第05話 アリス・ミラーギロチン その3


  ※※※※


 そうして萩原キリコとアリス・ミラーギロチンが軽めの夕食を終えて、車のなかで交互に仮眠を取りながら待っていると、とうとう本命の対象が訪れた。今回の被害者である長富ハスミが自宅に呼んでいる、霊能系ユーチューバーの「アムニージアック」さんである。彼はどうやら、かつてキリコが知り合ったことのあるユーチューバー「キッドA」さんのライバルであるらしい。そして、単に廃墟や心霊スポットを訪れたり視聴者からの心霊お便りを読み上げてコメントするだけの「キッドA」さんとは違って、彼のほうはきちんと心霊系の悩みを抱えている人に現実でコンタクトすることを売りにしているようだった。

 それはなにを意味しているか? 当然、オフパコ狙いのクソ野郎ということである。言い換えれば長富ハスミはそんなことも分からないほど追い詰められているのだ。

「出たわね、インチキマン!」

 とアリスは言いながら、シーチキンマヨネーズのおにぎりを四個と、カツカレーパンを三個を頬張ったあとに爽健美茶500mlを二本ゴクゴクと飲み干した(ちなみに、そのあいだキリコが食べたものといえばタマゴツナサンドイッチふたつとミネラルウォーター250mlだけである。なお、コンビニのトイレにはアリスだけが二回ほど出かけた)。

「いざ出陣よ!? キリコ!」

 アリスはそう言うと静かに車のドアを開け、対象のマンションを眺めた。マンションとは言っても、どうやらもともとある広い二世帯住宅の建て付けを二分割して、一階を101号室にして、二階を102号室にしているような住宅である。そして、長富ハスミが住んでいるのは二階の102号室であった。

「うーん、まずは玄関ロックをどうやって開けて侵入するかが問題よね!」

 アリスがそう言うので、うしろからついてきたキリコは首を横に振った。

「大丈夫です、アリスさん」

「――は? 大丈夫?」

「ドアを開けられないということですよね? それはつまり、私たちにとってこの建物の窓と扉が『壁』になってしまっているということです。だったらきっと問題ありません。私とジギィさんの力は、ただ『壁を無視するだけの能力』ですから」

 とキリコは言って、漆黒の指輪を、ピーン、と指ではじいて空中に飛ばす。そして自分の薬指にはめた。指輪の内側には細やかなラテン語でこんな風に刻まれている。

「In manus tuas commendo spiritum meum.(私の魂は、あなたの手のなかに)」

 と。

「ジギィさん」

 彼女はそう呼びかけた。

《なんだい?》

「わ、私は自信を持ちたい。自分のことを好きになりたい。だから、自分の手で助けられる人のことはみんな助けたいです。――力を貸してください」

《もちろんさ。キミは僕のお嫁さんだからね?》

 ジギィは微笑んだ。

「エンゲージ!」

 それが合図であった。

 エンゲージとともに激しい黒光が彼女を包み込む。彼女の全身を、ゴシック風の真っ黒なドレスが包み込んでいた。爪も、唇も、死化粧のような黒一色。ジギィ=ジグザグはその場から消え去っていた。彼がいなくなった代わりに、キリコの左手には、黒艶の鞘に包まれた真剣の日本刀が握られていた。

 そんな彼女を見たアリスは、「えあ、ハア!?」と大声を出していた。

「待ちなさい萩原キリコ! あなただけが能力を使って建物のなかに入れるとして、そのあとのアタシとの連携はどうするの!? 敵の力はまだ未知数なのよ! 少なくともアタシを家のなかに入れるまでは突撃するのはよしなさい!」


 しかし萩原キリコは、アリス・ミラーギロチンの忠告を無視して能力を発動した。ただ壁を無視するだけの能力。まばたきもしないうちに、彼女はアリスの視界から消えて、建物のなかへと侵入していた。マンションの二階(102号室)に繋がる道は、玄関ドアを開けたあと細い階段一本だけ。彼女はそれを駆け上がっていく。

「ああもうバカ!」

 とアリスは怒鳴った。

「内側から扉のロックを外してくれてもいいじゃないの! 気が利かないわねえ!」

 それから彼女は首にかけていたネックレスを外すと、そこにある真紅の指輪に一度だけキスをしてから人差し指にはめた。契約霊、ゴーシェ=ゴーシェとの契約である。エンゲージのレベルは『人情』。義理、人情、友愛、恋性、冥婚という五つの標準的なエンゲージレベルで言えば下から二番目である。

