洗脳と洗礼
森本 晃次
第1話 芸術
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年4月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。このお話は、真実っぽい過去の話はあっても、あくまでも、登場する国家、政府、関係者、組織は架空のお話になります。国家や省庁で、どこかで聞いたようなところも出てきますが、あくまでもフィクションです。
最近、絵を描くことに目覚めた山岸聡は、1カ月前くらいまでは、
「絵なんて描けるはずない」
と思っていた。
しかし、
「いずれは、絵を描けるようになるといいな」
という思いを、絶えず抱いていた。
ただ、それは、
「趣味の一環として」
ということであり、
「趣味だったら、気楽にできる」
という意味でであった。
一種の気分転換であり。実際に絵を描けるようになるなど、あり得ないと思っていたのだ。
小学生、中学生の頃には、
「図画工作」
「美術」
の授業ということで、絵を描くのは、当たり前のことのようにやらされた。
中には、上手に描ける人もいて。先生から褒められていた。それに比べて、クラスに一定数の、
「絵のうまい人がいる」
というのと同じで、それよりも、
「絵の下手な人間の方が多かったような気がする」
ということであった。
何しろ、
「自分でへたくそだ」
と思っている山岸がそう思うのだから、相当なものだったのだろう。
だが、へたくそな人がいてくれるから、
「自分が、みじめな思いをしなくて済む」
ということになるのだった。
それに、何が嫌といって、
「絵具で手が汚れるのが嫌だ」
という、絵の上手下手が気になっているわけではなく、それだけ、最初からまったく絵を描くことに興味を持つ以前に、手の汚れなどということの方が気になっているというのだから、どうしようもないといえるだろう。
そんな状態で、
「少なくとも、美術や図工の授業の時間が嫌だった」
ということに変わりはないということであろう。
中学時代になると、本当に嫌で、
「なぜ、嫌なのか?」
というと、
「他でも嫌な授業が増えてきたことで、本当に学校に来ること自体が嫌であった」
ということである。
ちょうど、思春期ということもあり、学校で気になる女の子もいたりしたが、その子は、まるでこちらに興味を示すことはなく、どちらかというと、
「イケメンの男の子ばかりを見ている」
という風にしか思えなかった。
ただ、実際に聞いてみると、少し違ったようである。
「まわりの女の子が、自分を担ぎ上げるようにして、イケメンとくっつけておけば、自分たちが好きになる男の子たちが、その子に眼を向けないだろう」
という考えがあったようだ。
「なるほど、確かに頭がいい」
ということである。
それが功を奏してか、彼女は、イケメンを気にするようになり、二人は、
「お似合いのカップル」
ということになった。
それを考えると、
「彼女たちの作戦は、見事に嵌ったのだが、なぜか、彼女たちに、男子は、あまり興味を示していない」
といってもいい。
それどころか、他の学校。特に女子高の女の子たちと、
「グループ交際」
などを始めて、目論見は結果として失敗していた。
これも因果応報ということか、そんな姑息なことしか思い浮かばないということで、男性も、最初から見抜いていたということなのかも知れない。
「相当、大きなブーメランだ」
ということになるのである。
そんなグループ交際を始めた彼らであったが、これも、あまりうまくいっているわけではなかった。
やはり、クラスの女の子の姑息さを見て、
「他の学校の女の子を物色」
ということであったが、こちらも、
「隣のバラは赤い」
ということで、どうも少し焦りのようなものがあったからか、相手に見透かされてしまって、結局、どうすることもできなかったのだろう。
今から思えば、
「芸術的なことは、小学生の頃から、ほとんどダメだったな」
と感じていた。
音楽も、小学4年生で、すでに挫折していた。
楽器を弾くのも、歌を歌うのも苦手で、さらには、楽譜にもまったく興味を持てなかった。
絵画も音楽も、どちらも芸術。自分が、
「芸術を分からなくても、それでいいんだ」
と思ったのは、
「学校の勉強とは、国語、算数、理科が中心で、社会科はその次。それ以外は、そんなに重要視しなくてもいい」
という、昔の受験戦争時代から言われていた。
「悪しき優先順位」
というようなものを意識していたからだった。
そのおかげで、
「その優先順位で、必要な勉強もできていないくせに、他の教科ができても仕方がない」
と思うようになっていた。
もちろん、学校の先生が、表立ってそんなことをいうわけはないが、小学生でも4年生くらいまでは、一人の先生が、主要教科から、芸術、体育まで面倒を見ていたのだ。
「必要教科を中心に判断するのは当たり前」
と、山岸は思っていた。
