第07話 血ヶ崎ノエマ その2
※※※※
血ヶ崎ノエマと血ヶ崎ノエシスが檜山ザンセツとともに殺人事件を起こしていた、その同時刻のことである。
萩原キリコのほうは自宅に戻り、寝つけない体を鎮めるために机に向かっていた。気絶していたアリス・ミラーギロチンのことは、森野ユーリが介抱して目覚めるまで自分のアパートで眠らせるつもりらしい。西城カズマのほうはといえば、事件を解決した報告をするために実兄の小宮サンシロウのもとへと向かうらしかった。だからキリコは、ただの血まみれの紙束になってしまった『昏い森の殺人』全三巻を脇に抱えながら実家に帰ると、家族の皆が寝ているのを確認してから自分の部屋に入った。当然のことではあるが、ジギィ=ジグザグもそこについていく。
《しかしキリコさん、そんな本を持ち帰ってどうするの?》
「え? あ、は、はい」
キリコは机に本を並べるとノートを開いた。
「私、今回の幽霊を倒しながら思ってたことがありました。この本、ミステリ小説なのに犯人が分かる物語の結末までは書かれていなかったんですよ。そして、いろいろ調べてみてもこういう本が世の中に出回ったことはないって森野ユーリさんとアリス・ミラーギロチンさんが言っていました。
だ、だから思ったんです。もしかしたら今回の幽霊って、ただ自分が書いていた物語を結末まで書き切りたかったんじゃないかなって。そう思ったら私、なんか、自分がちゃんと読んだミステリの真相を知りたくなったんです。ちゃんと自分なりに推理してみて、自分なりに結末まで書いてみたいな――って」
《なるほどね》
「あ、あの、無駄なことかもしれませんけど」
《そんな風には思わないよ。キリコさんの人となりは分かっているつもりだから。それで死んだ幽霊が浮かばれるかどうかは分からないけど、いずれにせよ、キリコさんの気持ちが軽くなるなら、ね》
ジギィは微笑んだ。
《どんな幽霊にも事情と未練というものはあるよ。そういうものにいちいち付き合う必要もないと僕は思うけど、キリコさんは言っても聞かないだろうからね。だいいち、僕自身が自分の未練を知るためにキミと付き合っているんだ、あまり強いことは言えない。そういうのもキリコさんの良さだと感じるようになってきた》
「幽霊の未練――」
《たとえば西城カズマくんのボンヌ=ボワッソン。彼女は「あとを追うだけの能力」の持ち主だが、おそらく生前は未亡人かなにかだろうな。一部地域には寡婦殉死の習慣というものがある。愛する夫に先立たれた女が自決するんだ。要するに、大切な人に置いていかれたくなかったという未練が彼女にああいう能力を付与していると見ていい。
あるいは森野ユーリくんのカルト=キャルチュールとデルタ=デジィールは、いわゆる被差別民だろう。世間から無視されながら迫害されるというダブルバインドのなかで、彼らはそれぞれ「気を惹くだけの能力」と「見えなくなるだけの能力」という相反する力を手に入れた。自分たちを差別する誰にも見られたくないが、正しく注目されたい――。
ゴーシェ=ゴーシェについては――これはアリスって子が自分で言ってたね。東京の薄汚れた街で搾取されていた女の子が、ただ自分の安全を確かめたいと思った結果「身を護るだけの能力」になったということだと思うよ。こんな風に、どんな幽霊の能力も、それぞれに相応しい事情と未練というものがあるんだ》
そんな風にジギィが説明するのを聞きながら、キリコは不意に気になったことをそのまま口にする。
「ジギィさんの『壁を無視するだけの能力』も、なにかの未練なんでしょうか? もしかしたらそこに、ジギィさんの過去を知る手がかりがあるんじゃ――?」
とはいえ、それ以上なにか進展するようなものはなかった。
キリコからの問いかけに対して、ジギィは少しだけ俯いてから《僕もそれについては考えてみたことがある》とだけ言った。
《でも自分自身に思い当たるふしが全くないんだよ。壁を無視したいと思うような未練がどういうものなのかなんてね――?》
「あ、あの、素人考えなんですが」
《んん?》
「なにかの病院とか、牢屋とか、学校とか、教会とか、そういう場所に閉じ込められていたとかなんでしょうか。そうしたら壁をなかったことにして外に出たいってことに気持ちになると思うんですけど」
《うーん。たしかに考えてみたけれど自分ではあんまりピンとこなかったかなあ。流石に正解に思い至れば心にも響くものがあるだろうからね。そういう感情にならない時点で違うとは思うよ》
