第06話 小宮サンシロウ その3
※※※※
萩原キリコは啖呵を切ったあとで、ハァハァと、息を切らしながらその場にうずくまってしまった。正直なところ、自分がどんな言葉を吐き捨てたのかなど覚えていない。本心から感じていることを言ったというより、とにかくなにか言い返してしまえと思って、その場かぎりのテンプレな文言を並べ立てていただけのような気がする。歯と歯が噛み合わずガチガチと鳴って、指が震え、心臓の音がイヤに大きく聞こえるのを感じながら呼吸を整えるのに必死だった。
そんな彼女を見て間中ユカリのほうは一瞬面食らっていたが、すぐに心の余裕を取り戻すとこう言う。
「ハア? なに? 高校のときとは違ってずいぶん喋るじゃん! となりに男がいたくらいで急に威勢よくなっちゃって、マジでメス猿って感じじゃねえ? 自分ひとりじゃアタシになんにもできなかったくせにさあ! このボンボンの金持ちが――」
「いい加減黙れや」
西城カズマが割って入った。
「お前らの事情は知らねえよ。消え失せろ。オレは女って生きモンがギャーギャー喋ってるのを聞くとムカつくんだ――」
彼が凄むと、ユカリのほうではなく遊佐ミユキのほうが彼女の腕を引っぱって、「もういいよいこうよ、ケンカとかバカバカしいよ」と諫めた。それでこの騒ぎはおしまいになってしまっていた。ただ最後にユカリという女は、
「キリコ! アンタが今後どんだけ立派になったって、アンタのこと嫌いだから! アンタが今から幸せになるなんてこっちは死ぬまで許さないんだからねェ!」
とだけ怒鳴った。
そうして女二人が去るのを眺めてから、カズマは近くの自動販売機で清涼飲料水(ポカリスエット)を二本購入すると、そのうちの一本をキリコに手渡す。
「あっちにベンチがあるから。そこに座って休むぞ、それでいいな?」
「――はい」
「キリコちゃんさ、あんまり誰かと口喧嘩したことないだろ? なんだあの口上は」
「――はい」
「ま、言い返さないよりは全然よかったんじゃねえの? ちょっとだけ見直したよ」
「――え?」
カズマとキリコはベンチに座り、二人でポカリスエットを飲んだ。キリコのほうは喉がカラカラに乾いていて、最初の一口で500mlペットボトルの半分近くまで胃のなかに流し込んでしまう。カズマはしばらく黙ってから、
「女のことが嫌いなんだよ、オレ。まあ相手のことをよく知ったら話は別だからアリスとかキリコちゃんとかはちょっと違うんだけどな。でも悪かったよ、横で勝手に不機嫌になっちまって」
と呟いた。
キリコはペットボトルの蓋をしめると、彼のほうを見つめた。
「それって、カズマさんと小宮サンシロウさんの名字が違うことと関係ありますか? たしか兄弟って聞いたことがあるんですけど」
彼女がそう聞くと、カズマは「んー、ま、そうなんだろうな」と濁しながらペットボトルの中身を飲み、そうしてしばらくしてから、ほとんど「しょうがねえ喋っちまうか」みたいなノリで話し始めた。
「オレらの両親、もう死んじまってるけど離婚してたんだよ。理由は母親の不倫で、外に男をつくって出ていくことになった。それで、兄貴は父親に引き取られて、オレは母親に引き取られることになった。そんときは小さかったからワケが分からなかったけど、学校に通うようになってからは変だと思った。なんでオレだけ母親のほうなんだって、な。でもその理由はなんとなくうっすら分かった。兄貴は母親と父親のガキだけどオレは不倫相手とのガキなんだよ。だから母親はオレのことしか連れていく気がなかったんだ。だから、オレたち兄弟は名字が違う。
でもその不倫相手とやらは、何年かしてからオレの母親をアッサリ捨てたんだ。母親はそれからロクに家事も育児もしねえで男漁りに走るようになって、ボンクラと付き合って殴られて、最後はどこかの観光地にドライブデートに出かけた帰り、運転ミスで五人目くらいの男といっしょに死んじまった。可哀想だとは感じねえよ。元々の旦那と別れてバカな生活をしたんだから自業自得だと思ってる。正直に言えば母親とすら考えたことはねえ。オレはそんときボロアパートで独りで待ってたんだ。
そんで、じゃあゴミみたいな児童養護施設で生きることになるのか? って思ってたときに兄貴が迎えにきてくれたんだ。
父親のほうも同じくらいの時期に病気で死んでたらしくてな。兄貴はそのころ、とっくに小指に緑色の指輪をはめていた。エンゲージのレベルは恋性で、タイプは穿通だ。職場で出会った女の幽霊と恋人になって、悪霊どもをブッ殺す仕事に就いてた。『俺が養ってやるからついてこい、お前は弟だろ?』って言ってくれた。オレがバカなりに高校を出るまでマジで学費も出してくれてたんだよ。まさか、そのカネの出どころがこんなヤクザな仕事なんて知らなかったけどな、当時はさ。
だから、兄貴には恩義を感じてるんだ。それでオレも霊能者になった。最初は無茶なんかするなってキレられたが、まあオレもオレなりに凡夫としては多少才能があったってことなのかなあ。ボンヌ=ボワッソンと契約を交わしてそれなりに修行もして、今の管轄で働けるようになってる。そうこうしているうちにユーリとつるんで、それから、キリコちゃん、アンタに出会った。
でも母親のことはずっと許してねえし、女って性別は好きじゃねえよ。誰かと恋愛するとかバカバカしくて考えたことすらねえな。そんな感じだな?」
カズマはそこまで言い終えると、フー、と息を吐いた。おそらくここまで彼が自分の素性を話したのは、かつて、任務として萩原キリコの経歴を事細かに調べ上げたことについての後ろめたさがあったからだろうと《僕》は思う。要するに、自分が相手のことを深く知ってしまっているのだから、自分もどこかで相手に向けて自身のことを開示すべきだ、それが礼儀だと考えていたということなのだろう。キリコのほうも、カズマの言葉を聞きながらそんな彼の気持ちをうっすら察してはいた。
「話してくれてありがとうございます、カズマさん」
とキリコは言った。
「そ、それに、話を聞いているうちに、気分がちょっとだけ落ち着いてきました」
「なら、よかったわ。顔色マジで最悪だったからな、キリコちゃん。
――アンタが親に色々背負わされて、学校で針のムシロみたいな気分だったことは分かってるよ。どうせ、さっきの女の一人はそういうヤツだろ? オレからすりゃあ恵まれてるけど、恵まれてるからって苦しくないわけじゃないし、オレだってきっと別の誰かから見たら充分恵まれてる、そういうもんだと思うぜ? 自分がやりたいと思うことをやりゃいいんだよ。さっきみたいにムカついたら人に言い返すとか、な」
「はい」
キリコは残りのポカリスエットも飲み干した。
「私は、やっぱりまだ情けないです。お父さんにも、妹のユイカにも自分の夢のために生きていいって言われたけど、本当の意味ではよく分かっていないと思います。
でも、ジギィさんと出会って、色んな人と話ができるようになって、ちょっとずつ自分の気持ちで生きられるようになってきた気がします。その、だから――この仕事を始めてみてよかったって、思えます」
※※※※
そのときのことだった。
カズマとキリコのスマートフォン両方に、それぞれ連絡が入ってきた。カズマに対しては森野ユーリからの、そして、キリコに対してはアリス・ミラーギロチンからの音声通話である。
二人は同時に通話ボタンを押して端末を耳に当てた。
「あ、アリスさん?」
『キリコね?』
とアリスは言った。
『ビンゴよ。呪いの本こと「昏い森の殺人」全三巻、日高ツバサ著を見つけたわ。まあ、正確に言えば見つけてくれたのはユーリくんだけどね。
よくよく考えてみたら、全ての図書館に置かれている全部の本を虱潰しに調べる必要なんてなかったのよ。だって被害者のたちは、この世に存在しない、言い換えれば事前にリサーチすることもできないはずの本を偶然見かけて借りているわけでしょう? ということは、特定の目当ての書物を読むために図書館に来たわけじゃないわ。とにかく読めればなんでもいい、という風に何冊かまとめて借りていったはず。活字中毒というか本の虫というかそういう感じね。では、そういう子たちはどこで未知の小説と遭遇を果たそうとするのか? というわけよ』
「――新刊入荷エリアですか!」
『ご名答ね』
アリスはフンと鼻を鳴らした。
『なる早で情報共有しようかと思ったんだけど、その前にユーリくんが中央キャンパスの法学部地下1階読書室でターゲットを発見しちゃったわ。残穢はあたりにプンプン漂ってるらしいけど、不思議なことに、実際に手に触れてみても幽霊は発生しない。おそらく、本当に最初から最後まで読み終わるまで出現しないタイプのゴーストってわけ。だ~いぶマッチョな読書をこっちに強制してくるタイプの野郎ね。これなら40kgダンベル持ち上げてるほうがマシだわ。
とにかくいったん合流しましょう。正直めちゃくちゃ分量があるのよ、このワケわかんないミステリ小説』
「分かりました」
『悪霊ったら、どうせクイズとその正解みたいなジャンルのエンターテインメント作品を学生たちに読ませていったいなにをどうしたいのかしら? 意味不明だわ。場所は中央キャンパス前の正門に集合で。そこからはユーレイバトルになってもおかしくない広場に移ってとにかく結末まで読むわよこれ!』
そこで通話は終わった。スマートフォンを耳から離してカズマのほうを見ると、彼もユーリから同様の連絡を受け取っていたらしい。彼女の顔を見て、真剣な眼差しで頷きを返してきた。ともかく、これで不毛に等しい呪いの本探しは終了である。ここからは討伐――再殺の時間というわけだ。
「ユーリの野郎、言われてみたらそのとおりって感じの推理だな。こんなことならあんなにクタクタになるまで探さなくてよかったじゃねえかよ、オレらは」
「で、でも、流石です。私も全然気づかなかったっていうか――ユーリさんが経験豊富って言ってたカズマさんの意味が、ちゃんと分かりました」
「だけどな」
とカズマは口を挟んだ。
「ますます謎だぜ、これ。存在しない本が特定の大学にだけ現れ、読書家の学生だけを狙い撃ちにするみてえに呪い殺し続けてるっていうんだから。いったいどういうわけだ? 今度の悪霊はどういう未練をこの世に残してやがる?」
さて、カズマ&キリコ組はユーリ&アリス組と合流し、中央キャンパスからさらにTキャンスパスを越えて少し歩いたところにある公園へと辿り着いた。辺りはとっくに暗くなっていたが、明かりがついていてかろうじて活字は読める。
「さて」
と、アリスは上中下全三巻のハードカバー『昏い森の殺人』をかざした。
「問題は今からこれを読んでいかなくちゃいけないってことなんだけど――正直、この一日で読み切れる分量でもなさそうだから、交互に見張りながらちょっとずつ進めていくのがいいと思うんだけど。まずは誰を担当にするかよね――。
ちなみに、アタシは無理。ミステリって苦手なのよ。そもそも最後のくだりだけ読めば分かるような犯人だの動機だのトリックだのに興味を持てっていうのがバカっぽい」
そんな風に彼女が言うと、カズマのほうは手を挙げ「オレはそもそも文字がびっしり書いてあるような本自体ムリだ」と答えた。
だから、残りの候補としてはユーリとキリコだけになった。
キリコは少しだけためらってから右手をゆっくりと挙げる。
「わ、私やります」
「キリコが?」とアリスが訊いた。「それはどうしてなの?」
「私、速読はできるんです。いま見た感じなんですが、一巻につきA4判のハードカバーで約400ページずつで全三巻ですよね? そのくらいだったら、30分しないで読み終わると思います」
彼女がそう答えると、カズマも、ユーリも、アリスも、そして各々の契約霊たち(ボンヌ=ボワッソン、カルト=キャルチュール、デルタ=デジィール、ゴーシェ=ゴーシェ)も驚いて彼女のほうを見た。ただ一人だけ平然としていたのはジギィ=ジグザグだけだ。彼はキリコとともに生活している間、彼女がハイスピードでビジネス書や自己啓発本、岩波文庫に収録されている人文科学や社会科学に関する本を読み漁っているのをずっと見てきたからである。キリコのほうは特技とすら思っていない。父親の期待に応えるためにいつの間にか身に着けていた、誰でもできることと感じていた。
「キリコ!」
とアリスは怒鳴った。
「そういうことはもっと早く言いなさい!」
「ご、ごご、ご、ごめんなさい」
「怒ってない! あなた最高よ! さっさと読み終えて終わらせちゃいましょう!」
そう言われて、キリコはアリスから『昏い森の殺人』を受け取った。
近くのベンチに座って、パラパラパラパラと紙をめくりながら高速で目を動かす。キリコ自身はあまり推理小説に詳しくないが、おそらく日高ツバサという著者が書いたこの作品は極めて骨太でオーソドックスな探偵モノだと分かった。古い館を舞台にして、クセのある登場人物が集められ、物理トリックに基づいた密室のなかで殺人が行なわれる。そして明らかになる過去の因縁。館の見取り図から判明する秘密の隠し通路。不吉な双子。信用ならぬワトソン役の語り部。超自然的な力を持つアジア人。要らん蘊蓄。現代の科学ではまだ説明されたことがない謎の薬品、エトセトラエトセトラ。
だが、キリコは下巻の最終ページまで読んで固まってしまう。
