第03話 西城カズマ その1


  ※※※※


 別に目立とうと思ったわけではないが、その夜の萩原キリコの活躍はほんの少しだけ世間を騒がせることになってしまった。その日の当直だった新海ノボル先生が病院の屋上まで階段で上がってきて、偶然キリコのことを見つけてしまったからである。彼のほうは胸ポケットからタバコ(メビウス)を取り出し、軽く一服してから戻るだけのつもりだった。しかしそこに立っていたのは、漆黒のドレスに身を纏って日本刀を構える女。爪も、唇も、まるで死化粧のような黒一色。長い髪が夜の風にゆっくりとたなびいていて、表情だけが彼の目には隠れていたのである。

「君は――!?」

 新海ノボル先生は思わず声を上げた。ラッキーなことに、明かりも少ないせいで、女の正体が自分の担当患者である萩原キリコだとは分からなかったらしい。

 キリコは慌ててジャンプして屋上のフェンスを越えると、そのまま地上に向かって落ちていった。小声で「ジギィさん、任せました」と言ってから、ゴツゴツとしたロングブーツを地面のほうに向ける。そうして、着地した。衝撃についてはジギィの霊力が完全に相殺してくれていた。彼女は急いで病院の敷地から離れると、路地裏に隠れてから薬指の指輪をゆっくりと外す。その瞬間にゴシック風の衣装もネイルもメイクも全て消えていき、普段の地味なTシャツとジーンズに、化粧気のない容姿に戻っていた。

「あ、危なかった――!」

《まったくね。まさかキミのことを知っているお医者さんに見つかりそうになってしまうとは思わなかったよ》

 そうジギィは言った。

「ご、ごご、ごめんなさい」

《キリコさんは悪いことはしていないよ? それに、結局はバレなかったみたいだし問題はないと僕は思ってるかな?》

 ジギィはにこにこと笑う。

《むしろ、バレてしまっても別によかったんじゃないかと思うよ。「私はなんの罪もないお婆さんとお医者さんを助けにきた、正義のヒーローガールです!」なんて、なんだかカッコいいじゃないか。有名人になって色んな人が取材にきちゃったり、知らない人にチヤホヤされたりしちゃうかもしれないなあ。キリコさんがやりたかったことってそういうことだとも僕は捉えていたんだけど、違うの? まあ、僕としては、キリコさんがあんまり人気者になると独りじめできなくて寂しい気分になるかもしれない。とはいえ、それが僕の過去を知る手がかりになるかもしれないしさ》

「ち、ちち、違います――」

 キリコは即座に否定した。

「め、目立つのとか、あんまり好きじゃないですし。だ、誰かに褒められたいわけでもないです。ただ、あ、当たり前のことをしようと思って、そしたら頭に血がのぼってしまったというか――」

《ふうん?》

「そ、それに私、人に褒められるような人間じゃ全然ないです」

《僕はキミのことを褒めたい気持ちになっているけどね――?》

 ジギィは冥婚の指輪をゴツゴツとした指先でもてあそび、やがて黒いスーツの胸ポケットにしまった。

《たしかにキリコさんと僕の価値観は違う。僕は赤の他人のことなんてどうでもいい。あのお婆さんが死んでも、お医者さんが倒れても眉ひとつ動かさなかっただろうな。でも、キリコさんはそうじゃないということはなんとなく理解したよ。

 今まで僕は僕のスタンスだけで生きてきたが、その結果、自分の未練を知るということについてはなんの成果も得られなかった。だったらいっそキリコさんのような、正反対の女の子に付き合ってみるのも悪くないと考えてるよ》

「ジギィさん――」


 さて、二人のこんな行動が話題になってしまったのである。

 そのことを知ったのは、翌週、キリコが診断書を持ってバイト先の編集プロダクションである『クロノスタシス』を訪れたときのことだった。まず、先輩の田中アスカがすぐにキリコのもとに近づいてくる。

「キリコちゃん! あれから体調は大丈夫なの!? お医者さんはなんて言ってた!?」

「え、あ、はっ、はい。い、一時的なものだったようで」

「――よかったあ~~!」

「ご、ご迷惑をおかけしました」

「迷惑なんかじゃないよ! キリコちゃんが無事で済んだのがいちばんなんだからね!」

 アスカは大喜びしながら診断書を受け取り、中身を読んで、ナルホドフムフムと頷いてから経営者兼編集長の月岡さんにそのファイルを持っていった。月岡さんのほうも中身を読んで、ナルホドフムフムと頷いてから、

「――よかったあ~~!」

 と言った。というか、ガッツポーズまでしていた。

「俺もひと安心したよ、キリコちゃん。あとで診断書だけじゃなくて領収書のほうもちょうだいね。勤務中に病気になった場合は会社からお金が下りることになっているからさ。ウチは弱小だけどそういうところはしっかりしてるんだよ意外と」

「は、はい」

「とにかく、キリコちゃんが無事で済んだのがなによりだ! 長期休暇なんて言っちゃったけど、この診断書を読む限りじゃあ、また今日から安心して働けそうだね!

 なにしろ今の東京都内では、さあ、『病院に現れた謎のゴスロリ美少女』で話題が持ちきりなんだよなあ! これはオカルトを追いかける俺たちとしては取材するしかない! 人手がほしくてたまらない! 猫の手も借りたい状況ってわけ! あっ、キリコちゃんのことを猫だと思ってるわけじゃないよ!?」

「はっ、はい。

 ――えっ?」

 キリコは月岡さんの顔を二度見した。

「びょ、びょびょ、病院に現れた謎のゴスロリ美少女?」

「おっ、キリコちゃんも気になる!? そう、板橋区の大学病院屋上に現れた正体不明のゴスロリ美少女だよ! 彼女は当直の医師に見つかると、忽然と姿を消したと言われているんだよな。これは果たして死神か、幽霊か、はたまた哀れな患者を救う天使なのか!? 噂によれば余命確実と言われていたおばあさんが翌日すっかり元気になって退院できたっていう話もあるくらいだ! すごいだろう? だから、俺としては天使だといいなあと思っているんだけど、それはまあいいや! 今のところ重要なのは、彼女がオカルト業界における話題沸騰のアイドル様ってことだ!」

「え、あ、ああアイドルっ!?」

「そのとおり!」

 月岡さんは両手をパン! と叩いた。

「必ずその謎のゴスロリ美少女の正体を俺たちで突き止めるしかないだろ! まあ、本当に正体なんてものがあるかどうかは分からない。十中八九、当直の医者がなにかの見間違いをしたんだろうと思ってる。だけど本題は、それを面白おかしく記事にできたらまたウチらの仕事が増えるってことだ!

 なんと奇遇なことにキリコちゃんは同じ病院に通っていたって話だったよね? この診断書にもバッチリ書いてあるぞ! つまり、これは特別待遇の時間外勤務ってことで取材をお願いできるってことなんだよ! 不安ならアスカを付けてもいいから、次の営業日あたりレポートよろしくお願いします!」

「え、えええええええ――!?」

 思わずキリコは大声を出してしまった。こんなの、自分で自分のことについて取材するようなものだ!


  ※※※※


 キリコはとりあえずいつもの席に着くとPCを起動し(どうでもいい情報だが、このPCは編集プロダクション備品のDELL社製XPS 13である)、執筆済記事の誤字脱字確認、インタビューのテープ起こし、雑用、電話対応、領収書の整理などを続けた。その間、キリコの頭のなかでは出勤時に聞かされた話がグルグルと渦巻いていた。

 病院に現れた謎のゴスロリ美少女!?

 どうしよう、場所と状況から考えてもそれは私のことだ。いや、私は美少女なんかじゃないけれど、きっと新海ノボル先生が暗がりのなかで上手く見えなかったんだろう、とキリコは思った。その噂話なんて調べていたら、もしかして、正体がバレてしまうんじゃないだろうか、と。

 ちなみに昼食はランチパックであった。

 アルバイトの時間が終わると、キリコは後片付けをしてからリュックサックを背負って職場を出た。田中アスカが「近くのコンビニまで買い出しに行くからさあ、そこまでいっしょにどう?」と誘ってくれたので、最寄りの駅まで二人で歩くことにした。

「まあ、あんまり気負わなくていいからね?」

 とアスカは言った。

「どうせまた下らない噂だしさ。だいたい、あの病院は夜刻になったら屋上ドアの鍵どころかほとんど全部の出入口を閉めちゃうらしいんだよ? いや、当たり前だけどね。そんなところに侵入できる方法なんてあるわけないじゃんか。幽霊はいない。きっと、その当直のお医者さんは毎日の業務で疲れ果てちゃって、見えるはずのないものを見ちゃったってことだと思う。もちろん、怪談話としては興味深いんだから、こっちはいくらでも話を盛って膨らませて、面白い記事にするつもりではあるけど、さあ。どうせ人の噂も七十五日っていうからねえ。旬なうちに軽くまとめておしまいだよ」

