第04話 森野ユーリ その2


  ※※※※


 そんな風にしてキリコとサクヤの取材は終わり、二人はそのままオフィスに連絡だけ入れて直帰することになった。

「萩原先輩! 今度いっしょにどこかで遊びませんか?」

「え、え、ええ?」

「もちろん萩原先輩がよかったらの話ですけどね。ボク、もっと萩原先輩と話をして仲良くなってみたいなって、そう思っちゃいました! あはは、都合のいい日があったら教えてください!」

 と言って岩本サクヤは最寄りの駅に向かって歩いていった。病院から帰るには公共バスを使って豊島区の池袋まで出たほうが早いのだが、どうやら彼女は街のなかを自分の脚で歩いていくのが好きらしい。キリコはとりあえずスマートフォンを起動し、先輩の田中アスカに対してメールを送った。

『取材が終わったので今日はそのまま帰ります。実際に話題の死神少女を目撃したお医者さんからも話を聞くことができたので、記事として面白いものになると思います。データ送信しましたので、明日以降ご確認いただけますと幸いです。

 なお、新人の岩本サクヤさんですが、とても頼りになる感じでした。私が言葉に詰まってしまったときも率先して行動してくれていたので、弊社の即戦力になると思います。もしかしたら私なんかよりよっぽど有能かもしれません』

 スマートフォンをズボンのポケットにしまって、自分の家まで帰り始める。となりにいるジギィ=ジグザグは少しだけ表情を柔らかくした。

《新しい登場人物というわけだね。今の世の中はああいう風に女の子が王子様みたいに同じ女の子から人気者になるなんて知らなかったなあ。まあほんの少し心配していたけど、素でイイ子そうでよかったじゃないか。仕事も有能そうだしプライベートでも仲良くできそうなんてね。これでキリコさんの仕事もちょっとだけ楽になったらといいと思う》

「えっ、あ、は、はい」

《これは1000年も生きてきた悪霊の戯言と思って聞き流してほしいけど、現代社会の人間はなんだか働きすぎだと思うよ。キリコさんも頑張りすぎのように見える。だから従業員が増えてキミの負担が減ることについては賛成って感じだ。せっかく生きているなら楽しく過ごさなくちゃ。たとえば、観光旅行をしてみるとかさ?》

「そ、そう思いますか」

《これはあくまで僕の感じかただから、キリコさんはキリコさんとしての受け取りかたをしてくれていいよ。でも、僕がそう思ってるってことは伝えておきたかったんだ。キミは僕のお嫁さんだから、尊重はする。だけど、裏を返せば僕はキミの旦那さんってことなんだから言いたいことは普通に言うよ。そこは軽めに耳に入れておいてくれると嬉しい》

「は、はいっ。分かりました」

 そんなキリコのスマートフォンに連絡が入ってきたのは、そろそろ自宅の最寄り駅に着こうとするときのことであった。「もしかして、もう田中アスカ先輩から返信が来たということだろうか。まさか、送信したテキストファイルに不備があったとか?」。キリコはそんな風に思って慌てて端末を起動させたのだが、その画面には、田中アスカからの言葉などどこにも表示されてはいなかった。

『森野ユーリ』

 という見知らぬ男性の名前。メールに以下のような文章が映っていた。

『こんばんは、警視庁刑事部霊能課三係の森野ユーリです。同期の西城カズマからはなんとなく話を聞いています。貴女が優秀な霊能者であることも、悪霊を倒すために力を尽くしたいと思っていることも。今度、新しい霊討伐の案件が入ったので貴女を誘おうという主旨のメッセージを送ります。

 もしもぼくたちの部隊に本気で入る気があるというなら、下記に書いてある指定の場所まで来てください。そこで集合してから、仕事をしましょう』


 警視庁刑事部霊能課――!? それってカズマさんが言っていたあの部隊のこと!?

