第02話 ジギィ=ジグザグ その3
※※※※
病院から少し離れたところにあるファミリーレストラン『ジョセフ』。キリコとジギィはそこに入ったあと、ドリンクバーで時間を潰すことにした。真っ昼間の今から病院で幽霊と対決をするのは少々目立ちすぎるので、作戦を実行するのは夜中にしようとジギィが提案したためである。
「さ、作戦って、どういうものなんですか?」
《まずは幽霊をお婆さんや新海ノボル先生から引き剥がす必要がある》
そうジギィは言った。
《お婆さんや先生がいるところでエンゲージして戦ってしまった場合、彼らを危険に巻き込んでしまうおそれがあるからね。だから、まずは彼らを病院の庭外とか屋上とか人目のつかない場所におびき寄せなくちゃいけない。たとえ相手と話し合いをするにしろ、戦って相手を再殺するにしろ、ね。まあ僕は相手の幽霊どもが説得に応じてくれるとは微塵も思っていない。幽霊というのは基本的にそういうものなんだよ。普通の人間は死んだらその天命を素直に受け止めるだろう? そういう往生際を知らない奴らが悪霊に身を落とす。十中八九はバトルになると考えたほうがいいだろう》
「そ、そうですか」
キリコはジギィから聞いた話をきちんとメモに取り、それを何度も読み返す。
「わ、わわ、分かりました。ジギィさんの作戦を、私、信じます」
《いい子だ》
ジギィは穏やかに微笑む。
《先に僕の能力を教えておこうかな》
「の、能力?」
《幽霊はその未練の質に応じて様々な特殊能力を持っているんだ。さっき、幽霊には全員に共通する力があると伝えたはずだよね? 生きた人間を遥かに凌駕する身体と、ただ触れただけで相手を呪える資質。そして自分を見せるか見せないかを自在に選べる選択肢が幽霊には存在する。もちろん例外はあるけれど。その例外のひとつが僕だ。僕はキリコさんにしか見つけてもらえなかった》
「は、え、はっ、はいっ」
《だけど幽霊にはそれだけではなくって、各々の未練にふさわしい別の能力がある。僕にもそれなりの力ってものがある。それはね、あらゆる「壁」を無視するという能力だ。家のなかに入ろうと思ったときにドアを開ける必要はない。窓を割る必要もない。ただ「この壁をすり抜けたい」「こんな壁はブチ壊してしまいたい」と願っているだけで、それが現実のものになるんだ。この前さ、呪いの一軒家でキリコさんが悪霊に襲われているのを助けたときに部屋に入ってみせただろう? あらゆる過程を全て省略しちゃって、ね? あのとき使った能力がそれ》
「おあ、ああ、あ――?」
キリコは、だんだん頭が追いつかなくなっていきそうな自分を感じていた。壁を無視することができる? それが目の前にいるイケメンのオバケさんには簡単にできる? いったいどういうことなんだろう。そんなこと、そんなこと本当にできたら無敵に近いんじゃないかとキリコは思った。だが、キリコの戸惑いと驚きとは裏腹に、ジギィ=ジグザグはいたってクールに自分のことを説明していた。まるで、こんなことすらできないほうが不思議だよとでも言いたげな雰囲気で。天才というものは、努力にしがみつくしかない凡人の感性など最初から理解できないのだ。
《この能力を使って幽霊たちを連れて一気に屋上に行くんだ。そのとき天井のコンクリートは気にしなくていい。僕があらゆる「壁」を無視してキリコさんと幽霊を巻き添えに移動してみせるから。そうしたら誰のことも犠牲にしないままキリコさんと僕で幽霊どもと対面することができるというわけだよ》
そして太陽が沈んで月が昇り、真っ暗な夜空に星々が輝き始めた。キリコはカーキ色のズボンのポケットから漆黒の指輪を取り出して、ぎゅっと握りしめた。六等星までがその指輪を照らし、冷たい貴金属の質感が不思議と手のひらを慰めてくれる。なんとなく肌に触れているだけで頼もしい気持ちになるのはどうしてだろう、とキリコは思った。
「い、い、行きましょう」
《ああ、そうしようか?》
二人はそのまま病院の正面入り口まで来た。ガラス張りの自動ドアは電気を消して完全に停止していたが、ジギィが手をかざした瞬間、彼女は真っ暗な病院のなかにそのまま侵入することができた。全てのライトが暗じている不気味な病院内に、今、キリコとジギィは佇んでいた。
「す、すごい!」
これが「壁」を無視するだけの能力!
そうして、キリコは入院病棟と当直宿室を探して階段を上ろうとした。真夜中のエレベーターはとっくにバッテリーを切断していて機能を止めていたのだから、ここは地道にコツコツと足を使うしかないと思っていたのである。だが、そんなキリコはジギィに肩をトントンと叩かれて、
《そんな面倒なことをする必要はない、キリコさん。要するに天井という「壁」を抜けて上の階に行きたいっていうことだろう?》
と言われた。
次の瞬間、ブン、という音が聞こえたかと思えば、萩原キリコはいつの間にか病棟の六階まで到着していた。正確には、病棟の六階にひとつだけある「携帯電話・スマートフォン使用可能エリア」の長椅子が並んでいるところである。まるでこの建物に床も天井も存在しないかのような瞬間移動だった。これが「壁」を無視するだけの能力!
「え、えええ!?」
キリコが小声で驚くと、ジギィは不思議そうな顔をしながら腕組みをした。「とっくに僕のことは説明したはずだよね?」というような表情である。それはキリコのことをバカにしているというより、ただ単純に、ただ素朴に、「なんで?」と思っているだけの無邪気な顔つきだった。そして、ジギィは彼女に言葉を繋いでくれた。
《キリコさんが診察を受けている間、僕は病院の案内板を見ていた。循環器系の入院患者はこの大学病院では六階のベッドで眠ることになっている。そうやって症状ごとに区切りをつけることで主治医の回診負担を減らすんだよ。そして救急車に運ばれていたあの老婆は、息切れをして苦しそうに呼吸をしているように僕には見えた。これは心臓を患って血液の循環が上手くいかなくなった結果、体のなかで酸素と二酸化炭素を交換することができなくなっている証拠だ。循環器内科だ。だから無理にゼイゼイ息をしていたわけ。つまり、あのお婆さんは病棟六階にいるということ》
「な、ななっ、なるほどですっ!」
キリコは病院の六階を駆け抜けた。ナースセンターでは夜勤の看護師たちがダベりながら業務をこなしていたが、キリコは上手くしゃがんでその場をくぐり抜けた。そうして病室をひとつひとつ確認して(病棟の個室ドアは基本的に開きっぱなしである)、あのお婆さんがいる個室を探り当てた。ネームプレートを見ても誰が誰なのか分からない。だから、本当に病室を個々に確認しなくてはいけなかった。大変な作業だ。おまけに看護師たちに発見されたら即アウト、である。だが、そんなことでへこたれているわけにはいかなかった。
そこにいた。お婆さんと、幽霊。
《キリキリキリキリキリキリキリキリ――!》
男の幽霊が老婆にしがみついて、愉快そうに笑っていた。キリコとジギィはその姿を見つめていた。こいつだ、こいつがお婆さんのことを苦しめて、その息子さんのことを泣かせていた張本人であった。
※※※※
《キリキリキリキリキリキリキリキリ――!》
幽霊は老婆にしがみついていたが、やがて萩原キリコとジギィ=ジグザグの二人に気づいて首を傾けてきた。髪は短い。そのせいで、目玉の部分がポッカリと暗い穴のようになっている表情が彼女にはよく見えていた。着ている服は病院着の類だろう。おそらくは病気かなにかで死んでしまったあと未だにこの世をさ迷っているのだ、とキリコは思った。そして彼女の予想は的中している。彼の名前は菊池ホクト。心臓病を患いながら若くして命を失ったあと、ただ、本能の赴くまま他の人間にも同じ病気を味合わせてきた幽霊である。今回の犠牲者が眼前にいる老婆というわけだ。
《なんだ? おまえら――》
「わ、わ、私は霊能者です」
キリコはそう答えたあと、人差し指をピッと天井に向けた。
「じ、じじっ、ジギィさん! 作戦どおり、お願いします!」
《了解した、僕のお嫁さん》
とジギィは言ってくれた。次の瞬間、ブン、という音を立てて、萩原キリコとジギィ=ジグザグと悪霊は、三人そろって病院の屋上に辿り着いていた。これが「壁」を無視するだけの能力、である。キリコもまだこの現象には慣れていないが、悪霊のほうもよほど戸惑っている様子だった。《なんなんだ、これは――!?》と声を上げていたからである。まずは作戦その1をコンプリートだ。幽霊とお婆さんを引き剥がすことに成功。キリコは、そのことを確認してから悪霊の菊池ホクトと向き合った。夜の風が吹いて彼女の長い髪をたなびかせている。
「お、オバケさん! なんであのお婆さんをいじめているんですか!」
《ハァ?》
「あ、あのお婆さんに恨みでもあるんですか!? だ、だったら、私が話を聞きます! 私がちゃんと話を聞きますから、もうこんなことはやめましょう!」
《なにをいっている、おまえ》
幽霊、すなわち菊池ホクトはキリコのことを睨みつけた。彼は、将来を嘱望された高校球児である。いつかはプロ野球選手、というかメジャーリーガーになって多くの人から称賛を浴びるのが夢だった。そんなとき、遺伝性の心疾患で身体が壊れ、彼は生死の境をさ迷ったあげく息を引き取ったのだ。それがやるせなかった、それが許せなかった。だから、自分と同じような苦しみをできるだけ多くの人間に味合わせてやりたいと思った。そうこうしているうちに老婆を見つけて憑りついていたら、気がつくとこの病院にいたのである。それがこの少年の全てであった。
《りゆうなんか、ない》
「え、は、はあ――?」
《めっちゃ楽しいんだよなあ! 人を呪って、人を殺して、周りにいる奴らが、泣き叫んでいる惨めなサマがな! あのクソババアにも、愛する家族がいるんだ! くくく、マジで笑える笑える、笑える! オレがあのゴミ女をブチ殺しちまったときに、何人のニンゲンが骨壺の前で泣いて悲しがってくれるんだろうな? オレはな、それが楽しみなんだ! キキキキヒャハハハハハ!!》
「ああ――?」
《オレたち幽霊は、死んだ人間は、さあ、生きた人間よりも強いんだよなあ! 簡単に呪い殺せるんだよなあ! だからお前らに対しては、なにをしてもいいんだ! その権利があるんだ! オレたちみたいな幽霊様にはな――!》
「ふざけんなよテメエ!」
キリコは思わず乱暴な言葉遣いで怒鳴っていた。
握りしめた拳がブルブルと震えていた。彼女は、萩原製薬株式会社代表取締役社長の長女である。普段は引っ込みがちでボソボソとしか喋れない女の子であるが、いざキレたときには妹のユイカよりも遥かにケンカっ早い性格なのである。だが、彼女自身はそのことを自覚していない。ちなみに妹のユイカも、心の底では「いやあケンカになったらおねえちゃんのほうが怖いからあんまり言い合いになりたくないんだよ」と思っている。なぜキリコ自身がそのことを知らないかというと、頭に血がのぼった途端、我を失って記憶が吹き飛んでしまうからであった。
キリコ自身は自分のことをどう思っているのか。非モテで、陰キャで、ぼっちで、コミュ障の根暗女である。なんの取り柄もない。しかし、そんな彼女にだって、なにが「悪」なのかということくらいは分かる。それは自分の娯楽のためだけに他人を犠牲にすること。なんの罪もない人間に、悲しみの涙を流させることだ。彼女は、久しぶりに目の前の邪悪を見て怒りが収まらなくなっていた。幽霊、幽霊、そう、幽霊だ。世の中には幽霊がたくさんいて平気で人間を害しているのだ。なんで今までこんなことにさえ気づかなかったのだろうとキリコは思う。
「ましてや、あんな可哀想なおばあちゃんを! 女手ひとつで息子さんを育ててきたおばあちゃんです! あんな親子を!
あなたがやろうとしてるのはそういうことですよ! ねえ!? あなたたち幽霊は、普通の人間には見えないし法律で裁くこともできません、だったら!
私が斬ります!」
そう言うとキリコはカーキ色のズボンのポケットから指輪を取り出し、ピーン、と指ではじいて空中に飛ばした。そして自分の薬指にはめる。不思議なことに、ぴったりとキリコの薬指にはまるサイズである。特に複雑な装飾や宝石の類が刻み込まれているわけではないのだが、暗がりのなかでも輝いて彼女のためだけの灯かりになるようだった。指輪の内側には細やかなラテン語でこんな風に刻まれている。
「In manus tuas commendo spiritum meum」
日本語に訳すと、
「私の魂は、あなたの手のなかに」
という意味であった。
《キリコさん》
とジギィが訊いてきた。
《最後にもういちどだけ訊くよ? 僕はこんなこと、本気でどうでもいいと思ってる。それでも僕の力を使って無意味で無価値な人助けをしたい?》
「はい!」
キリコはそう答えた。
「こ、こんなやつらのせいで、誰かが泣いているところは見たくない! みんなが笑ってくれていたほうが、いいに決まっているんです!