しかし、と、ジギィは言葉を繋いできた。
《少し嬉しくはあるかな。僕のことについてもきちんと考えてくれているんだね。いずれにせよ1000年もの間は解けなかった問題ではあるんだから、手がかりが見つかるのはいつでもいいと言えばいつでもいいんだけどさ。でもありがたいと思うのは本当だよ。改めてキリコさんのことを好きになってしまうね?》
「えっ、おっ、あっ、ひ、それは、あのっ」
キリコは、思わず耳まで真っ赤になってしまった。そんな、予備動作もなしにスキスキ言われても困ってしまうという気持ちが彼女にはある。
「その、えっと、お嫁さんって言われたので――自分にできることはないのか、あれから考えてましたけど」
《そ?》
ジギィが楽しそうに笑うのを、キリコはムゥと思いながらちょっとだけ睨む。もしかしたら弄ばれているだけなのではないか――という気もしたのだ。ジギィさんという幽霊が自分に出会うまでなにをしていたのか彼女は知らない。こんなに顔の整った男の人だから、女の子の霊能者のひとりやふたりくらい平気で引っかけていたのではないだろうか。なんとなくそんな疑いもなくはなかったし、もともとイケメンな人というのは苦手だった。どうせ自分なんかには釣り合わないだろうとさえ思っている(彼女は自分の容姿の良さには全く気がついていないのである)。
そうしていよいよ夜も更けてくるのを窓の外に認めてから、彼女はベッドのなかに潜り込んで無理やりに自分を眠らせた。ともかく、明日が来ればまたいつものように編集プロダクション『クロノスタシス』に出社してアルバイトとしての仕事をこなしながら、霊能者としての悪霊再殺依頼が来たら任務を全うする――そんな風にも思っていたからだ。
だが、キリコの予想は完全に裏切られることになった。
彼女を呼び起こしたのはいつもの目覚まし時計ではなく、アリス・ミラーギロチンからの着信だったからである。
『キリコ? ごめん、起こしちゃった?』
「――えあ、んっ、んあ、アリスさん?」
『完全に寝起きボイスって感じね。まあいいわ。今からマップアプリで指定の場所を送るからすぐに来てちょうだい。事件よ』
「事件? ま、まさかまた幽霊がなにかしたんですか?」
キリコがそう訊くと、アリスは受話器の向こう側でほんの少し言いよどんでから言葉を繋いできた。
『今回はそうじゃないのよ。生きた人間が生きた人間に殺された。しかもエンゲージを伴う霊能力で殺害されてるわけ。これがどういうことか分かる? アタシたちも把握していない霊能者が暴れ始めてるってことよ。
つまり、結局はこちら側の仕事ってこと』
※※※※
萩原キリコはすぐに着替えて支度をすると、バイト先(編集プロダクション『クロノスタシス』)に連絡を入れながら走り出した。ただひとつ幸いだったことといえば、これはキリコ個人の勘違いということなのだが、その日は別に彼女にとってアルバイトの勤務日では全然なかったということである。編集長兼経営者の月岡さんからの言葉で、キリコもようやくそのことを思い出した。
「すみません月岡さん、今日はお休みを頂きます。急用が入ってしまいまして」
『大丈夫だよキリコちゃん! ていうか、このまえオレが有給休暇くらいちゃんと消化しようねって言って取得したばっかりじゃない? それが今日よ、忘れちゃった?』
「え、あ! あっ――」
『キリコちゃんはいつもちょっと働きすぎだからねえ。どうせあんまり覚えていないんじゃないかとは思ってたよ。とにかく、プライベートなのかパブリックなのかは知らないけど急な用事じゃ大変だなあ。こっちの仕事のことは気にしないで、ちゃんと済ませておいで。ウチのほうはあんまり喫緊の課題もないから!』
「は、はひ――!」
というわけで。
キリコは東京都の細々した電車を乗り継いで、ジギィ=ジグザグとともに住宅街のなかを徒歩で移動しながら、アリス・ミラーギロチンの指定した場所に辿り着いていた。そこは渋谷区の高層マンションで、とっくに地元の刑事たちと鑑識課が出入り禁止のテープを張りながら現場の13階を死守していた。
そこにはアリスがゴーシェ=ゴーシェをそばに置いて立っており、そして西城カズマのほうはボンヌ=ボワッソンを引き連れて既に待っていた。しばらくしてから、森野ユーリがカルト=キャルチュールとデルタ=デジィールを連れてやってくると、ようやくそこに警視庁刑事部霊能課三係のメンツが揃っていた。
キリコは全員の顔を見渡して呼吸を整える。
「こ、これ、どういう殺人事件なんですか?」
「ぼくのほうから説明します」
と森野ユーリが言った。
「被害者はこのマンション『アド・ラインハート渋谷』13階、1305号室に住んでいる浅野ケイという男性ですね。年齢は36歳で、仕事としてはインターネットの動画配信サービスによる広告収入と課金、いわゆるユーチューバーというやつでした。コンテンツは霊能関係のものを多めに垂れ流していたようです。活動アカウント名は『キッドA』。チャンネル登録者は女子中高生を中心にしてなかなか伸びていたらしいです。現場に残されていたPCにも、殺害直前まで女性と会話していた記録が残っていたとのこと。まあこれは大した証拠にはなりません」
「えっ」
キリコは思わず絶句した。
「き、き、キッドAさん? 殺されたのはキッドAさんなんですか?」
「? はい。それがどうかしたんですか?」
「そ、わ、その、わた、私っ、私その人と会ったことがあります!!」
彼女がそう叫ぶと、カズマ、ユーリ、アリスの三人が顔色を変えた。殺人事件の被害者がチームメンバーと顔見知りであるという事実が、改めて、この現場で殺されたのは一人の生身の人間であるということを浮き彫りにしているかのようであった。
「ちょっと先に様子を見てくるわ」
西城カズマは出入り禁止のテープをくぐると、ポケットから専用の手帳を出して刑事を黙らせながら建物のなかに入った。どうやら警視庁刑事部霊能課というものはそれなりの現場では顔が効くらしい。キリコ、ユーリ、アリスは外で待機して、とりあえずカズマの報告が来るまでは黙って空を見上げるかスマートフォンをいじるしかなかった。彼らの横を、所轄の警官が怪訝そうな表情を浮かべながら通りすぎていく。それはそれで当たり前というものであった。事情を知らない人間たちにとっては、なぜか事件現場の近くで二十歳前後の男女がブラブラ暇そうにしているようにしか見えないからだ。
「それにしても」
と、アリスはキリコのほうを見た。
「なんでキッドAとかいうインチキユーチューバーと知り合いなのよ? キリコ」
「え、あ、仕事の関係です。私、オカルト絡みの記事を書く編集プロでバイトしてて。それも霊能課に呼ばれた理由だと思ってるんですけど。とにかく、そこの案件でキッドAさんの取材に行っていっしょに心霊スポットに行ったことがあって。まあ、その企画自体は失敗というか流れちゃったんですけど」
「――ふうん?」
「も、もしかして、私が関わってたことと、キッドAさんが殺されちゃったこととなにか関係があるんでしょうか?」
「やめなさい。なんでもかんでも自分のせいだなんて考えるのは。精神に毒な発想でしかないわよ、それ。
でもそうね。いまアタシが心配してるのは、キッドAの交友記録からキリコのことが変に疑われないかどうかということなの。とにかく関連がありそうなものから探りを入れようとするのが捜査の定跡ってやつでしょ」
「は、はい」
そんな風にお互いの言葉を繋げていると、西城カズマからグループミーティングのチャンネルで着信が届いた。すぐにキリコはイヤホンを耳にはめ、ユーリも、そしてアリスも同じようにする。どうやら真っ先に事件現場を視察した彼のほうからなにかしらの報告があるようであった。
『死体を見たぜ』
とカズマは言ってきた。
『ひでえもんだ。生きたまま全身をアイスピックで刺されたあと、殺されてから体中をバラバラにされてる。内臓のいくつかは捌かれてマンション内のミキサーで粉々だよ。どうやら唾液が残ってるらしいから食人事件でもあるみたいだなあ、これ。あと、どこの野良犬のモンか知らねえがフンコロもクチんなかに詰め込まれてるぜ。普通に考えたら無秩序型の猟奇殺人ってやつだ。
残穢はあった。ただし死んだ幽霊の仕業じゃねえんだよ。念のためボンヌ=ボワッソンの《あとを追うだけの能力》で調べさせたが、たしかに霊能者の痕跡が残ってるんだ、この部屋にはな。平たく言えばエンゲージした匂いがたっぷり現場にこびりついてるってわけだ。要するに、オレたちとは関わりのないワルの霊能者がなんらかの目的でクソみてえな殺人を犯したってことになるんだろうぜ』
「そう?」
と、アリスが返事をした。
「分かったわ。アタシたちも現場に案内してちょうだい」
