第05話 アリス・ミラーギロチン その1
※※※※
さて、萩原キリコはこういう活動によって新たな収入を得ることになってしまった。
キリコは道明寺テルを斬り伏せたあと、薬指の指輪をゆっくりと外していった。その瞬間にゴシック風の衣装もネイルもメイクも全て消えていき、普段の地味なTシャツとジーンズに、化粧気のない容姿に戻っていく。それと同じくして、森野ユーリが弓矢を携えながら彼女のもとに帰ってきた。彼のほうも両手の親指にはめられた指輪を外すと、元のカジュアルファッションになっている。
「ぼくの矢に釣られていたヘドロの子どもたちは、不思議なことにみんな姿を消してしまいました。キリコ氏、あなたがやったのでしょうか」
「えっ、えあ、は、はいっ」
キリコはすぐに頷いたあとで、道明寺テルの盾になっていたヘドロの子どもたちのほうを振り返った。彼らは少しずつ凶悪さを失い、シワシワと、勢いをなくして元々ある一個一個の魂へと還っていくかのようであった。
《あれえ? もう痛くないよ?》《もう熱いのは終わり? おねえちゃん?》
《死神のおねえちゃん、ありがと! ありがと!》《ほんとうにありがと!》
そんなヘドロの群れにキリコは近寄ると、ただ、黙ってその場に跪いて彼らのことをゆっくりと抱きしめていた。
《おねえちゃん、どうしたのお?》《なんでないてるのお?》
「うん、ごめんね、なんでもない。なんでもないよ、大丈夫」
キリコは子どもたちからゆっくりと身体を離した。その洋服は、とっくにドロで汚れてしまっている。しかし彼女は気にしない。見た目が汚れてしまうことよりも、心が穢れてしまうことのほうがよほど罪深いということを知っているからだ。もしも美しさというものが正義になるのだとすれば、それは精神の問題でしかないからである。
《ぼくたち、おうちにかえれるの?》《おかあさんのいえにいけるの?》
そんな風にはしゃいでいるヘドロたちを前にして、ただキリコは頷く。
「うん、行けるよ。大丈夫だからね」
キリコがそんな風に微笑むと、ヘドロたちは《やったー!》と騒いで、児童館を出て庭を抜けた先にある門戸へとズルズル音を立てながら駆けていく。そうして、門の敷地外に出た瞬間にヘドロ状の子どもたちは光の粒子のようにサラサラと消えていた。彼らがどこに行ったのかは分からない。ただ、地獄ではないことだけを願うばかりだった。
児童館を襲った最悪の惨劇と、その悪霊による事件がやっと終わった。
キリコが両方の瞳から頬へ涙が流れていくのを手の指で拭っている間、ユーリのほうはなにも言わなかった。しかし、彼女が三分間ほど経って落ち着いてくると、彼は軽く咳払いしてからその肩を叩いてきた。それは、もう感傷に浸ってこの場に留まっている場合ではありませんよ、とでも言うかのようであった。
「キリコ氏」
「――はい」
「悪霊には酷く物哀しい事情を抱えている存在もいます。それは、今まであなたが倒してきた幽霊のなかにも少なからずいたはず。DVの犠牲になった女性、難病に斃れた男の子、不慮の事故で命を絶たれた気のいい青年。そんなもの全てにあなたは同情して毎回のように涙を流す気でいるんじゃないでしょうね」
「――え?」
キリコはユーリのほうに目を向けた。ユーリはといえば、少しだけ険しい表情だった。
「ぼくたちが霊能者として正義の味方を気取れているのは、単に彼らよりも人生が恵まれているからだ。悪党どもに対して偉そうな説教ができるのは、説教できるくらいに豊かな環境で存在していられたというだけのことです。基本的には、それを忘れないでくださいね。でないと本当に同情すべき悪霊と出会ったとき心が壊れてしまいますから」
ユーリはそう言った。
こうして萩原キリコは自宅に帰ったのだが、その際に、森野ユーリから「今回の報酬はすぐに書類へ記載の口座に振り込まれますから、忘れないうちに確認しておいてください」と伝えられた。
「え、え?」
「もちろんこれは仕事ですので。悪霊一体を討伐するごとに平均100万円は入りますよ」
「ええええええええ!?」
キリコは思わず大声を上げてしまった、が、とくにユーリのほうは動じる様子はない。
「当たり前ですよ? もちろん財源は政府経由の国税というやつです。国会の予算会議等ではそういう話が出ることはありませんけどね。建前的には、野党やマスコミがあまり突っ込まないところの金だというテイを装うんです。そうやって額面の帳尻を合わせているところはたしかにあります」
「そそ、そうなんですか」