それでも、芸術関係の勉強は、どうしても苦手で、それだけに、勉強だけをできているわけではないのだった。
そんな感覚が中学時代まで続いたが、それでも、小学6年生くらいになると、主要教科も何とか人並みくらいにはなれたような気がした。
中学に入ると、今度は成績が上がってきたような気がした。
それまで分からなかった。そして、
「嫌だ」
と思っていた勉強が、遅ればせながら分かってくるようになったのだから、それも無理もないことだった。
だが、成績としては、人並みくらいまでになれば、それ以上は伸びなかった。
「なぜ伸びないのか?」
というのを考えてみたが、その理由は、
「どうも、適当なところで満足する性格が災いしているんだろうな」
と考えるのだった。
ちょうど襲ってきた、
「思春期」
という波。
これを、クラスの仲間は、
「大人になるためには、通らなければいけない波」
というような感覚でいるようだが、思ったよりも、それをこなせているようではないようだった。
というのも、
「自分たちは、これからの道を楽しみにしている」
という思いがあるくせに。どうにも越えられない思いがあって、そのことに苛立ちを覚えているように見えたのだ。
最初はそれがどこからくるのか分からなかった。
山岸の思春期は他の人に比べて、若干遅かったので、まわりの変化を客観的に見ていたので、
「何が楽しいというのだろう?」
と、楽しそうにはしているが、どうしても、背伸びしているようにしか見えず、
「俺には、そんな変化がなくてよかった」
と思ったほどだった。
しかし、それはあくまでも、勝手な思い込みであり、実際には、自分も知らず知らずのうちに、
「思春期の波」
に、飲み込まれていくのであった。
中学時代の友達は、
「ニキビ」
なのか、
「吹き出物」
なのか、顔に汚いおできができている。
自分は、なりたくないと思っていたのに、気が付けば、自分もひどい顔になっていた。
その時に、何やら、焦りのようなものがあった。それは、まわりが思春期になっていると思ったその時よりも、
「さらにひどい」
と思える焦りだったのだが、その理由は分かっていた。
人と違う、しかも、遅れて迎える思春期では、
「自分だけの時期」
ということと、
「思春期というのは、始まる時期が違っていても、終わる時期は変わらない」
と思っていたからだ。
つまりは、
「思春期という時期は、皆平等に与えられるものだ」
と考えているのであれば、遅く入ってしまったということは、他の人よりも、濃厚な時期ではないかと感じたのだ。
それが、耐えられるものであればいいが、あまりにも急速に襲ってくることで、自分が本来感じる感覚をねじ曲がった形で感じてしまうとすれば、それが正しいということになるのだろうか?
と、そんな風に感じてしまうからだった。
そんな思春期の中で、山岸が感じたのが、
「周りの男子に比べて。俺って毛深くないんだな」
という思いであった。
気持ちとしては、
「大人の男になりたい」
という思いがあったはずなのに、自分よりも先に思春期を迎えた他の男子を見ていて、毛深くなったり、ニキビのようなものができてくるのを見ると、
「気持ち悪い」
としか思えなくなっていたのだ。
「そんなものを見せられて気持ちのいいわけはない」
と、体育の授業の前の、更衣室着替えの時間には、たまらなかったものだ。
しかも、教室中に蔓延している、
「男臭」
と言えばいいのか、中には香水のような臭いまで混ざっていて、
「何度吐きそうだ」
と思ったことか。
そんなことを考えていると、
「学校の更衣室など、気持ち悪い以外の何物でもない」
ということであった。
「それにしても、何だ、この香水の匂いは?」
と感じていた。
確かに香水というのは、風呂に浸かるという習慣のない地域の人が、体臭をごまかすという意味で使用しているということは聴いたことはあるが、だからといって、悪臭とませれば、さらに臭いがきつくなるということになりはしないか?
ということであった。
だから、その頃から山岸は、外人が嫌いだった。
「日本に来るんだったら、日本の文化に馴染む覚悟でくればいい」
と特に最近になって思うようになった。
さすがに思春期の頃には、まだまあ街中でも、外人というと珍しかったので、それでもどこかに、
「敬意を表する」
という気持ちもあったが、今のように、
「政府の経済対策の悪さのせいで、国の経済が停滞したことで、インバウンドなどと言って。外人どもに依存しなければいけなくなったというのは、実に嘆かわしいことなのである」
と思うようになってからというもの、
「いい加減にしてくれ」
と思うほど、今は、外人どもが街に溢れている。
十数年前くらいから、やってくる隣国の連中などは、
「爆買い」
などといって、観光ではなく、まるで嫌がらせのようなことをしているのに、それでも、政府は、
「インバウンド」
などというものを押し付けてくる。
それを考えると、
「何で、こんな時代になったんだ?」
と言いたいほどの光景が、街に溢れているではないか?
