

 ということも考えられる。

 しかし、この

「自殺菌」

 という発想も、本当に実際に証明されたわけではないので何とも言えないが、

「副作用」

 だとすれば、どういうことになるのだろう?

 ちょっと考えれば、恐ろしいということになるのではないだろうか?


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る