『ダメだ。ユーリだけ来てくれ。アリスとキリコちゃんは外で待ってりゃいい――』
「はあ? なんでよ?」
アリスが顔をしかめ、スマートフォン(iPhone 15 Pro )を握りしめながら声を荒げて質問すると、しばらくしてからカズマはこんな風に答えてきた。
『ひとつだけ言うけど、エグすぎるぜこの現場。女なんかが見ていいモンじゃねえよ。死体の調査はオレとユーリがなんとかしておくから、お前らは外でちょっと待っててくれ』
※※※※
そういう西城カズマの言葉に対して、アリス・ミラーギロチンはカチンときたような表情であった。
「なにそれ?」
『あ?』
「あのねえ、この際だからハッキリ言っておくわよ。そうやって女を見下げ果てたような物言いは今すぐにやめなさい。グロ死体にアタシたちが耐えられない? ナメてるの? アタシも皆もこの前の任務でとっくに全員対等なチームになったはずよ。そしてリーダーはアタシでしょう! アタシが現場を見せろ、って言ったら見せなさいよ?」
『オレは善意で言ってるんだぜ?』
「その善意とやらが迷惑だって言ってるのよ。安っぽいパターナリズムね。これからもいっしょに仕事をしていく上でこれはちゃんとしておくから。あなたがどういうトラウマなのか不幸な境遇なのかで女ってモンに偏見を抱いているのかは知らないけどね、こっちだってマジでやってんの。それが信じられないならチームを組む意味がないわ――」
そんな風にアリスが啖呵を切ると、カズマのほうはしばらく黙っていた。
やがて、
『キリコちゃんはどう思うんだよ?』
と言ってきた。
キリコはスマートフォンをしっかり耳に当てながら、唇をきゅっと結ぶ。
「わ、私も事件現場に行きたいです。それが霊能者の仕事だっていうなら、サボりたくありません。か、カズマさんが優しいのはなんとなく分かりましたけど、わっ、私はきっと大丈夫です。大丈夫じゃないといけないんです。アリスさんが言うとおり私たちはチームなんですから、同じものを見ましょう――」
そう答えた。
ほとんど一分ほど時間が経ってから、カズマの長いため息が聞こえてきた。
『分かったよ。ただし、オレはちゃんと止めたからな』
こうして、キリコと、ユーリと、アリスは、周囲の警官たちに手帳を見せながら現場に向かっていった。
部屋に到着。
直後、現場の惨状を見たアリスは「うっ」と口もとを手で押さえてから、青ざめた表情で吐き気をこらえきれず、そのまま近くのトイレに駆けこんでいった。要は、ゲロを吐いて朝食のサンドイッチと再会というわけだった。現場に飛び散った血と臓物の鮮やかな色彩、すえた匂い、そして死体を冒涜するような糞便の醜悪さに耐えろというほうが難しいのも事実であった。
「ゲ、ゲえ、オエエエエエエエエ!!!!」
ビチャビチャビチャビチャと、嘔吐物が便器に吐き出される音がこちらに聞こえる。
「だーから言ったじゃねえかよ」
カズマは呆れたように呟いた。彼のほうは既にこういう事件も見慣れたものなのか、特に顔色は変わらない。ユーリのほうも、なにも言わないままメモをとっていた。周りにいる鑑識課の職員や刑事たちは彼らのことを見てみぬフリでもするかのように黙々と作業を続けている。おそらくは、警視庁刑事部霊能課の存在そのものが世間に秘匿されたまま活躍するために、国家公務員たちはなにも知らない素振りをしながら働かなければいけないということなのだろう。
キリコは、ただ死体を眺めていた。残酷な殺戮を目にしたのは初めてのはずだが、アリスのようには吐き気など催さなかった。ただ、こんな風に人間の体を冒涜した犯人に対する怒りがふつふつとこみ上げてくるのを感じた。誰がこんなことをしたんだろう、生きた人間が生きた人間に対してここまで陰惨なことをする理由とはなんなのだろうかと思った。
「これ、本当に霊能者が――生きている人間がやったことなんですか」
とキリコが言うと、カズマとユーリは彼女のほうを振り返った。キリコのほうは自覚していないが、その声は冷凍庫で固められたバニラアイスのように冷たくなっていた。ひたすらにヒンヤリとした憎悪が彼女のアタマをぎゅっと絞めつけていた。両手の拳を握りながらキリコは歯を食いしばった。
「誰が、誰がこんなことをやったのか早く突き止めましょう――。私とジギィさんの力でそいつらのことも倒します」
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