第06話 小宮サンシロウ その1


  ※※※※


 犬の悪霊ヴェロニカ・ハートを斬り伏せたあと、萩原キリコは薬指の指輪をゆっくりと外していった。その瞬間にゴシック風の衣装もネイルもメイクも全て消えていき、普段の地味なTシャツとジーンズに、化粧気のない容姿に戻っていく。そして、そのまま公園の地面に両膝をついて崩れ落ちるようにうずくまった。これまで倒してきた悪霊にも、もちろん考慮すべき生前の事情や同情すべき経緯はあったはずだ。だが、今回再殺したヴェロニカはその誰とも違っていた。最後の最後まで、自分がなにをしているのかさえマトモに理解できていないように見えた。

「ぐ、うう、ふ、う――!」

 キリコの両眼から大粒の涙がこぼれていく。こんなにも、己が戦いのなかで動揺してしまうとは思わなかった。ひとつだけ救いがあるとすれば、同伴のアリス・ミラーギロチンには被害者たちの人命救助を任せて現場から遠のかせることができた、ということである。敵の正体を知ってショックを受けたのは彼女も同じように感じられた、だから、辛い思いをさせたくないという気持ちもたしかにそこにはあったのだ。

 キリコのうしろに立つジギィ=ジグザグは、最初のうちは不思議そうに彼女の後ろ姿を見つめているだけだった。人を助けたいという彼女の想いも、悪霊に怒る感情も、救えなかった命に対して涙を流すような価値観も、彼の側にはなかったから。

「ジギィさん――」

《どうかしたの?》

 彼が問いかけると、キリコはゴシゴシと瞼をこすって強引に泣き止もうとした。

「犬の幽霊ですが、彼は人の言葉を話していました。どうしてなんでしょうか?」

《おそらくは死後成長したということだろう。幽霊の強さを決定するものには、大きく分けて三つの要因がある。ひとつ目は、生前の未練や怨恨の深さ。ふたつ目は、死亡してからの時間経過の長さ。そしてみっつ目は――どれだけ他の命を殺して、その魂を喰ってきたかという罪の重さだ。あのヴェロニカ・ハートという犬は多くの男たちの魂を噛み千切って飲み込んできたんだろう。そのたびに人間的な知性を獲得したものの、却って動物としての自我は混濁して大切なものを見失いつつあった――そんなところだと僕は思う。あくまで予想ではあるけどね?》

 ジギィはそう答えた。

「な、なるほど。そういうことですか――」

《僕はキミが泣いているのを見ると胸がざわつくような感じがする。だから今みたいに冷静な会話ができているのは助かるんだけど、そんなにすぐに立ち直ろうとしなくてもいいとは思うよ。僕には分からない感情だ、でも、つらいことなんだろう?》

「いえ」

 キリコは首を横に振ってから、手の甲の涙をズボンで拭うと立ち上がり、土ぼこりをポンポンと払った。

「な、泣き続けても、なにかに対して失礼な気がしますし。それに、泣いたままなにもしないでいたら、なにもできません。

 私は、誰と話していても幽霊について知らないことばかりでした。西城カズマさんと話していても、森野ユーリさんと話していても、園田シンゴさんと話していても――もちろんジギィさんと話していても。こ、このまま刀を振るい続けていたって、もしかしたら助けられるオバケさんもいるんじゃないかって後悔ばっかりすると思います。それに、ジギィさんの未練を知る手伝いもできそうにありません」

 彼女はジギィの目を見つめた。

「卑屈なのも、自信がないのも、もうイヤです。もうクソバカなのはイヤです。自分の手が届く範囲がどこからどこまでなのか、分かった上で助けられるものを助けたい」

《――そっか》

 彼のほうはキリコの話を聞いて、ただ静かに頷くだけだった。


 しばらくすると、キリコとジギィの立つ公園に、アリス・ミラーギロチンが二人の被害者を米俵みたいに抱えてやってきた(どんな筋肉量をしているのだろうか、キリコは思わず目を疑ってしまった)。そのうしろにはスーツ姿の園田シンゴもついてきている。

「メチャクチャ重かったわよ、この二人。報酬は多めにほしいわね」

 アリスは軽口を叩きながらベンチに彼らを――つまり、ヴェロニカ・ハートの飼い主である長富ハスミと、インチキ霊能系ユーチューバーのアムニージアックさんを横にさせた。どうやら気絶してしまっているらしい。

