第02話 ジギィ=ジグザグ その1


  ※※※※


 結論から言えば、萩原キリコは一週間の強制休暇を言い渡された。

 一軒家から出たキリコはそのまま街を歩いていた。指輪を外すと、漆黒のゴシック風ドレスもネイルもメイクも全て消えて、彼女は地味な普段着、Tシャツとジーンズに、すっぴんの化粧気のない容姿に戻っていた。そうして呪いの寝室にはなにも残っておらず、左手に握られていたはずの日本刀もどこかに消えていた。だから、彼女は慌てて家を出て道路を駆け抜けることにした。自分がなにに遭遇してしまったのか、なにを見てしまったのか、全く分からなかったからである。それは、今まで幽霊と名のつくものとは縁のない彼女にとって初めての経験だった。

「え、うわ、あ、あああ――!」

 キリコはただ駆け出したあと、電車に乗って自宅に帰ろうとしていた。そのとき、田中アスカからのメッセージが届いて、慌ててスマートフォン(アイフォンSE第二世代)を起動させて文字を読む。

『キリコちゃん、あれから大丈夫だったの!? ごめんね、あのインチキ霊能者マジで腕の力が強すぎてさあ、あとでむちゃくちゃシバきまくっておいた! もうあんなヤツとは仕事とかなんもやってやんないから! キリコちゃんのことを「頭がおかしい」とか「イカれてる」とか言って、最低のセクハラ野郎だよ! それはそうと、ちゃんとキリコちゃんはこのあと病院に行かなくちゃダメだからね! しっかりお医者さんから診断書をもらってオフィスに来るんだよ! ネットで調べたらああいう症状? ってマジであるらしいからさ! 本気で心配してる!』

「アスカ先輩――」

 キリコはスマートフォンの画面を見つめながら少しだけ落ち込んでいた。そうか、私、アスカ先輩に心配をかけちゃったんだ、と思った。あんなにも優しい先輩に迷惑をかけて、私はいったいなにをやってるんだろう、と感じた。

 そうして家に帰る途中のことだが、月岡さんから連続してメッセージが届いた。

『あー、キリコちゃん? 上手く言えないんだけどさ、ちょっとだけ長めの休みを取ってみようかっていう提案なんだよね。田中から聞いたんだよ。なんか心霊スポットに来た瞬間にパニック状態になってなんもかんもメチャクチャにしちゃったんだろ? あのね、それはよくないよ。俺だってキリコちゃんの事情はちゃんと分かってるつもりなんだから、ここではウソをつかないぜ! 受験のときのアレコレだって解決しちゃいないんだろう? とにかくバッチリ病院に行って診断を受けて、その後の豊かな人生のためにも正しい治療を受けるべきなんだ! 分かったかい!?』

 そういう連絡であった。

 はぁ~~、というため息が出てしまった。そのとなりで、ジギィ=ジグザグが優しい声をかけてくる。

《ずいぶん落ち込んでるみたいだけど、どうして?》

「そ、そりゃそうですよ。仕事で大ポカしちゃって」

《倒したい悪霊は倒せた。守りたい人たちは守れたんだからいいじゃないか。今後のことは今後考えればいいんだよ》

「て、ていうか――イケメンさん、えっと、普通についてくるんですね??」

 キリコは横にいるジギィ=ジグザグの顔を見つめた。やっぱり、何度見てもカッコいい男の人だなあと思ってしまう。黒のスーツに長い黒髪、すうっと通った高い鼻筋に、きゅっと締まっている薄い唇。驚くほど真っ白な肌の色。焦茶の美しい瞳を囲んでいる目つきは切れ長に細く、ピンと長いまつ毛が春光のなかで輝いているようであった。左目の下にある小さな涙ぼくろが、なにか悲しげな魔術師のような印象を彼に与えている。もし彼がテレビに出ている芸能人か有名人かなにかだったら、ただその美しさだけで何人もの女を虜にすることができるだろう。少なくとも、そんな雰囲気を纏っている青年だった。

《そりゃキミについていくさ。――なにしろ、僕はキミみたいな女の子に出会うために今まで彷徨ってきたんだからね?》


 そうして帰宅したキリコはシャワーを浴び、ジャージに着替えて自室に入った。階段を上がろうとするときに妹のユイカに呼び止められて、

「おねえちゃん〜! 見てよこれ!」

 と中間考査のプリント用紙を見せられた。

「あたし、今回も全教科100点満点でした〜! ガハハ!」

「お、おお、ユイカすごいね?」

「でしょ〜!? マジでこれはお父さんのこともすぐに追い抜いちゃうかもね! いずれ萩原製薬株式会社は全ての人を救う万能薬を開発するのだ! それを実現しちゃうのがここにいるユイカ様ってわけですよ!」