だ、だから、交わしてください! 私と、契約!」
《いいよ?》
ジギィはそう言ってくれた。
《キミの言うことは僕は聞く》
「エンゲージ!!」
それが合図であった。
エンゲージとともに激しい黒光が彼女を包み込む。眩しさのあまりキリコは思わず目をつぶったが、瞼を開いたときにはあらゆる景色が一変していた。彼女の全身を、ゴシック風の真っ黒なドレスが包み込んでいた。爪も、唇も、死化粧のような黒一色。そしてここからが肝心なところなのだが、ジギィはその場から消え去っていた。
彼がいなくなった代わりに、キリコの左手には、黒艶の鞘に包まれた真剣の日本刀が握られていた。
※※※※
キリコは日本刀を構えた。それに対して幽霊の菊池ホクトはオロオロとうろたえるような素振りを見せるだけである。
《なんだテメエ、いきなり強くなったような雰囲気だなあ、おい?》
「実際、私はもうあなたより強いです」
《くっくっく、それなら加勢を呼ばなくちゃいけねえなあ、オレも》
幽霊はそう笑うと、両手の指を口のなかに突っ込んで、ピュー、と口笛を吹いた。そうすると、下の階から別の幽霊が現れてくる。それは、肘から先がポッカリなくなっている両腕だけの幽霊であった。そう、新海ノボル先生に憑りついて呪い殺そうとしていた別の悪霊である。二人の幽霊の間に面識はなかった。合意形成もなかった。ただ、「人を呪い殺して周りを悲しませるのが楽しい」、それだけで意気投合してこの病院でコンビを組もうとしていた男たちだった。両腕だけの幽霊はフヨフヨと菊池ホクトの周りを飛んで、今にもミサイルパンチをかましてきそうな空気である。
《どうよ!? これで二対一ってわけよお! キャハハハハハ!!》
「だったらなんなんですか?」
幽霊たちのイキリムーブは、キリコの怒りに対して火に油をそそぐだけだった。
「付け焼き刃の味方を増やしたら、私とジギィさんに勝てるとでも思ったか!?」
ギュン、と音を立てて腕だけの幽霊が飛んできたかと思うと、キリコの首を掴み、そのまま彼女を空中に浮かばせた。「がっ!」とキリコが息を吐くのも構わずに、腕だけの幽霊はブンブンと力づくで彼女を振り回して、投げ飛ばした。屋上のフェンスに彼女は身体を打ちつけられる。だが痛みは全くない。ジギィの霊力でキリコがガードされているからだ。幽霊の力には同じ幽霊の力で対抗できる。
キリコはゆっくり立ち上がると、再び日本刀を構えた。
《おいおいメスガキよお! おまえのひ弱な剣術で当てられると思ってんのか!?》
「はい」
幽霊の挑発に対して、キリコはそう答えた。ただ、剣を振りかざそうとはしない。
「分かったんです。わ、私とあなたたちの間にあるのは空気の『壁』ってことです。普通はそれを乗り越えて刃で斬らなくちゃいけないから、面、胴、突き、小手、色んな剣術を駆使して、相手に近づかなくちゃいけないんですよね。でっ、でも私、私は、そういうことをする必要がないと知っています。今、ジギィさんの力は私の力になってる。『ただ壁を無視するだけの力』です。だから、あなたたちと私の間にある『距離』という名前の『壁』を無視して斬撃を当てることができます」
《ああ――?》
幽霊が首を傾げた瞬間、となりにいた両腕だけの幽霊が切り刻まれて血を噴き出しながら地面に転がっていた。《え――?》と、思わず両腕たちを見ようとしたとき、幽霊の菊池ホクトの身体にも線が走っていた。切断の線である。キリコは一切、自分の刀を振ろうとはしていない。そんな素振りさえなかった。ただ「斬る」と決めた瞬間に、彼女の斬撃は空気の壁を無視して幽霊に命中していたのだ。これがジギィ=ジグザグという世界最強の悪霊の能力である。ただ「壁」を無視するだけ。そして、そんな最強の悪霊を使役する萩原キリコは今、最強の霊能者になろうとしていた。
《アアアア、アアアア――!》
地獄の底から聞こえてくるような断末魔がキリコの耳を貫いた。それはこの世に囚われていた悪霊、菊池ホクトの声であった。キリコは刀を鞘のなかにしまったあと、じわじわと瞼を開けた。そのときにはもう、この場所に幽霊はいなくなっていた。ただ返り血にまみれた彼女の手に、漆黒の日本刀が握られているままだった。もちろん、その血は幽霊の血であるがゆえに、彼女以外の誰にも見えないのである。ただただ病院の屋上に星空が輝く、そんな不思議な状況で、キリコは夜の景色を眺めながらボーッとしていた。まるで全てが夢であるかのような気がしてしまったからだ。ただ、それでも、左手の薬指にはめられたジギィとのエンゲージ・リングだけは紛うことなき本物であった。
こうして、彼女は歩き始めた。2024年6月6日。
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