「誰かの役に立つということが無償のものであっていいわけがありません。理由はふたつあります。もし人助けが見返りのないものになってしまった場合、今後、赤の他人を助ける人間は金に不自由しない裕福なボンクラばかりになります。もうひとつ、お金目当てではない余計な信念の持ち主ばかりが参入しているような組織というものは最終的には必ず歪み、そして破綻します。キリコ氏は、これまでの活動でも今回の仕事でも人の役に立つことをしていたわけですし。そうならば、正当な対価はきちんと得ておくべきだ。それはそうだとは思いませんか――?」
「はっ、は、はい」
「そういうわけで、ではまあ、口座への振り込みを確認したら連絡をください」
ユーリはそこまで話し終えると、カルト=キャルチュールとデルタ=デジィールを連れて去っていった。
キリコは、ただ、はぁ~~とため息をついた。ジギィ=ジグザグはそのとなりでゆったりと腕を組んでいる。
《なにやらキリコさんに新しい仕事が見つかったみたいだね?》
「す、すみません。私が勝手なことばっかりして」
《いいや、僕は怒っているわけじゃない。もちろん基本的には危険を伴う業務であることには変わりないらしいし、心配材料のほうが多いと言えば多いんだけど、基本的には嬉しいことだとは思ってるかな。幽霊について知る機会が増えれば増えるほど僕が自分の未練を思い出せるチャンスも広がるだろうし、そういう損得勘定を抜きにしても、キリコさんが自分のやりがいを見つけられることは嬉しいと思ってる。
キリコさんが自分自身で言っていたじゃないか? 赤の他人を助けることを通じて、助け合いで成り立っているこの世界に貢献して、自分のことを好きになりたいんだってね。そういうことなら僕は賛成できるかな》
「ジギィさん――」
《うん、そうか、やはりそうだね》
ジギィは独りでうんうんと頷いたあとで、不意に、ぐいっと顔をキリコに近づけた。
「えっ、え――?」
キリコが戸惑っていると、ジギィのほうはにっこりと笑った。
《僕はキリコさんと『冥婚』のエンゲージを交わしたとき、あくまでキミの強すぎる能力に期待をしていただけだった。キミの価値観は興味深いと感じたけれど、それでもあくまで僕の感情は自分を中心にした知的好奇心に近いものだったよ。でも今はなんだか違う気持ちも僕のなかにはあるみたいだ。
萩原キリコさん、僕がいつからこんなふうになったのかは分からない。もしかしたらキミの振る舞いのどこかに僕の失われた記憶を刺激させるものがあったのか、それについてはまだよく分からないけれど、今はなにか強く惹かれているのはたしかだよ。
平たく言うと、僕はキミのことをずいぶん好きになってしまったということだ》
※※※※
萩原キリコは自宅に帰ると、まだ一階のリビング+ダイニングに明かりがついていることに気づいた。いったい誰が起きているのだろうか、と思う。スマートフォンの画面で時刻を確認したが、悪霊討伐に時間がかかったせいでだいぶ遅くなっている。夜の01:30。この時間帯ならお母さんはとっくに眠っているはず。もしかしたら妹のユイカかもしれないなと感じたが、そういう場合の彼女は二階の自室で友だちと通話しているか流行りのお笑い番組を見て時間を潰しているのが普段の行動だった。つまり、おそらくはお父さんが久しぶりに自宅に帰ってきているのだ。
彼女が靴を脱いで部屋のドアを開けると、そこには父の萩原ツトムがテーブルについて静かに日本酒を呑んでいる。ネクタイを軽くほどいたYシャツ姿、普段はオールバックにしている黒髪を下ろしていた。四十八歳になっているが、日ごろのトレーニングで身体は引き締まったままだ。いわゆる「イケオジ」の部類に入るのだろうし、高校時代にクラスメイトからそういう陰口を叩かれたこともあるが、肉親としてはあまり実感がない。自分の父親を普通はカッコいいとかカッコ悪いとかいう尺度では測らないのだ。
「やあ、キリコか? おかえり?」
「えっ、た、ただいま帰りました。お父さんもおかえりなさい」
「はは」
ツトムは微笑みながら、御猪口を唇に運んだ。「たしかにどっちが『ただいま』で『おかえり』なのか、こういうときは悩んでしまうな。このごろは海外との商談で長いこと家を空けていた。すまなかった」
彼はそう言うと、キリコのほうを愛おしげに見つめた。
「少し帰りが遅かったみたいだが、仕事が充実しているのかな? それともボーイフレンドでもできたかな?」
「え、あ、ぼ、ぼ」
キリコは思わず顔を真っ赤にしながら後ずさった。そうして、隣に立ってるジギィ=ジグザグの表情を伺う。彼はなにひとつ動じていないようだったが、彼女としては、先ほど言われた《好き》という言葉がまだ頭のなかにガンガン響いていた。ジギィさんがどういう意味でそれを言ったのか分からない。でも、なんだか恥ずかしいのは事実だ。
「あ、ああ、ええっと仕事です! ちょっと色々ありました!
