時節の子ら

Aiinegruth

琴首

 カナリアがかなり嫌だ。

 特に、先輩の飼っているのが。


「おはようございます……こいつ、食べていいですか。朝食べてないんで」

「だ、だめだめ! 戻って、戻って!」

 職員公舎しょくいんこうしゃのエレベーターのなかで、私は頭をつつかれていた。隣に立った先輩が両手を広げて回収した鳥を睨みつけると、鳥も指の隙間からぴいぴいと抗議の声を発する。今日襲われた原因は、たぶん寝癖か何かだ。手櫛で髪を一時的に整えると、うるさい声は聞こえなくなった。

 先輩のカナリアは神経質な監視者だ。普段は彼女の首元に隠れているくせに、私のミスをめざとく見つける。書類の書き損じから、挨拶の声の大きさ、着衣の乱れに至るまで、しつこい限りだ。先輩の公用獣こうようじゅうでなければ、部屋の化粧品で真っ黒に塗るところだ。

 公舎から職場の入っている建物までは、地下道を渡って徒歩一キロほどの距離しかない。このわずかな道程を、私たちは一時間かけて出勤する。理由は、登庁前の見回り業務と――。

「待って、作りかけのハチの巣があります」

 ――先輩のおせっかいの付き合いだ。後河原うしろがわら大殿大路おおどのおおじ滝町たきまち。今月担当の霊標れいひょうを確認の終えたとき、先輩は道路沿いの喫茶店の軒先を指差した。見上げれば、確かに数匹のアシナガバチがゴルフボール大の茶色の塊にとまっている。面倒だが、見つけた以上落として帰るか。準備中と書かれた看板の根元から小石を拝借して投擲の構えを取ると、先輩は私を制して右手を振り上げた。彼女の手首に結び付けられた勾玉まがたまが輝き、近くのやしろから力を引く。


 神璽しんじたてまつれ。高嶺大神宮こうのみねだいじんぐう

 補回暦ほかいれき 雨水二番うすいにばん 霞始靆かすみ はじめて たなびく 

 

 午前八時二〇分。夏めいた日差しの打ち付ける五月一四日の大通りに、深い朝もやが戻ってくる。二キロ後方。国道9号線向かいの高台の上の大神宮から光の線を受けた勾玉が、回暦かいれきを起こした。先輩の思う通りに動く朝もやは、小さな腕の動きに合わせてハチの巣を天高く巻き上げ、県庁裏の山に運んで行った。周囲を飛んでいたハチたちも、その後を追っていく。巣はどこかの木に張り付き、秋に向けてまた栄えるだろう。殺しておけば良いのに。呟きながら、ため息と共に小石を捨てると、彼女はごめんね、と振り向いた。

 

 カナリアがかなり嫌だ。

 特に、先輩の飼っているのが。


・・・・・


 山口県庁やまぐちけんちょう知事部局ちじぶきょく古今神祇部ここんじんぎぶ時節課じせつか補回暦室ほかいれきしつに仕事はあまりない。いわゆる窓際であるここは、備品や消耗品管理、電話対応、掃除をして一日を終わらせるのが週の半分になる。課長は日頃から多忙な他課に引っ張り出されて夕方まで帰ってこないので、決裁が回るのも遅い。――下らない、本当に。

 渾天課こんてんか霊域課れいいきか遺構遺文課いこういぶんか観光事業課かんこうじぎょうか特務課とくむか時節課じせつか――あとは、会計課と管財課。古今神祇部ここんじんぎぶには秘密が多い。特務課、怪異討滅室かいいとうめつしつなんて、怪異による事件を追い、殺し、殺されもするところに所属している人間の情報は、親族にも知らされない。一〇年前、まだ一二歳だったとき、父は事故死したらしいとの知らせが届いた。翌日は私の誕生日で、遊園地に行く約束だった。本当は何があったのか、知りたい。高卒で公務員になったのはそれが理由だ。

淡墨あわずみさん、大丈夫ですか?」

 キンキンと鳴る警報。廊下ごしの他課から響く叫び声や、慌ただしい足音のなか、物思いにふけっていると、心配そうな様子の先輩から声がかかった。

 先輩は私より六つ上の、二八歳だ。けれども、怪異により時の呪いを受け、中学生の身体をしている。古今神祇部ここんじんぎぶの制服は、七十二候しちじゅうにこうに従ってプリントを変える。蚯蚓出きゅういんいずると題して這い出るミミズがプリントされたクソダサTシャツを着ている私に対して、先輩の制服は牡丹華ぼたんはなさくの可憐なデザインを維持している。穀雨こくうの最後。先輩の時が止まったのは、私の父が死んだ季節だった。彼女は去年、怪異討滅室かいいとうめつしつから異動してきたという。

「ああ、少し気分が悪くてですね。出来れば、付き添っていただけると――」

「任せてください」

 立ち上がると、先輩はついてきた。午前一〇時から警報は止まない。大慌てで庁舎から出ていく部隊と肩をぶつけながら、私たちは階段を上る。県下の大小さまざまな市の霊標れいひょうが同時に異常値を検出したのだそうだ。

 屋上に出ると、何台もの車が激しく交差点から出ていくのが見えた。高嶺大神宮こうのみねだいじんぐうから赤い光の柱が上がり、特務課を乗せた巨鳥きょちょうが大通りに影を落として飛び去って行く。様々な回暦かいれきが県内を巡っているのが、寺社仏閣から無数に敷かれた光条から分かる。

「大丈夫ですよ。みんな頼りになる人だから」

「先輩――」

 先輩は、小さな身体を目一杯伸ばして私の背中を叩いてくる。震えていた。前線で状況対処に当たれないのが悔しいのだろう。振り向いて、汗ばんだ細い手を掴む。五月の日差しは、金属の手すりを焼くほどの温度だ。しっとり濡れた自分の前髪を掻き上げる。光る手首の勾玉。

「――暑いですよね」


 神璽しんじたてまつれ。周防三之宮すおうさんのみや仁壁にかべ

 補回暦ほかいれき 大暑三番たいしょさんばん 大雨時行たいう ときどき おこなう 

 

 二〇キロ遠方の防府市から沸き上がって地平に蓋をした黒雲は、一息にこちらに迫って、バケツをひっくり返すような水を私たちに運んだ。見方によっては、ただの通り雨だ。が、先輩や、私にとっては違った。

「何で、回暦かいれきを人前で起こす時には、まず霞で姿を隠さなきゃいけないって最初の研修で――、それに、こんな緊急時に」

「知ってますよ。玖珂珠琥珀くがたま こはく。あなたは、私の父が死んだ現場に、一緒に居ましたよね」

 続く土砂降りのなかで、私は先輩を手すりに叩きつけると、給湯室の棚からくすねてきたナイフを取り出した。そう、この女が怪異との戦いで足を引っ張って父を殺したことを私は知っている。その事実を業務上の秘密として隠していたのを知っている。私は知っている。シッテイル。シッテイル。知って、いるぞ、クガタマ。

「いたよ」

 ワタシはナイフを振り上げた。ココには、いまこの腰抜けしかイナイ。何故? ワタシが散ラシタカラに決まってイル。古今神祇部アホどもが、釣ラレテみんな出てイッタ。っが、ははははは、死ね。クソガキ。

「――でもさ、お前も居ただろ、琴首ことくび

 振り下ろしたナイフが、止まっタ。

「業務上の秘密を知ってるわけないだろ、淡墨瑞花あわずみずいかさんが」

  

 神璽しんじたてまつれ。周防一之宮すおういちのみや玉祖たまのおや

 補回暦ほかいれき 清明三番せいめいさんばん 虹始見にじ はじめて あらわる

 

 巻き上がる風が、黒雲を断つ。晴れた屋上で、わたしは琥珀先輩こはくせんぱいにナイフを向けていた。何で? いつの間にか服はびしゃびしゃだ。呆然と周囲を見渡す間もなく、虹を背にした先輩が歩み寄ってきた。いつものほわほわした雰囲気ではない。眼光が鋭く、只ならぬ気配を発している。

「あの、先輩これは」

「下がってて、あいつ、琴首ことくびぼくがやる。一か月かけて、やっと引き剝がせた」

 振り返ると、身長五メートルほどの大男が屋上に立っていた。大男に首はなく、本来頭があるべき部分には白い琴が浮いている。喉が干上がる。甲一級の怪異だ。怪異は季節の巡りで生じる軋みの音が、人々の負の感情と混ざって成り立つ。ひとに憑く力を持ち、最も破滅的な被害を起こす個体たちは、みな身体の一部に楽器を持っている。

 琴が首を鳴らす。瞬間、全ての社からの光の線が断ち切られた。二音目を鳴らす。眼下の町に何体かの怪物が現れる。三音目は、鳴らなかった。琥珀先輩がわたしのナイフをひったくって大男に斬りかかったからだ。ギィイイインと、音の幕に防がれて吹っ飛んできた小さな身体を捕まえる。

 無茶だ。研修で学んだ。甲一級は個体の領分を超えた災害だ。手を出してはいけない。あれを討伐できるのは、京都などで活動している歴戦の公務部隊か、長い歴史を持つ本職の陰陽師の家系だけだ。あくまで行政機関の延長に過ぎないこの県の職員ではどうしようもない。

 眼下に見える怪物たちはまだ動きを見せない。怪異に殺されると、人の形を失った化け物になるという。川幅をその身で埋めて市街地へ泳ぎ進むワニ、県立博物館の外壁一杯に脚を伸ばした蜘蛛、商店街アーケードに逆さに接して咲いているクラゲ。琴の甲一級の配下、父は、あのなかにいるかもしれない。

 琴首ことくびは、怪物を全ての市に撒いたらしい。わたしが呆然としている間に、琥珀先輩は回暦かいれきを起こしていた。見ると、呪符が散っている。さっき切り込んだ時にナイフに呪いをつけて、音の壁にぶつけたのだと気付いたころには、最初の音が解け、彼女の勾玉に光が集まっていた。