「は、は、はい――」

「キリコちゃんは病院全体の雰囲気を観察して、おどろおどろしい感じで描写して、あと馴染みのスタッフさんとかに話を聞けたら聞いて、それっぽい証言でも引き出しておいてくれればいいよ? あとはね、あたしのほうが記事としてチャチャッとまとめるから。

 それより、ウチもちょっとずつ事業拡大の話が出てて、こんどまた新しいアルバイトの子がいるかもしれなくって、面接みたいなことをするかもしれない。そのとき、キリコちゃんにも少しだけ出席してもらうかもしれないんだけど、それについては大丈夫そ?」

「えっ、そ、そうなんですか?」

「まあ、それはアタマの片隅に置いといて。今は『病院に現れた謎のゴスロリ美少女』についてお金になるストーリーを考えなくちゃ」

「はっ、はい――」

 そんな会話をしていた。

 キリコは駅近くのコンビニ前で田中アスカと別れ、深々とおじぎをしてから最寄り駅の改札に向かって歩き始めた。キリコのとなりにいたジギィは、《いっときはキリコさんにとってヒヤヒヤする出来事になりそうだったけれど、なんだか、穏当な感じにまとまりそうじゃないか》と静かに笑った。

 キリコのほうも、

「そ、そ、そうですね――」

 と胸を撫で下ろした。そう、どうも全てはオカルト好きのオタクたちが愛する与太話として済みそうなのである。


 いま思えば、このときキリコは気づいておくべきだったのだ。幽霊が見えない人たちにも噂になってしまっているということは……幽霊が見える人たちには、とっくに自分の存在を知られているであろうという可能性に。


 キリコは改札を抜けて電車に乗り、一回乗り換えて自宅の最寄り駅に着いた(ちなみにキリコは電車のなかでは、編集者として必須の入門書と紹介された本を必ず読むようにしている。趣味もほとんどなく将来の夢もなくなってしまった彼女にとっては、とりあえず目の前の仕事をきちんとこなすための作業で時間を潰すのがいちばんだった)。そうして最寄り駅の西口改札でスイカをタッチして外に出る。どこかで軽食をとってから帰るか、それとも駅近の本屋に寄ろうかなどとボンヤリ考えていると、

 そこに、幽霊がいた。

 正確には西口改札の真正面にあるロータリーへの通路の途中、そこに、女の幽霊を引き連れている青年が立っていた。青年のほうはどこかチンピラめいた雰囲気。くすんだ金髪にガラの悪い薄着姿で仁王立ちをしながら、萩原キリコのことを堂々と待ち構えているようだった。女の幽霊のほうは、髪をうしろで束ねた和服姿でそこに佇んでいる。どうして幽霊だと分かったのかというと、駅の通行人が彼女の近くを歩いたときに全く衝突せず、すり抜けるようにして向こうに行ってしまったからである。幽霊は一般的に、自分の意志で相手に触れようとしない限りは物理的な干渉が発生しない。

 そしてその青年は明らかに、キリコのことを見つめていた。

「え、あ」

 キリコはすぐに立ち止まって、青年のほうを見つめ返した。

 ジギィも彼女の右耳に《キリコさん》と注意を促してくる。

《相手のほうは僕たちのことを待ち伏せしていたらしい。男と、幽霊の女だ。どういう連中なのかは分からないけど、この場で戦いになるといろいろ面倒になるね――》

「そんな」

 ジギィの言葉を受けてキリコが幽霊の女と青年のほうを睨みつけると、彼のほうは軽薄そうな笑顔を浮かべながら語りかけてきた。

「アンタが噂の『病院ゴスロリ美少女』か。

 いや――萩原キリコちゃんだったっけ?」

「なっ!」

 キリコは思わず後ずさりした。目の前にいる青年は、自分の正体どころか本名まで押さえた上でここに来ているのである。

「だ、だ、誰ですか?」

「ああ、そうだったな。自己紹介がまだだった。人間関係を築いていく上で自己紹介は最初にしなくちゃいけない大事なことだ。人間は名前も知らない相手に対しては警戒心を簡単に解かないようにできてる。うっかり忘れるところだったぜ」

 青年は白い歯を見せた。

「オレは西城カズマだよ。気軽にカズマって呼んでくれていいぜ? そんで、オレのとなりにいる女の名前がボンヌ=ボワッソンだ。とは言っても、ボンヌのほうは生前の本名ってわけじゃない。これはオレと相棒になるときに交わした仮の名前、通名、コードネーム、まあそんな感じだと思ってもらえばいい――」