というのも、
「都心部の主要駅近くの、コンビニ、ファストフード、お土産屋さん」
と言ったところのレジなどでは、どこの国の連中なのか分からないが、日本語もまともに通じないような連中がいるではないか。
皆が皆悪いとは言わないが、どうも謙虚さが足りない気がする。
日本人であれば、
「もっと、優しい接客をするのに」
と思うと、外人どもは、どうしても、事務的で仕方がないと思うのだ。
ただ、ハッキリとは分からないが、レジでのクレーマーは減ったかも知れない。
クレームを言いたくても、完全に事務的にしかやっておらず、しかも、日本語もどこまで通じるか分からない連中に、
「どうせ何を言っても、相手は響かないんだ」
と思うと、クレームをいう気にもならないかも知れない。
「外人どもが役立っているといえば、それくらいだろうか?」
と、山岸は、
「自分がいつからこんなになったんだろう?」
と思うほど、ある地点を境に、外人どもが嫌いになっていたのだ。
それまでは、外人には、一定のリスペクトをしていた。
「母国から、出稼ぎのような形で家族と離れて、でかせぎに来ているんだ」
と思ったものだが、
「外国人留学生」
と言われる、東南アジア系の連中が来るようになって、どうにも嫌でしかなくなったのだ。
やつらと、一番最初に接触した時、
「未開人じゃないか?」
と感じることがあった。
十年くらい前であったが、一番ビックリしたのは、
「トイレの使い方」
というのが、図解で、トイレの扉に描かれていたのを見た時だった。
「何だ、これは?」
と感じた。
「幼稚園の子供が、教えてもらうようなことを、外国に留学生ということでやってきた連中が分からないということか?」
と思うと、
「世も末だ」
と感じたものだ。
要するに、
「文化が違う」
ということなのであろうが、文化の違いというだけで片付けられるものなのだろうか?
というのは、
「普通、別の国に行くのであれば、その国も風俗習慣をある程度学んだうえで行かなければ、自分が怖い」
ということを感じないのだろうか?
確かに、昔から、
「日本という国は治安が行き届いている」
と言われてはきたが、あくまでも、
「命の危機に見舞われる」
という状況にあるかどうかというのが問題だというだけのことであって、実際の風俗習慣とは違っているのではないかということである。
そうではないと、その国に行っても、言葉が通じないというだけでもハンデなのに、生活習慣が少しでも違えば、相手はあからさまに不信感を抱き、
「完全に未開の地からやってきた連中だ」
ということで、その気のあるなしに関わらず、態度には。
「見下している」
という様子が出てくるに違いない。
「そんな文化や習慣が合わない連中」
を受け入れる国も国である。
「海外の留学生を受け入れれば、国から補助金を出す」
ということで、雇い主は、それはそれは、挙って、外人どもを雇うことだろう。
普通の国民は、
「ああ、政府が政府の金で、補助しているんだから、いいじゃないか?」
と思っているかも知れない。
しかし、それでいいのだろうか?