 キリコはそう思うと、さらに素早く森野ユーリからのメールを確認していった。場所は練馬区にある小さなライブハウス。時間は現在の時刻から21時までの範囲で指定可能。彼女はすぐに返信ボタンを押してタブを開き、文章を打ち始めた。ひととおり書き終わり、うしろに立っていたジギィのほうを振り返る。

「じ、じ、ジギィさん」

《なんだい?》

「わ、私、ここに行ってみようと思います。まっ、ま、前もジギィさんにお伝えしたかと思うんですけど、私にできることがあるならやってみたいんです。でも、それはジギィさんの能力をお借りしなくちゃできないことでもあって、私、ジギィさんの考えを改めて聞いておきたい、です。

 どっ、どう思いますか? ジギィさんは『僕の許可は要らない』って言っていた気がするんですけど、私はやっぱりジギィさんの言葉を聞いておきたいんです」

《なるほどね》

 ジギィは軽く腕を組んだ。

《基本的に反対はしないよ。もちろん僕は「赤の他人を助けるなんてどうでもいい」と思っているし、「一度や二度ならともかく、仕事として悪霊と戦い続けていくのはどうしても危険だよ?」と伝えてみたくもある。しかし、もうキミがそういう言葉では揺らがないこともなんとなくは分かってきた。なら、僕にできることといえばキリコさんに力を貸すことだけだし、僕自身の夢のためにも、そうしたい。

 たしか、カズマくんはキミを意志が弱いみたいに言っていた気がするけど、僕は全く逆の印象を持ってるんだよ。キリコさんほど我が強い女の子は、実のところそうそう見かけたことがない。これは良い意味でだけどね》

「ジギィさん――」

《その上で気になることがあるから、ひとつだけ訊きたいんだけど。

 ――今のアルバイトはどうするの?》

 とジギィは訊いてきた。その表情には非難の意図はほとんどなかったが、少しだけ「もしかして先走って忘れてない?」とでも言いたげな、たとえるなら学生のちょっとした計算ミスをたしなめる教師のような雰囲気が漂っていた。そしてたしかに、キリコはこのことを完全に失念していた。

 もしも西城カズマや森野ユーリの所属する部隊が副業などを認めない場合は(そしてその可能性は、彼らの部隊の公共的な性格や危険性の高さを考える限り、きわめて高いと思われるのだが)キリコは今の職場を辞めなければいけないということになるだろう。本当に霊能課とやらに入りたいというのならば。

「あっ、えっ」

 彼女は思わず声を上げてしまった。

《キリコさんは僕が見ている限りは、職場の人たちとそこそこ上手くやっているよ。みんな優しくキミを迎え入れていっしょに働こうとしているんじゃないかな。たとえキリコさんがそれを甘やかされていると感じているとしてもね。今回新しく入ってきた大学の女の子とも楽しくやれそうじゃないか。もしそういう関係を捨ててしまうことになるとしても、キリコさんは彼らの部隊に入って人助けを続けるのかな》

 と彼に問われると、キリコとしてはなにも言えなくなってしまった。盲点。いや、どちらかといえば予測不備。彼女は今の自分が人生の上で重大な二者択一を迫られているかもしれないことに全く気づいていなかったというわけだ。

「ご、ごめんないジギィさん――わ、私、わわっ、あの、こんなことはなにも考えていなかったです」

《――そ?》


  ※※※※


 とはいえ結論から言えば、萩原キリコはジギィ=ジグザグとともに、森野ユーリという名前の男が待つ場所へ足を運んでいた。

 ジギィがこんな風に言ったからだ。《まあ、そういう細かい話は実際に部隊の連中に会って訊いてみればいいじゃないか――》

「そそ、そういうものでしょうか?」

《ひとまずはね。とりあえずは相手の話を伺ってみてから判断しても遅くはないよ》


 そうしてキリコはジギィを連れて電車を乗り継ぎ、練馬区の小さなライブハウス、その名も『バーネットニューマン』に辿り着く。外側から見る限りでは、なんの変哲もないごくごく普通のロックンロール仕様のハコにしか見えなかった。しかし、実際にはここが政府直属の組織である再殺部隊のアジト。誰も知らない警視庁刑事部霊能課の作戦室なのだ。ごくんとツバを飲み込んでから、キリコは玄関のドアノブを開けてなかに入った。

 そこには、あの西城カズマがいた。くすんだ金髪にガラの悪いファッションと、チンピラのような表情を浮かべた青年である。唇に重ためのタバコを咥えていた。

 そして彼のとなりには、銀縁の眼鏡をかけた黒髪の青年が立っていた。こちらについてはビジネスカジュアルとでも言えばいいのであろうか、白いTシャツに紺色のジャケットを羽織ってジーンズを履いた、ラフめだがオフィス街でも通用しそうな姿をしていた。手に持っているのはどうやらストローつきのオレンジジュースらしい。奥二重の涼しげな顔立ちで、キリコの戸惑いがちな顔色をじっと見つめている。あとで聞いたところによると、彼こそが森野ユーリという名前の男であった。