新しい業務というか、し、しし、新人との付き合いとかで!」
「――そう」
ツトムは娘のキリコの誤魔化しに対して、気づいていないのか、それともわざと気づかないフリをしてくれているのかはよく分からないが、とにかく愉快げに御猪口へと新しく酒を注ぎ始めた。
「キリコには負担ばかりかけてきて済まなかったと思ってるんだ。オレが親父の代から会社を継いだからといって、キリコもそうしたいとは限らないなんて当たり前なのにな。だからキリコには、これからは自由に自分の夢のために生きてほしいよ。もしも今の仕事が上手い具合にいっているなら、そうだな、こんなに嬉しいことはないさ」
ツトムはそう言いながら、おそらくは妻のハヅキが用意していたらしい刺身の盛り合わせを口に運んだ。キリコはそんな父親の姿を見ながら、ただぎゅっと拳を握りしめる。父親の期待に応えられず見放された自分の不甲斐なさに? あるいは、こんな風に不意に解放されておきながら自分自身の目標もなにもない現状に?
それについては、まだなにも分からないままだ。
翌日、キリコが編集プロダクション『クロノスタシス』に行くと、編集長の月岡さんと新人の岩本サクヤが楽しそうに話している。おお、と思って近づくと、月岡さんのほうが先に気づいて「おっ、キリコちゃん! 今日もよろしく」と手を振った。
「ねえキリコちゃん、サクヤちゃんヤバいよお!? 彼女さあ、病院にいた死神少女の正体についてなかなかネタになる考察をしてるんだ!!」
「そ、そうなんですね――」
キリコはそう頷いてから隣のジギィをチラリと一瞥したが、彼のほうは苦笑しながら首を横に振るだけだった。
岩本サクヤは手もとにあるレポート用紙をめくりながら話し始めた。
「ボクのオカルト知識をもとに類推する限りですが、件の『死神ゴスロリ美少女』は幽霊の類ではなく、生きた人間が霊能を使っていると思われます」
「えっ!?」
キリコが声を上げると、サクヤは得意げにフフンと笑う。
「キリコ先輩、この前いっしょに病院に取材に行きましたよね? あのとき目撃者の新海ノボル先生は死神少女のことを『どこかで見たことがある』と言いました。毎日のようにレントゲンや心電図やエコーと睨み合っている専門職が見間違いをしているとは思えない。であれば死神少女は実際に彼の知り合いなんです。これは死神少女が病院の屋上に平気で上がれたことと合致しています。そしてボクが入手した監視カメラの画像では、(表情はよく見えませんが)彼女は背格好からして未成年の少女。ということは、病院にいる看護師や女医やスタッフではなく新海ノボル先生の患者である可能性が高い!」
サクヤはキリコに顔を近づけた。
「どう思いますか、キリコ先輩!」
「え、えっと、そ、その――!?」
「そして彼女は幽霊ではない。噂の交差点にこのゴスロリ美少女が出現したあと、恐ろしいほどに不慮の交通事故が減っているんですよ。つまり彼女は、人間を呪い殺そうとする悪霊の類ではない。むしろその逆、悪いオバケどもを退治して人間の社会に平和をもたらす正義のヒーローというわけですよ!
交差点の事件では公共交通の監視カメラが破壊されていましたが、私有地のカメラが彼女を捉えることに成功しました。これはなにを意味すると思いますか。生きた人間だから撮影されることを怖れてたんです! もしも悪霊の力だったら、自分を映そうとする機械なんて呪いとかでぜんぶ壊せるかそもそも映らないかのどちらか。
このゴーストヒーローは肉眼と肉体で動いているということです」
サクヤはそこまで言うと、自信満々に腕を組んだ。
キリコはただ、うろたえながら彼女に問いかける。
「え、あ、もし死神少女が生きた人間であるとして、
――その人が新海ノボル先生の患者である可能性は?」
キリコにそう問われると、うーむ、という感じでサクヤは自分のあごを撫でた。
「10パーセント――いや5パーセントですかね? でも今まではなんの手がかりもなかったと聞いてますよ? 1パーセントも可能性があるならとことん調べるべきです」
たったそれだけの確率!? それだけでサクヤさんは死神少女に(要するに私に)辿り着こうとしてる!?