考えてもみてほしい。
「そもそも、国の金。予算というのは、その元になっているのは、何なんだ?」
ということである。
国は民間会社と違って、国の予算、さらには、国会議員のような、
「公務員と言われる人の給料」
に至るまで、その元になっているのは、
「我々国民の義務として、払わされている税金が使われているのだ」
憲法でいう、
「国民の三大義務の一つにある納税」
というもので賄われているのだから、その使い道は、本当にちゃんとしてもらわないといけないのだ。
だから、キチンと、国会や議会が存在し、税金の使い道や、年度における予算を組むのは、国会の一番の仕事といっても、過言ではないだろう。
それなのに、
「ソーリの一存なのかどうか分からないが、戦争をしている片方の国に、無償援助しているなどというバカげたことをして、どうして、ほとんどの国民は、何も言わないというのだろう?」
それを考えると、
「この国の国民も、バカが多い」
と思わないわけにもいかなかったのだ。
そこまでいうと言いすぎなのかも知れないが。
「国が出す金というのが、元々税金であり、血税と言われるのが、どういうことなのか、誰も考えていないのだろう」
ということになるのだ。
「血税」
つまり、
「国民の税金だという意味で、国民が汗水たらした一部の金で、政治家は飯を食っているのである。もう少し、考えて使ってほしい」
と思いたい。
今のままだと、
「ソーリが、外国にいい顔したいために、俺たちの金を使っている」
としか思えない。
そもそも、自国と関係のない国が戦争をしているのであれば、日本のように、
「専守防衛」
しかできない国は、真っ先に、
「中立宣言」
をしなければいけないのだ。
戦争状態を起こした国は、宣戦布告をしなければならないというのは、その一番の理由は。
「世界各国に、宣戦布告によって、自国は戦闘状態に入った」
ということを思い知らせ、諸外国に、その立場をハッキリさせるためのものなのだ。
つまり。
「片方の国に加担するのであれば、敵対する国に対して、自国も敵対する」
ということを示していることになるので、
「いつ攻撃されても文句は言えない」
という状態になる。
下手をすれば、国交断絶で、その国から、大使館も国外退去ということになりかねないのだ。
しかし、中立ということを宣言すれば、攻撃されることもないが、今度は、どちらの国に対しても、支援もできなければ、何もできない。
ただ、中立にしておけば、基本的に戦闘に巻き込まれることはないのだ。
日本という国は、先制攻撃のできない国なのだから、
「中立でなければいけない」
ということになる。
だから、
「支援など、ありえないはずなのだ」
と言えるであろう。
しかも、さらに、もっとひどいのは、敵対している国に対して、
「経済制裁」
までしているではないか。
これは、完全に、敵対しているということを、公然と宣言しているようなものだ。
いくら、超大国の、
「属国並み」
といっても、直接攻撃されないだけでもマシというもので、
ただ、その敵対している、超大国によって、物資がなかなか入ってこないということが影響して、
「未曽有の物価高」
になっているということであった。
それを思うと、
「やはり、政府は、いや、今のソーリは、国民のことなどまったく考えていない」
といってもいいだろう。
かつて、
「世界的なパンデミック」
というものが巻き起こり。約3年間ほど、国内は、悲惨なことになったが、最近、やっと落ち着きかけているのだが、そんな中でも、政府は、国民のために、支援を渋っていたという経緯があった。
そもそも前述のように、
「国家が支援する金というのは、元々が税金で賄っている」
ということを考えれば、
「金を出さなければいけない」
ということくらいは当たり前のことである。
それを分かっている人間がどれだけいるというのだろう?
「そう、金を運営している、政治家にその自覚があるのだろうか?」
と思うのだ。
いや、自覚があるのであれば、
「そんな、中立を保って、片方に加担しないのが当たり前の我が国で、あのようなあからさまに支援金を出したり、片方には経済制裁を掛けたりなどということができるはずもない」
と言えるのだ。
日本で困った人が山ほどいるのに、それを放っておいての、
「ソーリの、海外にいい顔したい」
という理屈で、元々税金を払った人間を見殺しにするのだ。
「支援した海外の連中が、税金を納めてきたのか?」
ということである。
税金というのは、国民が、何かあった時、あるいは国民生活に必須のものを政府の予算として使うのだから、
「税金は、政府に預けた自分たちが困った時のための金ではないか?」
ということだ。
政府が、絶対君主制でもなく、しかも、民主国家であるにも関わらず、個人の立場のために、金が使われてもいいのだろうか?
「政府というのは、あくまでも国民の代表であり、民意に背いてはいけないはずではないか?」
ということなのだ。
今の政府は、ソーリの
「私物化」
になっているようだ。
「支援するはいいが、国民のための金は、ちゃんと返ってくるんだろうな?」
返ってくるはずなどない。
それどころか、たった今苦しんでいる国民に使わずに、他の国に使って、皆それでいいと思っているのだろうか? そうであれば、よほど国民は、
「バカなのか?」
それとも、政府に
「洗脳されているのか?」
ということにしかならないだろう。
今のそんな政府は放っておいて、
「今の自分は何を趣味にすればいいか?」
というのを考えるようになったのは、社会人になってから、数年が経ってからだった。
大学時代にも、
「何か趣味がほしいな」
とは思っていたが、ちょうどその頃というと、
「趣味よりも恋愛」
という意識があり、何かを趣味にするということへの優先順位が低かった。
そのおかげで、自分の目指すものが分からずに、頭が錯そうしたが、意外と社会人になると、今度は分からなかったものが分かってきて、最初は、
「五月病」
なるものに、見事に嵌ってしまったが、
「なぜ嵌ったのか?」
ということを考えていくうちに、その理由が分かってくるようになると、
「社会人になるというのも、悪いことではないな?」
と考えるようになったのだった。
どこで分かったのかというと、
「ちょうど社会人になって、5年目くらいのことだったのだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます