第02話 ジギィ=ジグザグ その2


  ※※※※


 あ、とキリコは思った。また幽霊だ。本物の幽霊だ。

 なんで幽霊と分かったのかと言えば、その手は、肘から向こう側がなにもなかったからである。要するに、両手だけがぽっかりと浮かんで担当医の新海ノボル先生の肩を掴んでいたのだ。まるで肩もみでもするかのように、である。動き出せないキリコを、新海ノボル先生は不思議そうに見つめた。

「? どうしました? 萩原さん」

「あ、あ、い、いえいえなにも!」

 キリコは慌てて立ち上がり、おじぎをしてから、診察室を出た。いま新海ノボル先生に本当のことは言えない。「あなたの肩に幽霊が憑りついていますよ」なんて伝えたところで信じてもらえるわけがないのだ。現代医療というものは基本的に非科学的なものの存在を認めない。これは《僕》の持論だが、科学というものは、あくまで科学というもののフレームのなかで理解できる物事についてしか語ることができない。だから、本来は幽霊については実在するとも実在しないとも言えないはずなのだ。にもかかわらず、科学万能論を信じる人たちは幽霊については最初から聞く耳を持たない。

 待合室ではジギィ=ジグザグが自動販売機のとなりで壁に背を預けながら待っていた。もちろん、その姿はキリコにしか見えていない。

《どうしたの? キリコさん。なんだか慌てているように僕には見えるけど》

「じ、じ、ジギィさん。また幽霊がいました」

《――へえ?》

「し、しかも、新海先生の肩にいたんですよ」

《そうだったんだ? それは大変だったね?》

 ジギィは微笑んだ。

《でもまあ、キリコさんのほうに危害を加えてくるような存在じゃなくてよかった。もしそんなことになれば、また、エンゲージをして戦わなくてはいけなくなるところだよ》

「いや、えと、あ、あの、新海先生には危害はないんですか? も、も、もしそうだったらヤバいと思うんですけど――」

《は?》

 ジギィ=ジグザグは萩原キリコの顔を見つめた。まるで、人類史で初めて地動説を唱えた人間を見たときの天動説論者のような表情だった。「お前がいったいなにを主張しているのか丸っきり分からない。バカなのか?」とでも言いたげな。

《それはキリコさんが気にするべき事柄なの?》

「え、えあ、は――?」

《どっちだっていいじゃないか、そんなことは》

 ジギィはそう言うと、呆れたような顔をすぐ元に戻した。

《その幽霊が新海先生という人間に対してどんなことをしようとしているのか、それは正直なところ全く知らない。というか、分かる必要もない。どうせ赤の他人なんだ。呪い殺されたところで別の医者がキリコさんの担当に代わるだけの話だろう。病院に通って薬をもらうだけの関係なんだから相手は誰でもいいさ、違うの?》

「え――?」

《それともキリコさんは彼に対して特別な感情を抱いているということ? 参ったな。言っておくけど、僕はけっこうヤキモチやきだ。かなり嫉妬するほうなんだよ。なりゆきとはいえキミは僕のお嫁さんになってしまったんだから、僕以外の男に対してあまり浮気をしないでほしいんだけどな――》

 キリコのほうも、ジギィの顔を見つめた。まるで進化論者が創造論者と対面したときのような表情になった。

「い、いや、そうじゃなくて、なんとかできるならなんとかするんじゃないですか、こういうときには。あ、あ、赤の他人だから関係ないとか、なに言ってるんですか? 助けなくてどうするんですか?」

《僕には今のキミがなにを言いたいのかサッパリ分からないんだけど》

 ジギィは、ただ戸惑っているだけのように見えた。


 二人は膠着状態になったが、キリコのおなかがグ〜と鳴ってしまったことで雰囲気が和らいでしまった。ジギィは苦笑いをしながら、

《とりあえず病院の食堂でごはんでも食べようよ。おなかがすいてるんだろ? 診察待合の時間がずいぶん長かったしさ》

 と言った。

《キリコさんの価値観について僕は否定しないよ。尊重したいと思うからね。お嫁さんの価値観は尊重するものだろ、夫というものは》

「え、あ、は、はい――」

《話し合いはいつでもできるよ? まずは空腹を解消しなくちゃ》

「は、はい」

 こうして二人は病院一階にあるレストランを訪れていた。そこには患者だけではなく医者や看護師もいて、健康的に塩分を減らした料理だけがメニューに並んでいた。キリコ自身は入院中にここで食事を採ったことはない(いつも病室のテーブル上に置かれている病院食を口に入れていた)が、ここが悪くないということは知っていた。見舞いに来た父親や妹はこのレストランで腹を満たしていたらしいからである。キリコは、とりあえずラーメンを注文することにした。お金を払って食券を手にすると空いているテーブルに座る。その向かい側にジギィも腰を下ろしていた。

《キリコさんがごはんを食べるのを正面から見るのは、初めてかもしれない》

「そ、そそ、そうですかね?」

《キレイにお箸を使うんだね。素敵だと思うよ。ご両親に愛されている証なんじゃないかと勝手に憶測してしまうけれど》

「そ、そんな、わ、私なんか、誰にも愛される資格ないです――」

《そうかい?》

 ジギィが微笑んで見つめているなか、キリコはラーメンを食べ終えた。美味しいとも不味いとも言えない普通のラーメンの味が、現在の彼女にはありがたかった。

「き、昨日も幽霊に遭って、今日も霊に遭っちゃうなんて」

 彼女はぽつりとそう呟く。

「も、も、もしかして今まで見えていなかっただけで、本当は、この世に幽霊っていっぱいいたりするんでしょうか?」

《? そうだね。幽霊はこの世界に大量に存在してる》

 ジギィはこともなげにそう説明した。

《キリコさんには霊能者としての才能があったけれど、それが目覚めるまでは、街にいる悪霊たちに気づくことさえなかったんだ。でも、実際には幽霊はどんな場所にも存在していて生きた人間を呪い殺そうとしているね。日本のなかだけでも、未解決の殺人事件や行方不明の案件がどれだけあると思う? 優秀な日本警察が犯人を捕まえられないなんておかしいとは思わない? そういうのはほとんどが幽霊の仕業なんだよ。だから優秀な警視庁の刑事たちでも事件を解決することはできない。そしてこれからも幽霊は増え続けるし、人は呪い殺されて死んでいくんだ》

「な、あ、えあ――?」

《これは自然の摂理みたいなものだし、キリコさんが気にするようなことじゃない。気にしていたらきりがないようなことだしさ。僕たちは幽霊による人間の鏖殺なんて関わりを持たないで生きていたほうがいいと思うよ。どうせ全ての幽霊を説得するのも無理だし、だからといって悪霊どもを全て再殺するなんて骨の折れることは何年経っても終わるかどうか分からないし。世の中はそういうものだよ》

「そんな――!」

 キリコは、唖然としてしまっていた。その間に、レストランのホールスタッフがラーメンの器をトレーごと片づけてくれている。キリコのほうはといえば、幽霊が見えるようになったおかげで視えてきた世界にただ驚いていたのだ。


  ※※※※


 キリコは病院を去るときに、さらに幽霊を見かけた。

 病院には地上一階出入口と地下一階出口があり、診察の会計は地下一階出口の近くに存在している。彼女はその列に並んで、自分の番が来ると事務員に診察券(と、診療済のスタンプが押された受付用紙)を渡した。

「ああ、今日は処方箋は出されていないんですね」

「あっ、あ、はい」

「お疲れ様でした。またなにかありましたらお気軽にご来院ください」

「はっ、はい」

 そうして会計待ちの番号表を受け取り、近くにあった長椅子に座る。そこにもまた長蛇の列ができあがっていて、壁にあるモニターが自分の番号を呼ぶまではお金も払えない。キリコはもじもじとしながらその電子掲示板を見つめていた。

《久しぶりに「病院」というものに来てみたけれど、ずいぶんと人間が多いんだね?》

 とジギィは言った。

《1000年間の記憶はおぼろげになってしまっているが、たしか、昔はこんなに病院に人がいるなんてことはなかったんじゃないかな。推測するに、現代医療というものが発達して助けられる人の絶対数が増えてきたということだろう――》

「え、あ、はい」

《そのかわりと言うとアレだけれど、人間の「生」に対する執着は昔よりも強くなっているんじゃないかな。助けてもらえるはずなのに助けてもらえなかった、他の人たちは救われているのに自分は救われなかった、そういう気持ちは簡単に未練から憎悪へと姿を変えてしまうものなんだよ。結果として幽霊の数はどんどん大きくなっていく。たしかめたことはないけれど、そういう風に僕は思っているよ。状況は悪化の一途を辿っている。まあ、その幽霊のひとりである僕なんかが言えた義理じゃないかもしれないけどね》

「な、なんとかできないものなんですか」

《なんとかする必要ってどこにあるの?》

「――ッ!」

 キリコは、自分の膝をぎゅっと握りしめた。会話をしているうちにモニターから会計番号を呼ばれたので、彼女はとりあえず立ち上がって清算を済ませる。リュックサックのなかにある財布からお札と小銭を出して機械に入れ、診断書とおつりを受け取りながら、キリコはただこんな風に考えていた。

 ジギィさんという人は悪い人ではないかもしれないし、私に優しくしてくれるけれど、なんだか言っていることがぜんぜん分からないときがある。赤の他人だからどうでもいいだとか、無関係なんだから放っておけだとか、世の中が悪くなっていることを知っているのになにもする必要はないだとか、なにを考えているんだろう? と。

 財布をリュックサックにしまったキリコは、そのまま階段を上がって正面出入り口から帰ろうとした。そこには救急車が停まっていて、たった今到着した急患がストレッチャーに乗せられたまま運び込まれようとしていた。

「ごめんねお嬢ちゃん、どいてどいて!」

「は、はひ、すっす、すみません――!」

 年配の救急隊員に怒鳴られて、キリコは慌てて道をあけた。そして、そのときにまた幽霊を見てしまったのである。ストレッチャーに乗せられて運ばれていく老婆、その身体にビッタリとしがみついて、

《キリキリキリキリキリキリキリ――!》

 と呪いの声を上げている男の痩せこけた姿を、である。つまり老婆は、そんな幽霊に呪われて体調を崩し、救急車を呼ばれてこの病院まで来ていたというわけだ。


 キリコはただ唖然としていた。今日で二人目のオバケさん!? さっき新しい幽霊を見かけたと思ったら、今度はまた新しい幽霊に出会った。これまでは幽霊が見えなかったから気づかなかっただけで、本当は、この世の中にはとんでもなくたくさんの幽霊がいるということなんだ、と彼女には分かった。そして彼らは(ジギィの言葉が本当だとすれば)生きた人間を平気で呪い殺し続けているということでもあった。彼女はストレッチャーに乗せられた老婆とそれにしがみつく幽霊を眺めていた。幽霊のヨダレがボタボタと老婆の顔にこぼれ落ちている。

「あ、ああっ、あれは――!」

《幽霊のせいで病気になってしまったみたいだ、あのお婆さんは》

 ジギィは丁寧な口調で教えてくれた。

「や、やや、やっぱりそうですよね?」

《放っておいたらあのお婆さんはいずれ死ぬよ。幽霊にはもともとふたつの力がある。まず生きた人間を圧倒できるほどの超人的な腕力と、そして、ただ触れただけで生きた人間を呪い尽くして、病気や、偶然の事故に見舞わせる能力とだ。あとは、自分の意志で姿を見せたり見せなかったりするのがよくある現象だよね。お婆さんは幽霊の呪いにあてられてしまっていると見て間違いないだろう。気の毒だけど、こんなことは、まあ世界にありふれていることだしさ》

「そ、そそ、そんな! ジギィさんはなんとも思わないんですか!」

《あのお婆さんは僕の身内や知り合いでは全くないし、もちろんキリコさんの身内でもないと思うんだけどな?》

「ッ! ~~ッ!?」

 二人がまた言い合いになりそうな空気のなか、よろよろと歩いている男がひとりいることにキリコとジギィは気づいた。彼は老婆のたったひとりの息子で、泣きながら病院の正面入り口で膝を突いた。どうやら、救急車を呼んでずっと付き添っていたが、精神力が途切れてこの場でうずくまってしまったらしい。ストレッチャーで運ばれていく自分の母親に追いつくことさえできず、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら四つん這いの格好でただ泣き喚いていたのである。

「ああああ――!!」

 と、男は声を上げていた。

「お医者さん、お願いします! 一千万円でも二千万円でも払います! 一生かけてでも絶対に払いますから! オレのお母さんを助けてください! オレのお母さんはまだ65歳なんですよ! 死んでいい歳じゃない、大往生していい歳じゃないんだ! オレを、こんなボンクラなオレを女手ひとつで育ててくれたんだ! お願いしますお願いしますお願いしますお願いしますっ、お母さんを救ってください!!」

 そういった意味のことを言い尽くすと、男は、わああああんと泣き崩れてそのままになってしまった。もちろん、彼の願いがこのまま叶うことはありえない。なぜなら彼の母親は現代医療が治せる病気のせいで倒れたわけではないからだ。彼女は幽霊に呪い殺されようとしているのである。ただただこの世に未練を残し、それを憎しみと怒りに変えて、手当たり次第に人間を害そうとしている幽霊の仕業なのだ。それは医者には解決できない現象だし、ここには彼の望みを聞いてくれる者は誰ひとりとして存在しない。医者は神様ではないし、そもそもこの世に神様など存在していない。

 そう、この状況では、萩原キリコ以外には誰ひとり解決できない問題だ。

 キリコは、ゆっくりと男に近づいた。

「だ、だだ、大丈夫ですか?」

「あなたは――?」

「私は霊能者です」

 キリコはそう名乗った。

「だ、だ、大丈夫ですよ。絶対になんとかしてみせますから! わわ、私、わた、私がなんとかしてみせますから!」


  ※※※※


 もちろんキリコがこんなことを言ったところで、相手の男が安心してくれるわけがない。ただ、男はゆっくりと立ち上がったあと、

「慰めてくれてありがとうございました。優しいんですね? お嬢さんは」

 とだけ言った。

「え、あ、ああ、あ」

「あとは運を天に任せて祈ります。――お嬢さんも早くお家に帰ったほうがいい。ご家族が心配していると思いますし」

「い、いえ、その!」

 キリコは、ただ俯いてしまった。

「わ、わ、私なんか誰にも心配される権利ないので――」

「――そうですか?」

 そうして男が病院に入っていくのを眺めながら、キリコはただ、ぎゅっと拳を握りしめていた。頭のなかにはただ、ふたつのことだけが浮かんでいた。まず新海ノボル先生の肩に憑りついていた腕だけの幽霊と、そして今さっき見かけた、老婆を呪い殺そうとしている男の幽霊である。もし仮に私があのオバケさんたちを放っておいたらきっと酷いことが起きてしまうに違いないのだ。そのことを知っていながら、見てみぬフリをすることが自分にはできるだろうか? 答えはNOである。圧倒的にNOだ。そんな風に不義理な生きかたをするくらいなら死んだほうがマシだ。

 自分自身のことは別にどうでもいいのだ。私はお父さんの期待にさえ答えられず、妹のユイカに人生の重荷を背負わせてしまったダメ人間だ。最低の姉だ。あんなにも妹のユイカはカッコいいのに自分はまだなにもできていやしない。大学に行くことすらできずに、仕事を見つけて働くことはできたものの、それでさえ優しい上司の月岡さんとキレイな先輩の田中アスカに甘やかされているだけだ。そんなアルバイトでも、大ポカをかまして診断書を貰わなければいけないことになってしまった。それが萩原キリコという女なのだ、と彼女自身は思っている。

 でもあのお婆さんは違う。大切に思ってくれている息子さんがいる。もちろん新海ノボル先生も違う。先生に助けられている患者さんは、たぶんたくさんいる。だから、助けなくてはいけないのだ。もしも彼らを助ける力が自分にあるなら、その力を使わない理由はどこにもないと思った。

「じ、ジギィさん」

《なんだい? キリコさん》

「わ、わわ、私はあのお婆さんを助けたいと思っていますし、新海ノボル先生のことも助けたいんです」

《どうして?》

「それは――」

 萩原キリコはいったん目をつぶり、そして開いた。

「わ、わ、私とジギィさんの力を合わせればそれができると思えるからです。ジギィさんの価値観はまだ私にはよく分からないですけど、でも、今日だけは私のことをサポートしていただけませんか? ふ、ふたりならきっと上手くいきます。赤の他人だし無関係かもしれないけれど、わ、私はどうにかしたいと思ったんです」

《ふうん》

 ジギィは腕を組んだ。

《キミの無意味な人助けを僕が手伝うってこと? そう言ってるわけかな?》

「えっあ」

《いいよ》

 ジギィはアッサリとそう答えた。思わずキリコはジギィの顔を見つめる。断られても仕方がないと思っていたら、ジギィのほうは簡単に承諾してくれていた。彼の価値観がまたよく分からなくなる。

《僕のほうだって、まだキリコさんのスタンスはよく分かっていないけれど、力は貸すとしよう。無関係で赤の他人でどうでもいい連中をキミが助けたいというならば、いいさ、僕は手助けをするよ。夫というものはお嫁さんの価値観を尊重するものだし、キミは僕のお嫁さんなんだからね》

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