 そして、それぞれの男たちのうしろには契約霊がしっかりと憑いていた。カズマの背後には和服を着て唇を朱に染めている日本風美人、ボンヌ=ボワッソンである。そしてユーリの両脇にいるのは風貌のよく似た二人の老幽霊。それぞれ名前をカルト=キャルチュール、デルタ=デジィールと言う。互いにそっくりな見た目をしたヨボヨボの老人たちで、いわゆるチャイニーズゴシック風、そんな民族服を身に纏っていた。ヒヨヒヨヒヨ――と、人を茶化すような笑いをずっと浮かべている。

「よく来てくれましたね、萩原キリコ氏」

 と森野ユーリは言った。

「あなたの経歴と、資質、そして契約している幽霊の能力。全て同期のカズマから聞かせてもらいました。ぼくらとしては是非とも、あなたにこの部隊に入ってほしい。具体的には今夜すぐにでも、討伐すべき悪霊が見つかったんです。少なくともコイツを再殺するところまでは行動をともにしてほしいと思っているのですが、いかがでしょうか――」

 静かだが冷たいものの言いかただった。たとえば、ジギィ=ジグザグの喋りかたには常に相手の返事を待つようなところがあるが、この森野ユーリという青年にはどこか有無を言わさないような圧が宿っている、そんな風にもキリコは感じていた。もちろん、だからといって悪い人だとは感じていない。

 悪い幽霊をやっつけて人を助ける仕事についているというのであれば、どこかに人の良さはあるはずだ。

「も、も、森野ユーリさん?」

「? はい、なんでしょうか」

「わ、私は、そこに行きます。それにカズマさんともユーリさんとも、しなくちゃいけない仕事の話があってきたんです。わわ、私っ、わ、ちゃんとこの部隊に入りたくて、入ろうと思ってここに来たんです――」


 森野ユーリは静かに頷くと、眼鏡の位置を細長い指で直した。

「とりあえず座ってください」

 彼にそう促され、キリコはライブハウスのテーブルについた。西城カズマのほうは「飲みモンとってくるわ。キリコちゃんもなんか飲むか?」と言って立ち上がる。キリコは彼の背中に向かって「あ、じゃ、じゃあ私もオレンジジュースを――」と声をかけた。カズマは右手をヒラヒラと振って彼女の言葉に応じ、店内に消えていった。

 カズマの吸っていたタバコ(ラッキーストライク)の香りがほんの少しだけ空気のなかに残っていた。とくに嫌なニオイというわけではない。もともと彼女の父親が喫煙者だったこともあって、小さい頃からケムリに慣れているところがあった。森野ユーリの手もとにもタバコの箱(セブンスター)がある。彼も吸うのだろう、と思う。

「こ、ここって、たしか音楽とか演奏するようなところですよね?」

「もちろん表向きはそうです。昼は飲食店もしていますが、夜も更ければアマチュアやインディーズのバンド、アーティストがパフォーマンスをする。チケットの売上は、この立地とハコの規模にしてはなかなか良いほうですよ。

 しかし、実際には政府直属の霊能者が集まって悪霊再殺の作戦会議などを行なう部隊のアジトでもあるんです。店長をしているのはカズマの兄貴、小宮サンシロウ氏ですが、彼が同時にその隊長を務めています」

「え、こ、こみやさん――?」

「今いきなり全ての固有名を覚える必要はありませんよ、キリコ氏。とりあえずは、ぼくたちがこういう風にコッソリ隠れて表向きの仕事をしつつ、今の業務を続けているということだけ頭に入れておいてほしい」

 森野ユーリが説明するなか、西城カズマのほうがオレンジジュースとウーロン茶を持って帰ってきた。

「マジでライブハウスとしての儲けもちゃんとあるしな、ここは。キリコちゃんってロックとか聴くほうか? あの『感傷的なシンセシス』とか『西園学派』とかも、アマチュアかインディーズだったかのときはここで演ったことがあるらしいんだってなあ。兄貴がメチャクチャ感激してたから覚えてるよ」

「え、あ、そ、そうなんですか」

 しまった、とキリコは思った。日本の音楽なんてほとんど聴いたことがないから、話題に全くついていけない。友だちがいないからカラオケに行ったこともないし、仮に行けたとしても、父親が車のなかで流していた洋楽をちょっと歌える程度だ。萩原キリコは世の中のことをなにも知らない、そういうディスアドバンテージを改めて自覚せざるを得ない。