「フン! アタシとゴーシェの力をもってすれば、エンゲージのレベルなんて『人情』程度で充分!(つーかこれが限界!)」

 指輪の内側には細やかなラテン語でこんな風に刻まれている。

「diriges proximum tuum sicut te ipsum.(あなたの隣にいる人を、あなた自身のように愛すべきだわ!)」

 と。

「行くわよ、ゴーシェ!」

《うん、わかった。アリスてゃ!》

「エンゲージよ!」

 それが合図であった。

 エンゲージとともに激しく朱い光が彼女を包み込む。彼女の全身を、ロマネスク調の真紅なタキシードが包み込んでいた。爪も、唇も、まるでカーニバルのような赤一色。ゴーシェ=ゴーシェはその場から消え去っていた。彼女がいなくなった代わりに、アリスの左手には白紙のトランプカードの束が握られていたのだ。

「アタシとゴーシェの能力は《身を護るだけの能力》。トランプカードを頂点とした四角形のバリアを張ることで絶対無敵の防御にする!」

 アリスはそう言うと、すぐに自分の近くにカード四枚を水平方向へ撒き散らす。それらはすぐにビーム状のバリアになって、彼女のための足場になった。アリスがさらにカードを投げ続けていくと、それらは上階に昇るための階段のようになっていく。これが、《身を護るだけの能力》である。

「重力っていうのは、アタシたちを地面に縛りつけるための《攻撃》でしょ? だからそこから身を守るために、アタシはゴーシェのつくる盾をそのまま地面の代わりにして、床の代わりにして、そして階段にして駆け上がっていくことができるってわけ! 能力の重要性はその強さじゃない、応用可能性の大きさってことなのよ!

 要はアタマの出来がどうかってわけね! アハハハハ!」

 そうして、アリスはバリアの階段を堂々と足で踏みながら空中を昇っていった。そのまま二階の高度まで辿り着いたあと、鍵のかかっていない窓を見つける。ここから侵入すれば萩原キリコよりも先に敵地に侵入できるかもしれない! そう思いながら彼女はガラス戸を開けて寝室内に侵入した。

 そこには既に萩原キリコがいた。

 いや、それだけではななかった。悪霊に襲われそうになっている今回の被害者、長富ハスミもいたし、インチキ霊能系ユーチューバーのアムニージアックさんも腰を抜かしてフローリングの床に転げ回っていたのだ。そうして彼らの視線の先には、ただ、体長が五メートルを超えるような狂犬が佇んでいた。犬種としてはシベリアンハスキー系統に近いように見えるがあまりに大きすぎるだろうと、アリスは感じる。言ってしまえば、それが今回の討伐すべき悪霊の姿というわけであった。

 その名前はヴェロニカ・ハート(通称ヴェロくん)。

 長富ハスミが子どもの頃から飼っていた犬で、今は、ハスミに近づこうとする男を見境なく襲うか呪うかして殺す地獄の番犬になっていたのだ。


  ※※※※


 犬――!? 犬の幽霊ってどういうこと!?

 アリスとキリコはそのまま硬直してしまう。二人はてっきり、長富ハスミにDVを働いたあと謎の不審死を遂げた男が悪霊になって彼女に付きまとっているものだとばかり思い込んでいたのだ。だが実際は違う。

 ヴェロニカ・ハート(通称ヴェロくん)は、長富ハスミが十二歳のときに両親に買ってもらった愛犬である。彼女が中学受験に成功してそれなりの私立中高一貫校に進学したことのお祝いで、プレゼントして飼うことを許された子だった。もちろん、きちんと世話をすることをその条件としてである。そこにはおそらく、高齢ゆえの不妊によって長富ハスミに下の子をつくってやれない両親なりの思いもあったのだろう。それはともかく、ハスミはこの犬にヴェロニカ・ハートという名前をつけてよく可愛がり、散歩に連れ出し、餌とトイレの躾けもこなし続けてきた。

 ハスミが独り暮らしを決めるときにも、ペット可の条件でマンションを探したのはそれが理由である。彼と、いつまでもいっしょにいると思った、それだけだった。

 問題はハスミに彼氏ができてからのことである。そのDVクソ野郎は平気で彼女の住居に居座り、彼女に肉体的な暴力と性的虐待を続けた。ヴェロニカ・ハートは吠え、牙を剥き出しにしてクソ野郎の足もとに噛みついた。そして、彼に蹴り飛ばされたあげく近くにあった木製の椅子で頭をカチ割られてしまうと、獣医による懸命の治療も虚しく死亡。――ヴェロニカ・ハートはそのときの未練を引きずったまま幽霊になった。考えるべきことはただひとつである。《ボクがハスミちゃんを守るんだ、ボクがハスミちゃんを守るんだ、ボクがハスミちゃんを守るんだ》。