「そ、そ、そんなカズマさんがなんの用ですか?」

「それについて言葉を尽くして説明してもいいが、まず、いちばん手っ取り早い物的証拠とかいうやつを見せちまおうかなあ?」

 そうして青年は――西城カズマはズボンのポケットから指輪を取り出した。萩原キリコが持っているエンゲージ・リングと同じようなシンプル極まる形状をしている。ただし色合いだけが違った。キリコの指輪が黒一色であるのに対して、カズマのそれは黄金色に輝いているのであった。

「え、あ、ああ!? 指輪!?」

「イイ感じのリアクションだな、サンキューだぜキリコちゃん。いや、今はあえてこう呼ばせてもらおうかな?

 ――よう、オレの同類」


  ※※※※


 西城カズマと萩原キリコは真正面から対峙していた。それは、お互いに引き連れているボンヌ=ボワッソンとジギィ=ジグザグも同様であった。ボンヌのほうはなにも言わない。ただクスクスと笑う口元を隠しながら、キリコとジギィに対して細長く色気のある目つきを向けてきている。

 周囲の人間には、二人が緊迫した状態にあることは全く分かっていない。それはなんというか、同年代の男女が駅で再会しているだけの様子に見えていた。むろん、カズマとキリコが対峙している意味を誰彼構わず悟られてしまうのは絶対に困る。今ここでは霊能者と霊能者が同じ場所で向き合っているのだ。

「先に伝えておく」

 と西城カズマは言った。

「オレには、キリコちゃんにやってほしくないことが大きく二つあるんだ」

「な、なな、なんですか」

「まずひとつめは、ここから逃げ出そうとすること。なんでかっていうと、追いかけるのが面倒くさいからだ。オレのほうはキリコちゃんの正体だけじゃなくて名前も知ってる。ということは当然だが、住所も家族構成も分かってんだ。アンタが逃げ出すと、オレはアンタをおびき寄せるためにアンタの家族を利用しなくちゃいけなくなる。どういう風に利用するかは自分の賢いアタマでよーく考えてみてくれ。たとえば妹さんだ、えっと、萩原ユイカちゃんだったっけ? 可愛い妹だよな? 巻き込みたくはないだろう? オレだってそんなダルいことしたくないっていうのは分かってくれるよな?」

 西城カズマの口調からは、本気でそれをやりかねないという雰囲気が伺えた。

 キリコは歯を食いしばる。

「ふ、ふ、ふたつめはなんですか?」

「ふたつめは、この場でオレと戦おうとすることだな」

 カズマはあっさりとそう言った。

「理由はみっつある。まず、ここは駅周辺で人通りが多すぎる。初手でお互いにエンゲージをかましたら大勢に見つかる可能性があるし、なにより迷惑をかけちまう。オレはそういうのは好きじゃないし、キリコちゃんも同じ気持ちであることを期待してる。次に、普通にお互いの力量を見積もってみたところなんだが、実戦の経験や修行の量を加味して考えたとしても、純粋な資質の問題としてアンタのほうがオレよりも強い。オレは負けるのはイヤだから戦いたくないんだ、命は大事にしたいしな。

 そして最後に、これがいちばん大事な理由だが、そもそもオレは平和主義者だ」

「えっ?」

 キリコはポカーンとしてしまった。

 これまで自分が出会ってきた幽霊といえば、ジギィ=ジグザグさんを別にすれば、平気で人を傷つけて殺している最低の連中ばかりだ。だから女の幽霊(ボンヌ=ボワッソン)を引き連れている西城カズマと出会ったときに、思わず警戒心を剥き出しにしてしまった。ところが、相手は自分とは戦いたくないと言う。もしも私が逃げ出したら家族を利用してでも追いかけると言っていたが、それも本当はやりたくないと言っている。いったいどういうことなんだろうか、とキリコは思った。

「じゃ、じゃあ、なにをすればいいんでしょうか?」

「? そんなもん話し合いに決まってるじゃねえか」

 とカズマは答えた。

「オレはアンタが悪霊を利用して人様に危害を加えたいカスなのか、そうじゃないのかを調べにきたんだぜ。この近くにオレもよく行ってるアフガニスタン料理店がある。静かな雰囲気で会話がしやすい。キリコちゃんが悪党じゃないっていうんなら、そこでオレに話を聞かせてもらおうじゃねえか。まあ、本当に悪党じゃないっていうんならだけどな」

 そんな風に彼は言った。

「は、は、話し合いですか――?」

 とキリコはオウム返しに訊き返すしかない。

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