慄くキリコをよそに、サクヤは楽しげにしていた。
「月岡編集長! 記事は面白い感じで書きますので、のちほどご確認くださいね! ボクは毎日の業務をこなしながら、空いた時間で、引き続きこの病院死神ゴスロリ美少女のことを追跡してみせますよ!」
※※※※
さて数日後、萩原キリコは実際にコンビニのATMで口座残高を見て、預金が115万円プラスされているのを確認していた。幽霊再殺の任務報酬というわけだ。
「あ、うあ、ああっ、え、うお――?」
キリコが奇声を上げると、隣のジギィ=ジグザグはずいぶんおかしそうに笑った。
《すごい大金なんじゃないの? これ。なにに使えばいいか困っちゃいそうだね?》
「そ、そんな! 他人事だと思って!」
《他人事じゃないよ、お嫁さんのことだからね。有意義なことに費やしてもいいし、今まで頑張ってきたことへのご褒美でパーッと散財しちゃってもいいと思うよ。キリコさんが自分の努力で稼いだお金なんだから、自分のために使うといい。僕としてはキミが美味しいものを食べているところを見たいな》
そんな風にジギィの話を聞きながら、キリコは、むう、という表情になっていた。
「で、でも、今まで自分のためにお金なんか使ったことなんかないので、正直、よく分からないですよ。色んな本を買って勉強してきたのも、お父さんの期待に応えるためだったり編集事務の仕事をこなすためだったりだったんです。だ、だから、急に好きなようにお金を使えなんて言われたって――その」
分からない、そうキリコが言葉を続けようとしたときのことであった。
彼女のすぐ後ろから女の高笑いが聞こえてきた。
「アーッハッハッハッハァッ!」
そういうテンションであった。
「せっかく大金が手に入ったのに使い道が見つからないですってェ!? 読んで字のごとく宝の持ち腐れとはまさにこのことだと言うべきだわ!! お金ってちゃんと使わないことには経済を回すこともできないのよ!? 優れた能力と努力によって資産を得た人間にはそれを循環させる社会的な義務があるのではなくってェ!?」
「へ、え、ええ?」
キリコは思わず振り返った。
そこには、髪を赤色に染めた女がレザージャケットにブランドもののスカート、そしてミリタリーブーツを履き、威風堂々という雰囲気で立っていた。その隣には、地雷系のファッションを身に纏った平成レトロ風の幽霊が浮かんでいる。
幽霊の名前はゴーシェ=ゴーシェ。そしてそんな契約霊を連れて立っている女の名前はアリス・ミラーギロチンであった。化粧品・薬品を取り扱う外資系企業『ラピスラズリ・オルゴーリェンヌ』の代表取締役社長であるタケクニ・ミラーギロチンの一人娘である。ちなみに言うと、それは萩原キリコの実の父親、萩原ツトムが社長を務める萩原製薬株式会社のライバル企業でもあった。
「ふっふっふっ!」
とアリス・ミラーギロチンは笑った。
美人の笑い声は圧が強くて怖い、とキリコは思う。
「さっそく宿命のライバルと巡り会えるなんて僥倖もいいところね! 改めて名乗っておきましょうか! アタシの名前はアリス・ミラーギロチン! 今日から霊能者として悪霊の首をバッサバッサ斬り落とす期待の新人なの! このアタシが東京に居続ける限り亡者どもに自由はないと思い知らせるわ!」
そう言うとアリスはキリコをビシッと人差し指で射止めてきた。
「あなた、萩原キリコよねえ!? 家族ぐるみの社長パーティでアタシと顔を合わせたことを忘れたとは言わせないわよ!! 話によれば、こっちのビジネス勝負から降りて霊能者なんて仕事をやってるらしいじゃない!? せっかく世界を二分するケミカル企業の勝者はどちらになるのか、アタシのほうは正々堂々と対決したかったっていうのにね!! 上等じゃねえかこの野郎!! アタシも霊能者になった以上、ここが第二ラウンドよ!!」
「えっえ、ええええええええ!?」
萩原キリコは仰天した。
そもそもキリコからすればアリス・ミラーギロチンのことはほとんど初対面のような印象しかないのだが。
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