「女の子のほうは混乱して秩序もなにもないから水平チョップで眠らせたし、羞恥心のないインチキ男のほうはドロップキックでブッ飛ばしたわよ。ま、どうせこのあとシンゴさんが記憶を消すから大丈夫でしょ――アタシもシンゴさんの任務がそういうものだなんてさっき聞いたばっかりだけど」

 アリスがそう言うと、園田シンゴのほうは肩をすくめた。そして眠っている被害者たちのへと近づくと、その顔面の前で、まるで指揮棒のように指をヒュンヒュンと動かした。二人の瞼が一瞬だけ痺れたように痙攣すると、再び眠り始める。

「ジブンの役目は、まあこういうことなんだよキリコくん」

 シンゴは彼女にざっくりと説明した。

「うちらの仕事が表に出てきたら色々と面倒なことになるからね。だから幽霊を叩くときは人間から引き剥がして、監視カメラみたいな、データとして残りそうな記憶媒体は基本的に破壊する。それでもどうしても人に憑りついている幽霊を相手にするときは接近することを免れない、だから、ジブンみたいに隠蔽工作するヤツも必要ってこと。まあ、これは霊能とはちょっと違う話だし(幽霊を見たり戦ったりできる力とは違うしね)興味がなかったら覚えなくていい感じだよ」

「あ、い、いえ、知りたいです。いつか内容だけでも教えてください」

「フゥン。勉強熱心なのはいいことだ」

 シンゴは微笑む。一方、アリスは「アタシには別に教えてくれなくていいわ」と言いながら真紅の指輪をしまった。

「自分自身に扱えない知識なんてあっても仕方ないもの」

「――それも一理あるね」

 シンゴはアリスの言葉をとくに否定せず、次にスマートフォン(グーグルピクセル8)を取り出した。

「今から人間相手の警察に電話して任務を引き継ぐ。それでうちらの仕事は終わりだ。ここ数時間の記憶を被害者から奪ったといっても、部屋は荒れ放題になっちゃったし。『家で物盗りかなにかに襲われて、必死に逃げて倒れてしまったところを親切な人に通報してもらいました。警察は頑張って捜査中です』というカバーストーリーにするしかないな。そのあとのことは生きた人間の領域ってやつ。彼女が複数の男性と飼い犬を喪った過去にどんなケリをつけていきていくかは、もう彼女自身の問題だからね。

 ――うちらのやっていることは人に知られちゃいけない。警察内部でも、霊能者を雇っていることを知っているのは上層部内のごく一部だ。所轄どころか警視庁の捜査官のうちでも知らないヤツのほうが圧倒的に多いんよ。でも、世の中にはそういうタイプの任務ってものがある。闇に紛れて、なにも知らない人々の目を盗んで動いたほうがなにかと都合がいいタイプの物事ってやつがね」

 そんなシンゴの言葉を、キリコは黙って聞いていた。アリスのほうはといえば、そんなキリコの両頬に泣いた跡があるのを一瞥するだけだった。


  ※※※※


 何日か経ったときのこと、萩原キリコがいつものように編集プロダクション『クロノスタシス』オフィスに出社して作業をしていると、午後になったあたりで岩本サクヤがなにか深刻そうな顔をしながら入ってきた。

「死神少女について追加で調べものをしていたら、ちょっと新しく分かりそうなことがあったんです。月岡編集長、田中先輩と萩原先輩、よければ聞いてくれますか?」

 とのことだった。


「まず、ボクの予想では死神少女は単独で行動していません。確実になんらかのチームを組んでいるか、あるいは後ろ盾にしている組織があります」

 サクヤがそう言った瞬間、キリコは思わずむせた。

「ど、どっ、どうしてそう思うんですか?」

「気づきませんでしたか? 萩原先輩なら同じ仮説に辿り着けると感じたんですが」

 彼女はそう答えると、無地のノートを取り出して、そこに細字のボールペンで自分のアイデアを書き始めた。

「最初に、前提となるボクの見立てをおさらいしておきます。『死神少女は幽霊ではなく生きた人間である。だから監視カメラを物理的に破壊した』『死神少女が心霊スポットを回るのは人間を呪うためではなく悪霊を払うためである。これは彼女が出現したあとの不審死率の低下や新海ノボル先生の言葉から判断できる』。以上の二点です。

 しかし、ここで疑問が生じます。第一回の出現時、病院屋上で簡単に新海ノボル先生に見つかってしまうくらい無防備だった彼女は、どうして第二回の出現時、交差点まわりの監視カメラを全て破壊しようとするくらいには周到になっているのか、と。これに対する回答はきわめてシンプル。『誰かが彼女にそう入れ知恵したから』です」

 サクヤの説明に、月岡さんと田中アスカの二人が「ほお~?」と声をあげる。だがキリコのほうは気が気ではなかった。なぜなら、サクヤの推理は今のところ全て当たっているからである。

「さっ、サクヤさん、そ、それはそうとも限らないのでは――?」

 キリコは、だから食い下がった。

「し、死神少女っていう子も病院で人に見られたことを反省して、それから自分の考えで慎重になったのかもですし――」

「たしかに一理あります。しかし今回、ボクなりに心霊関係に詳しい人たちに個人的に調査したところ、面白いことが分かったんですよ。

 霊能系ユーチューバーのアムニージアック、という人がいますよね? 彼にもそれとなくコンタクトしてみたのですが、どうやら彼は、数日前に不思議なトラブルに見舞われていたようなんです。Nさんという女性の心霊相談に乗るために彼女の家に向かったところ、そこから数時間の記憶を二人とも完全になくしてしまった。現場の部屋は荒れ放題でした。興味深いのは、ここまで奇妙な出来事が起きているにもかかわらず、事件後、Nさんという女性はどこかスッキリした表情で相談依頼を打ち切ってきたということです」

 サクヤはそこでいったん説明を打ち切ると、月岡さんと、田中アスカと、萩原キリコの顔をそれぞれ見つめた。

「『死神少女がNさんという女性の心霊相談を裏で解決して、そのあと自分の姿を見た二人の記憶を消して去っていった』と考えられませんか?

 さて、ここで新たな疑問が生じます。誰かの記憶を消せる能力を死神少女が持っているのであれば、なぜ第一回の出現時、新海ノボル先生の記憶は消されなかったのか? そうすればオカルト業界で自分が話題になることもなかったはずです。

 これに対する回答もやはりきわめてシンプル。『死神少女が記憶消去の能力を持っているのではなく、そういう能力を持つ別の誰かと最近になってチームを組んだ。あるいは、そういう誰かが所属している組織を後ろ盾として持つようになったから』です」


 岩本サクヤの推理はところどころに飛躍があるし、なにより物理的な裏どりをほとんど欠いているものの、萩原キリコとしては冷や汗をかくしかなかった。全て大当たり、びっくり大正解というやつだったからである。

 田中アスカのほうは途中からほとんど真剣に聞いていなさそうに見えたが(彼女のほうは幽霊など信じていないので当然だろう)、それでも引っかかるところはあったらしい。静かに手を挙げた。

「サクヤちゃん、でもそれって決めつけっぽくない? まあ今はちょっとこのオカルト話に乗っかった上で言うんだけどさ、Nさんって女性とアムニージアックさんって人のトラブルが死神少女ちゃんとは全然関係ない可能性だってあるわけでしょ? 死神少女とは赤の他人みたいな別の霊能者(笑)が存在したっていいわけじゃん。なんていうか、バラバラの星と星を繋げて綺麗な星座をつくってる感じもしちゃうよねえ」

「はい、そこは田中先輩のおっしゃるとおりなんですけど」

「――けど?」

「しかしボクは直感的にこのアイデアには手ごたえを覚えています。いずれにせよ調査を続けていけば、今回のNさんのようなケースも他に見つかるはずです。死神少女が解決している事件が病院と交差点だけではないのであれば。いや、そもそも彼女が最初に活躍した場所は本当に病院だったのか? 話題になっていないというだけで、それ以前に彼女が現れたこともあるのではないかと。

 まずはこういう可能性を念頭に置きつつ、他の霊能系ユーチューバーともそれとなく接触してみようと思いますね。とりあえず次は、キッドAさんという人にも個人的に取材してみようかなと」

 サクヤはそう言った。

 ――キッドAさん。キッドAさん!?

 キリコはぎょっとした。呪いの一軒家。ジギィ=ジグザグさんと初めて出会って最初にエンゲージした、あの呪いの一軒家に、いっしょに行ったユーチューバーさんだ。サクヤさんがキッドAさんに取材に行く、って、そんなことが起きたらなにがどうなるのか分からなくてキリコは視界がぐるぐるしてきた。

 そのときのことだった。田中アスカが「ああ~サクヤちゃん! あいつのところにはダメだよ、ダメ!」と大声を出す。

「ダメ? どうしてですか?」

「そのユーチューバー、ちょっと前にあたしも取材したことあるんだけど。マジでちょっとセクハラっぽいし、キリコちゃんにも酷いこと言ってて大変だったんだよ! なんかね、呪いの一軒家ってところに三人で行ってみよう~って仕事があったんだけど、キリコちゃんが雰囲気に呑まれて『幽霊がいる!』ってパニックになっちゃったんだよね。そのときのキッドAってやつ、キリコちゃんを演技って決めつけて罵るし、あたしの手を無理やり引っぱって現場から出ていって企画自体がポシャになっちゃったし、もう最悪だよ。サクヤちゃんも関わっちゃダメだからね、マジで」

 田中アスカが険しい顔つきでピシャリとサクヤに忠告すると、サクヤのほうは、少しだけ気圧されて「は、はあい」と頷いたのだが、数秒後、怖いくらいに――まるで頭から背中にかけて電流が走ったかのような表情でキリコのほうを見つめてきた。

「呪いの一軒家に、萩原先輩が?」


  ※※※※


 とはいえ、岩本サクヤのプレゼンはそこでお開きになってしまった。編集長兼経営者の月岡さんが「まあ、エンタメ的に面白いのはサクヤちゃんの仮説だね!」と編集方針を決めてしまったからである。田中アスカも本気で討論したいわけではなかったし、萩原キリコのほうは早くこんな話から逃げたかったので、当然の成り行きではあったのだ。

「これからも引き続き色々調べてみてよ! それに、たとえ死神少女ちゃんと関係なくてもNさんって女の子とアムニージアックって人の話題はネタになりそうだし。そこは名前を伏せた上で当人たちに許可をもらったテイで記事に起こしてみて。俺がちゃんと文章チェックして楽しい感じに仕上げておくからさ!」

「! はい! ありがとうございます!」

 サクヤのほうはそんな感じで、朗らかな笑顔を浮かべながら通常業務に戻っていった。キリコとしては、定時になった瞬間そそくさと帰るしかない。サクヤさんは決して悪い人ではない、というか仕事熱心で良い人なんだけれど、そのせいで話を聞いているとどんどん自分が追い詰められていくような感じがする。

 どうすればいいんだろう。

 となりを歩くジギィ=ジグザグは、思い出したかのように声をかけてきた。

《もしかして、ちょっとピンチだと思ってる?》

「え、えあ、はい」

《たぶん大丈夫さ。そういえば園田シンゴさんという人には、他人の記憶を消す技みたいなものがあるんだろ? なら、たとえサクヤって女の子がキリコさんの正体みたいなものに辿り着いたとしても、相談すれば記憶をそっくりなくしてくれるはず。いずれにせよ、彼女が依拠しているのは「実は幽霊がいる」「実は霊能者がいる」というようなもので、これは霊能課の人間以外にはほとんど荒唐無稽な絵空事としか信じられていないって話を聞いたばかりじゃないのかい。堂々と構えていればいいさ。たとえサクヤって女の子がどうにかしようと思ったところで、証拠がなければどうにもできないしさ》

「そ、そういうものでしょうか?」

《きっとね。――これについては僕を信じてほしい。もしもそんなに簡単に幽霊や霊能者の存在を突き止められるなら、僕は1000年も孤独に生きていない》

「あっ、っ、――」

 キリコは立ち止まった。そうだった、自分は自分の正体が誰かに知られてしまうことだけを怖れていた。とはいえ、それは傲慢な感情だったのかもしれない。目の前には、誰かに知られたくて見られたくて仕方がないのにずっとさまよっていた男の人だっている。そういうことをキリコは改めて感じた。

(そうだ、私、ジギィさんの未練がなんなのかちゃんと調べようとしたことない。自分がやりたいことばっかりだ――!)

 彼女のそんな表情に気づいたのか、ジギィのほうはにっこりと微笑んだ。

《気にする必要はあんまりないかな。僕がそれでいいって言ってるんだし、それに僕自身は今のキリコさんがやりたいことを応援する気持ちのほうが大きいからね? 前にも言ったかもしれないけど、キリコさんは僕とは全然違う人間だ。だから、キミのやりたいことに付き合うことで僕は僕のためのヒントを見つけられるかもしれない。それだけだよ》

「は、はい」

 帰り道、二人がそんな風に言葉を交わしているときのことであった。

 キリコのスマートフォン(アイフォンSE第二世代)が震え出した。慌てて画面を見てみると、そこには、

『小宮サンシロウ』

 という名前が記されていた。誰? もちろんキリコはその名前がなんなのか知っている。いつだったか森野ユーリが教えてくれた、警視庁刑事部霊能課三係のリーダー、そして西城カズマの実兄、小宮サンシロウであった。

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