時節の子ら
Aiinegruth
琴首
カナリアがかなり嫌だ。
特に、先輩の飼っているのが。
「おはようございます……こいつ、食べていいですか。朝食べてないんで」
「だ、だめだめ! 戻って、戻って!」
先輩のカナリアは神経質な監視者だ。普段は彼女の首元に隠れているくせに、私のミスをめざとく見つける。書類の書き損じから、挨拶の声の大きさ、着衣の乱れに至るまで、しつこい限りだ。先輩の
公舎から職場の入っている建物までは、地下道を渡って徒歩一キロほどの距離しかない。このわずかな道程を、私たちは一時間かけて出勤する。理由は、登庁前の見回り業務と――。
「待って、作りかけのハチの巣があります」
――先輩のおせっかいの付き合いだ。
午前八時二〇分。夏めいた日差しの打ち付ける五月一四日の大通りに、深い朝もやが戻ってくる。二キロ後方。国道9号線向かいの高台の上の大神宮から光の線を受けた勾玉が、
カナリアがかなり嫌だ。
特に、先輩の飼っているのが。
・・・・・
「
キンキンと鳴る警報。廊下ごしの他課から響く叫び声や、慌ただしい足音のなか、物思いにふけっていると、心配そうな様子の先輩から声がかかった。
先輩は私より六つ上の、二八歳だ。けれども、怪異により時の呪いを受け、中学生の身体をしている。
「ああ、少し気分が悪くてですね。出来れば、付き添っていただけると――」
「任せてください」
立ち上がると、先輩はついてきた。午前一〇時から警報は止まない。大慌てで庁舎から出ていく部隊と肩をぶつけながら、私たちは階段を上る。県下の大小さまざまな市の
屋上に出ると、何台もの車が激しく交差点から出ていくのが見えた。
「大丈夫ですよ。みんな頼りになる人だから」
「先輩――」
先輩は、小さな身体を目一杯伸ばして私の背中を叩いてくる。震えていた。前線で状況対処に当たれないのが悔しいのだろう。振り向いて、汗ばんだ細い手を掴む。五月の日差しは、金属の手すりを焼くほどの温度だ。しっとり濡れた自分の前髪を掻き上げる。光る手首の勾玉。
「――暑いですよね」
二〇キロ遠方の防府市から沸き上がって地平に蓋をした黒雲は、一息にこちらに迫って、バケツをひっくり返すような水を私たちに運んだ。見方によっては、ただの通り雨だ。が、先輩や、私にとっては違った。
「何で、
「知ってますよ。
続く土砂降りのなかで、私は先輩を手すりに叩きつけると、給湯室の棚からくすねてきたナイフを取り出した。そう、この女が怪異との戦いで足を引っ張って父を殺したことを私は知っている。その事実を業務上の秘密として隠していたのを知っている。私は知っている。シッテイル。シッテイル。知って、いるぞ、クガタマ。
「いたよ」
ワタシはナイフを振り上げた。ココには、いまこの腰抜けしかイナイ。何故? ワタシが散ラシタカラに決まってイル。
「――でもさ、お前も居ただろ、
振り下ろしたナイフが、止まっタ。
「業務上の秘密を知ってるわけないだろ、
巻き上がる風が、黒雲を断つ。晴れた屋上で、わたしは
「あの、先輩これは」
「下がってて、あいつ、
振り返ると、身長五メートルほどの大男が屋上に立っていた。大男に首はなく、本来頭があるべき部分には白い琴が浮いている。喉が干上がる。甲一級の怪異だ。怪異は季節の巡りで生じる軋みの音が、人々の負の感情と混ざって成り立つ。ひとに憑く力を持ち、最も破滅的な被害を起こす個体たちは、みな身体の一部に楽器を持っている。
琴が首を鳴らす。瞬間、全ての社からの光の線が断ち切られた。二音目を鳴らす。眼下の町に何体かの怪物が現れる。三音目は、鳴らなかった。琥珀先輩がわたしのナイフをひったくって大男に斬りかかったからだ。ギィイイインと、音の幕に防がれて吹っ飛んできた小さな身体を捕まえる。
無茶だ。研修で学んだ。甲一級は個体の領分を超えた災害だ。手を出してはいけない。あれを討伐できるのは、京都などで活動している歴戦の公務部隊か、長い歴史を持つ本職の陰陽師の家系だけだ。あくまで行政機関の延長に過ぎないこの県の職員ではどうしようもない。
眼下に見える怪物たちはまだ動きを見せない。怪異に殺されると、人の形を失った化け物になるという。川幅をその身で埋めて市街地へ泳ぎ進むワニ、県立博物館の外壁一杯に脚を伸ばした蜘蛛、商店街アーケードに逆さに接して咲いているクラゲ。琴の甲一級の配下、父は、あのなかにいるかもしれない。
「ヨクモ、人間如キガ、ボクノ弦ヲッ!」
だが――、切れたのは弦の一本だけだ。三音目。音の壁に吹き飛ばされた先輩を捕まえようと身を乗り出した瞬間、怒りに吠える
浮遊感。
何もできない。この一瞬が終われば落ちて死ぬ。昼を迎える街並みが、燃え立つように黄色い。たった一月と少しに過ぎない先輩との記憶が思い返される。父の死の真相を知りたいと焦るわたしを、彼女はたくさん助けてくれた。怪異は取り憑くと疑念などの依り代の負の感情を増加させる。わたしは、確かに琥珀先輩を疑っていた。でも、それよりずっと、――感謝している。
桜が開いて、蛙が鳴く。
涼しい風が吹いて、
泣きそうなわたしに、時の止まった彼女がかけてくれた言葉を思い出す。全身に気力が満ち、手首の勾玉が輝く。弾き出され、死への落下が始まる直前。わたしは脳内で唱える。――
いつの間にか頭上を周回していたカナリアが、とりわけ大きな声で鳴いた。瞬間、乱雑で、発動するはずもなかった術式が、起動する。地を這った莫大な水流が鎌首を持ち上げてわたしたちの足場となった。わたしが先輩の頬に水を塗ると、彼女の身長がぐっと伸びていく。少しぶかぶかだった服も収まり、その模様も変わる。一時的に解呪が出来たようだ。わたしより大きくなって重い先輩の首元から、一匹の白蛇が顔を出した。驚いて離れる前に、彼女はトンっと屋上に飛び移った。
「ありがとう――これで、本当に戦える」
口元の血を拭った琥珀先輩の色素が抜けていく。日本人らしい黒髪は白髪に変わり、その両目は真っ赤に見開かれる。
屋上に飛び乗る。
・・・・・・
結局、無数の竹に身を貫かれた
「おはようございます……こいつ、食べていいですよ。ほら、蛇ちゃーん」
「だ、だめだめ!」
カナリアがかなり嫌だ。
特に、わたしの飼っているのが。
時節の子ら Aiinegruth @Aiinegruth
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