 DVクソ野郎は間もなく、ヴェロニカ・ハートの呪いにより不審死を遂げた。だが問題はここからである。犬はただ、自分の愛する飼い主に近づいてくる男たちが彼女を傷つけるかどうかの判断などできない。だから手当たり次第に呪い、殺し続けた。返り血にまみれて臓物のニオイが鼻をつくようになった。そして男たちの魂を喰らいながら成長し、身体を肥え太らせて大きくしていくたびごとに、自分がなにを守ろうとしているのか忘れようとしつつあったのである。

 つまらない話だろう? それがこの事件の真相だった。

 キリコとアリスも、その事実を次第に察しつつあった。長富ハスミの部屋、そのタンスの上に飾られている写真立てには、今でも幼いころの彼女とヴェロニカ・ハートがツーショットで並んでいる美しいフォトグラフがあったからである。その写真立ての枠には、長富ハスミが小さい頃に書いたであろう、まだ稚拙さの残る文字でこう書かれていたのだ。

『ずっとずっとだいすきだよ! ヴェロくん!』

 それを見たアリスは思わず息を呑んだ。自分たちがどういう命を再殺しなければならないか瞬時に理解したからである。それだけではない。部屋中に置かれている犬のぬいぐるみたちが、ハスミの、ヴェロニカ・ハートへの思いの強さを物語っていた。

「ずいぶん話が違うじゃないのよ、これ――!」

 アリス・ミラーギロチンがそう感じるのも無理はない。同じ思いは、今この瞬間、萩原キリコのほうも抱えていた。

 彼女の構える日本刀は、ガタガタと震えたまま斬るべき相手に振るうことができないままでいたのだから。


 ヴェロニカ・ハートの亡霊は、部屋に侵入してきた二人の霊能者に向かって猛獣の吠え声を上げた。

《ガ、ガア、アアアアアアアア――!(ボクのハスミちゃんをいじめるな!)》

「!」

 ヴェロニカが爪を振るうと、部屋中の家具と食器がバラバラに崩れていく。それはこの犬を見ることができない長富ハスミと霊能系ユーチューバーのアムニージアックさんにとっては、ただのポルターガイスト現象にしか見えないだろう。二人は頭を抱えて、ヒアアアア、と悲鳴を上げるばかりである。

「アリスさん!」

 とキリコは怒鳴った。

「こ、この幽霊は私ひとりで相手をします! アリスさんは、部屋の二人を安全なところに逃がしてください!」

「キリコ! バカ! あんた独りだけでこの獣と戦う気なの!?」

「お願いします!!」

 キリコの叫び声にアリスは少し気圧されたあと舌打ちし、「どうなっても知らないからね本当にもう――!」と愚痴ってから、長富ハスミとアムニージアックさん、二人の腕を掴んで窓の外に出た。長富ハスミは完全なパニック状態になり、「わああああ! もういやああああ!」と、ただ悲鳴を上げているだけである。アムニージアックさんのほうはキリコのほうを眺めて、「あれ! あれアングラで話題の死神少女だろ!? ウソだろ――マジでいるのかよそんなもん!?」と声を張り上げていた。これだから緊張感のない男は困るわね、マジクソしょうもない、とアリスは力を強くする。

「ガタガタ言わないでさっさとついてきて避難しなさいな! あとね、こっちはいちおう秘密主義でやってるんだから、このこと周りの誰かに言ったらブチ殺すわよバカタレ!」

「ひいっ! はっ、はい!」

 こうしてアリスは二人を連れて、自分の《身を護るだけの能力》で用意しておいた外付けのバリア階段を使って外へと逃げていった。カンカンカンカン――という、アリスのヒールが遠ざかっていく音だけが聞こえ、そして消えていった。とりあえず保護すべき人たちの身の安全は確保できた、ということは分かる。

 だから、いま部屋のなかに残されているのはヴェロニカとキリコだけである。キリコは改めて日本刀を構え直した。

《ガウ、ア、アアアア――?(よくもボクのハスミちゃんを誘拐したなァ?)》

「あ、あなたの名前、ヴェロくんって言うんですね? ねえヴェロくん、もうこんなことはやめましょう? ハスミさんは、人殺しなんて望んでいません」

《アアアアアアアア!(お前が勝手にボクのハスミちゃんを代弁するなァ!)》

 ヴェロニカ・ハートはすぐに腕を振るい、萩原キリコを殴りつけた。

「がっ! あ、あっ!」

 キリコは部屋の壁に打ちつけられる。そこで、タンスにかけられている写真立てが床に落ちてガラスが割れ、他に壁にかかっている写真も次々と崩れていった。そのほとんどが長富ハスミとヴェロニカ・ハートのツーショットである。キリコがこれから斬り伏せなければならない幽霊の、犬の、その生前の面影であった。

 彼女はそのなかのひとつを手に取り、目の前の悪霊へと突きつける。

「これ! こ、これがなんだか分かりますか! あなたです! あなたのことですよ、ヴェロくん! ――ね、すごい幸せそうに笑ってますよね? ね! 飼い主のハスミさんのことが大好きなんですよね? だからこんなことしちゃったんだ!

 こんなことして、彼女が喜ぶわけないってどうして分からないんですか! よ、世の中に酷いことをする男の人はいっぱいいるってアリスさんも言ってました。でも全員が全員そうなんて考えは絶対に間違ってます! ヴェロくん! 飼い主の幸せを今でも一ミリでも思い出せるなら、こんなことはやめてください!」


  ※※※※


 もちろんこんな説得にはなんの意味もない。それはキリコ自身が今までの戦いのなかで学んできたことからして、よく分かっていることだった。悪霊に改心はありえない。いちど闇に堕ちた魂はどこまでも生者を呪い続けて殺していくしかない。だから、それについての対処法はたったひとつしかないのである。再殺。再殺。再殺。いちど死んだ霊魂を、残穢を引きずりながらこの世界にさ迷い続ける存在を、もういちど殺すことなのだ。そんなことはキリコはとっくに分かっていたはずである。分かっているはずなのに、体が言うことをきかなくなっていた。

 ある種の人間は、人間よりも犬や猫に同情しやすいという。その理由については《僕》は知るよしもないが、もしかしたら、人間社会の犠牲になるしかない命について思うところがあるということなのかもしれない。

 ヴェロニカはキリコの手から写真立てをゆっくり受け取り、そして、

 床に落として、バリバリと荒音を立てながら踏みにじった。

《ウウ? ウウウウ(なんだこれ? こんなもの知らない)》

 その光景を見たキリコの神経は、ようやく、プッツンとキレた。

 彼女はすぐにヴェロニカ・ハートに飛びかかったあと、即座にジギィの《壁を無視するだけの能力》を発動させる。ヴン、という音を鳴らし、彼女と巨大犬はマンションの外に出て近くにある地味な公園へと辿り着いていた。家の壁のそとにある公共空間。遊具もなにも存在しない。ただベンチと水飲み場があるだけの、サラリーマンたちがときどきタバコを吸ってポイ捨てするだけのような狭い空き地である。ヴェロニカが着地すると、キリコも砂場のほうに両足をついて立っていた。

「思い出せッ! バカ野郎ッ!」

《ガアアアアッ! ウアアアアッ!(さっさとハスミちゃんを返せッ!)》

「ッ! ――だったら、だったら斬ります! 私があなたを斬りますッ!」

 ここにきてようやく、萩原キリコは刀を本気で構えることができた。刀をゆっくりと鞘のなかにしまうと腰を下ろして、居合斬りのポーズをキメる。壁を無視するだけの能力。彼女の居合斬りはあらゆる防御と壁を貫通して、自分が斬りたいものだけを無尽蔵に斬ることができるのだ。たとえ途中になにがあったとしても、それらの障碍を『弾いて、貫いて、切断する』という『攻防の過程』そのものを『吹き飛ばす』ことができる。それがジギィ=ジグザグから与えられた萩原キリコの力である。

 数秒後、ヴェロニカの視界から萩原キリコの姿が消えた。実際には、とっくに彼女はヴェロニカの背後まで瞬間的に移動しながら刀を抜いていたのである。

 ヴェロニカは首を後ろに回そうとして身体をひねった。だがその途端、全身から血が噴き出していく。キリコが『壁』を無視して瞬間移動の居合斬りをしたとき、与えた斬撃は五十以上。その全てが彼の身体を引き裂き、骨を砕き、脳髄を潰して、公園の地面と電灯に満遍なくブチ撒けさせていた。ビチャビチャビチャビチャビチャと、音を立てて鮮血と内臓がその場にカラフルな模様を形づくった。

《アアアア、アアアア――!》

 地獄の底から聞こえてくるような断末魔がキリコの耳を貫いた。

 キリコは刀を鞘のなかにしまったあと、じわじわと瞼を開けた。そのときにはもう、この場所に幽霊はいなくなっていた。ただ返り血にまみれた彼女の手に、漆黒の日本刀が握られているままだった。

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