 森野ユーリが咳ばらいをした。

「ともかく、まあ、ぼくたちは普段は別の仕事をしているということです。たしかキリコ氏はオカルト関係の取材・執筆・編集関係のプロダクションで働いていると聞きました。これは僥倖です。霊能者ではない人間がどこまで怪談に辿り着いているのかが分かります。ぼくとしてはキリコ氏にはそういう仕事を続けてもらいながら、その上で、実際に蒐集した幽霊譚をもとに新しい再殺案件を見つけてほしいと思っているわけですね。なにを言おうとしているかが理解できますか?

 ぼくたちはキリコ氏に現状の職場で働き続けながら、それに加えて、悪霊を殺す業務をお願いしたいと考えているんです」

「え、ええっ、え――」

 キリコは、ただ戸惑っていた。

 森野ユーリはじっとりと彼女のことを見つめてくる。

「幽霊を見たことがないくせに信じている人たちが、どの程度情報を掴んでいるのか把握しておいてください。それがキリコ氏の最初の仕事だ」


  ※※※※


「あ、え、あ、ああ――?」

 キリコが慌てながら奇声を発していると、ユーリはため息をついた。

「うちは政府直属の組織としては少々特殊なところと言うべきですね。ぼくたちの部隊に入るために、公務員用の小難しい試験に受かる必要はべつにありません。逆に言うと、市民を足止めするために必要であろう警察手帳も、実行犯に対して暴力を行使するために拳銃も手に入れられないわけですが。

 ただし、もし霊能の力を持っているならば、それだけでぼくたちの部隊に入るだけの資格を持つことができるんです。まずは契約済みの幽霊、つまり契約霊がいること。そしてその能力が既存メンバーを凌駕している必要があること。これらをクリアすることで新規の霊能者はうちの部隊に入れます」

「そ、そ、そうなんですか」

「キリコ氏は既に、これらの課題を攻略済みになっていますから。あとはご自身の意志の問題でした。幸いにもキリコ氏はぼくたちの部隊に入ろうとしてくれている。ならばもうなんの問題もないです。これならぼくやカズマだけではなく、隊長の小宮サンシロウさんも、副隊長である園田シンゴさんも問題なく賛成するでしょう」

 彼はそう言ってから、飲みかけのオレンジジュースを一気に口に入れた。キリコも自分に運ばれてきた同じオレンジジュースを飲み干す。カズマはそんな二人を見ながらタバコに火をつけてゆっくりと毒を吸った。そうして煙を吐き出すと、ロックミュージックをかき鳴らすライブハウスにふさわしい退廃的な雰囲気が満ちていく。

「キリコ氏、ただひとつだけ教えてほしいことがあります」

 とユーリは言った。

「なぜあなたは幽霊の力を使って悪霊たちを倒そうと思ったんですか? どういう意志のもとで、どういう夢があってそうしようとするのか聞きたい」

 そう訊かれて、キリコは思わず言葉に詰まってしまった。意志。夢。どれもこれも自分にはないものばかりだと思ったから。

 だが、答えなければならないと感じた。仮に、それがどんな言葉であっても、だ。

「わ、わ、私には、たしかになんの夢もありません。自分の意志だってないのかもしれないと思います。今まで私はお父さんの会社を継ぐためにバカみたいに勉強してました。もしかしたらそこに私の意志なんてなかったのかもしれないです。今だって自分の夢なんて思い描けないままかもしれません」

「――はい」

「で、でで、でも、誰かの夢を守ることはできます。悪霊のせいで死んでしまうかもしれない人たちを助けることで、たったひとりでもいいんです、そういう人たちの夢を守ることができるなら、私はそういう仕事をしたいです! みんなが一生懸命に生きて、役に立って助け合っているような世の中で、私だって、役に立ちたい! そういう、なんか、普通のことを壊しちゃいけないって思います。そしたら、私も、生きてる意味があるんじゃないかって思えるっていうか。自分のことを好きになれる気がする!

 私、私、エゴイストですよね? 人のことを助けたいのは、結局は、自分が助かりたいからなんです。たぶん、そうです」

 キリコがそこまで言い終えると、ユーリはフッと微笑んだ。

「ぼくはあなたのことを立派だと思いますよ、萩原キリコ氏。さっそく今から出向する現場について話し合いましょう、歩きながらね?」

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