 芒種一番ぼうしゅいちばん蟷螂生とうろうしょうず大寒二番だいかんにばん水沢腹堅さわみずこおりつめる春分三番しゅんぶんさんばん雷乃発声らいすなわちこえをはっす。虚空から現れた大鎌を先輩は手に取った。手すりを蹴って飛び込み、怪異の腹を深く断つ。ふわっと温度差に乱れる髪。着地と同時に発生した零下の波動が逃げる琴首ことくびの足を凍り付かせ、続けて落ちた雷は完全に怪異を焼き焦がした。

「ヨクモ、人間如キガ、ボクノ弦ヲッ!」

 だが――、切れたのは弦の一本だけだ。三音目。音の壁に吹き飛ばされた先輩を捕まえようと身を乗り出した瞬間、怒りに吠える琴首ことくびが形を変えた。首だけではない。手首と足首が消失し、白い琴に置き換わった。衝撃。先輩を抱きとめたと同時に、四音目が私たちごと屋上の欄干を中空に弾き出す。

 浮遊感。古今神祇部ここんじんぎぶの庁舎は七階建てだ。二〇メートル下のアスファルトはうっすら濡れて輝いている。腕のなかの先輩が血を吐いてむせた。弾かれた金属で痛めたのか、わたしも右足の感覚がない。音を受けた背中は焼けるように熱いのに、ひどい悪寒が身体の中心を冷やしている。

 何もできない。この一瞬が終われば落ちて死ぬ。昼を迎える街並みが、燃え立つように黄色い。たった一月と少しに過ぎない先輩との記憶が思い返される。父の死の真相を知りたいと焦るわたしを、彼女はたくさん助けてくれた。怪異は取り憑くと疑念などの依り代の負の感情を増加させる。わたしは、確かに琥珀先輩を疑っていた。でも、それよりずっと、――感謝している。


 桜が開いて、蛙が鳴く。

 涼しい風が吹いて、金盞花きんせんかが咲く。

 淡墨あわずみさん、季節は巡るよ。だから、きっと大丈夫。


 泣きそうなわたしに、時の止まった彼女がかけてくれた言葉を思い出す。全身に気力が満ち、手首の勾玉が輝く。弾き出され、死への落下が始まる直前。わたしは脳内で唱える。――淡墨家あわずみけは、父の代まで、陰陽師の家系だった。

 

 淡墨あわずみは塗る。紅石山べにしやまから、周防すおう長州ちょうしゅうへ。 

 神璽しんじたてまつれ。赤間神宮あかまじんぐう水天門すいてんもん


 いつの間にか頭上を周回していたカナリアが、とりわけ大きな声で鳴いた。瞬間、乱雑で、発動するはずもなかった術式が、起動する。地を這った莫大な水流が鎌首を持ち上げてわたしたちの足場となった。わたしが先輩の頬に水を塗ると、彼女の身長がぐっと伸びていく。少しぶかぶかだった服も収まり、その模様も変わる。一時的に解呪が出来たようだ。わたしより大きくなって重い先輩の首元から、一匹の白蛇が顔を出した。驚いて離れる前に、彼女はトンっと屋上に飛び移った。

「ありがとう――これで、本当に戦える」

 口元の血を拭った琥珀先輩の色素が抜けていく。日本人らしい黒髪は白髪に変わり、その両目は真っ赤に見開かれる。玖珂珠家くがたまけは、白蛇に仕える一族であったというのは、あとで聞いた話だ。弦を鳴らして発せられる琴首ことくびの音を、屋上を這う無数の蛇が食い散らす。状況は霊域課れいいきかによって伝わっていた。全ての市に分かれた部隊が、祈りを送っている。金色に編まれた光芒の中央。彼女の手の勾玉に、県下九〇〇を超える神社の力が集約されていく。――次第に、わたしの、勾玉にも。

 屋上に飛び乗る。淡墨あわずみの力が高まり、皮膚に呪言が浮き上がってくる。わたしたちに言葉は必要なかった。一歩ずつ、割れた白い蛇の海に墨の足跡を刻んで進む。――そして、彼女の手を取り、口を開く。


 神璽しんじたてまつれ。寂地山じゃくちさんから関門橋かんもんきょうまで、大小諸神だいしょうじょじんに頼み申す。

 補回暦ほかいれき立夏三番りっかさんばん竹笋生ちくかんしょうず


・・・・・・

 

 結局、無数の竹に身を貫かれた琴首ことくびは、瀕死の身体で逃げ出し、討伐とはいかなかった。わたしたちは力の使い過ぎで揃って入院し、二か月後に復帰した。中学生サイズに戻った先輩は、白蛇を公用獣こうようじゅうとし、彼女の鳥は流れで何故かわたしのものになった。

「おはようございます……こいつ、食べていいですよ。ほら、蛇ちゃーん」

「だ、だめだめ!」

 職員公舎しょくいんこうしゃのエレベーターのなかで、私は頭をつつかれている。隣に立った先輩は、目をきらめかせた白蛇を必死に捕まえている。原因は、たぶん寝癖か何かだ。手櫛で髪を一時的に整えると、黄色の厄介者は澄まし顔でわたしの肩に収まった。


 カナリアがかなり嫌だ。

 特に、わたしの飼っているのが。


 

 

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