「あっ、あ、あれ」
彼女は何度かページを行ったりきたりして、そして確信する。
「この本、変です。ミステリなのに、名探偵が真相を皆の前で解説するパートの手前で話が終わってしまっています」
キリコがそう報告した途端、
ズズ、ズ、ズズズズ、ズズズ――と音を立てて本が浮かび上がった。アリスはすぐに上着のポケットから指輪を取り出し、「エンゲージ!」と叫びながら変身しようとする。変身しようとする――のだが、問題の本は超高速で飛び回ると彼女の顔面をストレートに殴打してしまった。
※※※※
日高ツバサという作家はこの世に存在していない。彼は工場に勤務しながらアマチュアのミステリ作家志望として小説を書きため続けていた。そしていよいよ満を持した傑作『昏い森の殺人』を書き終えようとしたそのとき、新人の機械操作ミスによる爆発事故に巻き込まれて死亡した。ただ結末までを書きたかった、それが彼の未練である。だからW大学に幽霊本を忍ばせて、それを読んでくれた誰かが結末部を書いてくれることを期待していた。なぜW大学なのかといえば、彼が行こうとしていた大学がそこだったから、頭の良い学生がいると思ったから、それだけの話である。
だが、彼の強い呪詛に生身の人間は耐えられない。結果として何人もの人間が死ぬことになってしまった――それがこの事件の真相であった。
これを、下らないと思うだろうか? とはいえ創作意欲ほど強欲で傲慢なものもこの世にないのだ。
呪いの本『昏い森の殺人』全三巻はアリスをボコボコにブチのめしたあと、遠くに逃げようと高速移動を続けた。アリスのほうはといえば、気絶。地面に倒れてしばらく起き上がれそうにない。
キリコは「カズマさん!」と叫んだ。「カズマさんの《あとを追うだけの能力》で、あの本を追いかけてください! 私がカズマさんにおぶさって、追いついたら私がトドメを刺しますから!」
「あいよ!」
カズマはそう答えると、「エェンゲージ!」と怒鳴ったあとボンヌ=ボワッソンの力を借りて変身。ローラーブレードを履いて呪いの本を追いかける。キリコのほうはカズマの背中におぶさり、風を受けながら漆黒の指輪を薬指にはめていた。
「え、エンゲージ!」
《了解だ、キリコ!》
指輪の内側には細やかなラテン語でこんな風に刻まれている。
「In manus tuas commendo spiritum meum.(私の魂は、あなたの手のなかに)」
と。
エンゲージとともに激しい黒光が彼女を包み込む。彼女の全身を、ゴシック風の真っ黒なドレスが包み込んでいた。爪も、唇も、死化粧のような黒一色。ジギィ=ジグザグはその場から消え去っていた。彼がいなくなった代わりに、キリコの左手には、黒艶の鞘に包まれた真剣の日本刀が握られていた。
キリコは呪いの本全三巻に狙いを定め、居合切りのポーズを決める。「カズマさん、もう少しだけ近づいたら私を空中にブン投げてください!」
「分かった!
――キリコちゃん、前に初めて会ったとき言ったこと訂正するわ! お前さあ、メチャクチャかっこいいぜ! たぶんな!」
「はい!」
そうして、カズマは呪いの本に近づくといったんしゃがみ、倒立して、キリコをローラーブレードの上に乗せてから思いきり足を伸ばす。グゥウゥン、と、空気を割るような音が耳に残りながらキリコは空中に押し出されていた。呪いのミステリ小説『昏い森の殺人』全三巻はすぐそこである。彼女はきゅっと唇を結び、刀を抜いた。
「――呪いの本さん、あなたに事情があるのはなんとなく分かります。でも、でも、もう私は泣いたりしません! 私はあなたを斬ります!」
そして《壁を無視するだけの能力》を即時発動。それは、どんな距離も障壁もなかったかのように、斬撃の『過程』そのものを吹き飛ばす力である。キリコは日高ツバサという作家を、その作品を、鮮血を浴びながら斬ることができるのだ。
紙の束を斬ったのに血が噴き出したというのも変な話だ。
《アアアア、アアアア――!》
地獄の底から聞こえてくるような断末魔がキリコの耳を貫いた。
キリコは刀を鞘のなかにしまったあと、じわじわと瞼を開けた。そのときにはもう、この場所に幽霊はいなくなっていた。ただ返り血にまみれた彼女の手に、漆黒の日本刀が握られているままだった。
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