「おお~、やばい」

「同じクラスのクソ男子があたしに合計得点で負けててさあ! めちゃくちゃ悔しそうな目であたしのこと見てたんだよねえ! 超ザマァって感じだったわ! あいつ普段は『女は男よりも頭が悪い』とか言っててさ、アレ〜!? その見下してる女に負けちゃうってどんな気持ちですか〜!? 男らしく答えてくださいよ~、って煽ってやったわ!」

 ユイカは自慢げにワッハッハと笑ったあと、不意に優しい目つきになった。

「おねえちゃん、おうちのことはあたしに任せてよ。今までおねえちゃんばっかり大変な想いをしてきたんだからさ、これからは、あたしが背負えばいいだけの話だし。おねえちゃんはおねえちゃんだけの自分の夢を追い駆ければいいんだと思うぜ。いざとなったら、あたしが養ってやるよ。どーんと構えてればいいの。

 ところで、今日のお仕事はどうだったのさ? なんかイヤなことをしてくるヤツがいたらすぐに言ってね。あたしがブッ飛ばしてやる」

「ぶ、ぶぶ、ブッ飛ばすのはよくないって!」

「アハハ! おねえちゃんは優しいんだからなもお〜!」

「い、イヤなことっていうか、私が仕事失敗しちゃって」

「ちっちゃいことは気にすんな! それワカチコワカチコ~!」

 ユイカはゲラゲラと笑いながら自分の部屋に戻っていった。そんな背中を見つめながらキリコは、ああ、私の妹はすごいよなあと思った。かつて自分がお父さんの期待を背負わされていたときは、あんな風に笑える余裕もなかった気がするし、ほんのちょっとのケアレスミスで98点みたいな点数を取ったときは自分で自分の頭を殴っていた覚えがある。「このクソバカ女っ! 死ねっ死ねっ死ねっ死ねっ!」と。ユイカはそんな風にならない。自慢の妹だ。だからこそ、ユイカに家の事情を背負わせたあげくアルバイトもろくにこなせていない自分自身が不甲斐なかった。

《いい妹さんじゃないか? キミは家族に恵まれているようだね》

「だ、だから、情けないです――」

 キリコはそう答えながら自室に入って、ベッドに腰かけた。ジギィ=ジグザグのほうは床にあぐらをかいてこちらを見つめてくる。もしかして、私ってば、自分の部屋に男の人を招き入れるのはこれが初めてなんじゃないのか、とキリコは思った。どうしよう、男の人と1対1で話したことなんかぜんぜんないし、どうすればいいのか分からない、というか、ひとと話したこと自体そんなにないんだけれども。彼女はとりあえず部屋にそなえつけの炭酸水を飲んでから、本題に入ってみることにした。

「まっ、まず、幽霊さんの名前を教えてほしいです」


  ※※※※


《僕の名前はジギィ=ジグザグだよ。とはいっても、これは本当の名前じゃない。本当の名前は僕自身も思い出せない。これは昔の相棒みたいなヤツがつけてくれた名前だ》

「じ、ジギィさん――」

《あまりにも長いあいだ幽霊をやっていたからね、生前のことはほとんど忘れてしまったという感じだよ。だから、自分がこの世にどんな未練を持っているのかさえ分からない。僕としては、まあ、それを正しく思い出すために放浪の旅をしていたという感じなのかな。正しく過去を見ないことには未来に進むこともできやしない。自分がなにに悔いていたのか知らないことには、ね》

「長いあいだって、どのくらいなんですか――?」

《さて、かれこれ1000年くらいじゃないかな》

「せ、せせ、せんねん――!?」

 キリコは思わずむせかえってしまった。そして、大声を出してしまった自分の口をハッとふさぐ。そう、ジギィの姿は今のところキリコにしか見えない。キッドAさんにも田中アスカにも妹のユイカにもジギィのことは気づかれなかった。もしここでキリコがベラベラ喋っているところを見られたら、それは客観的には、壁に向かって独り言を話しているヤバい奴としか思われないのである。そんなことになったら再び長期入院大決定だ。だから、キリコとしては、なるべく声を抑えながらジギィと会話しなければならなかった。

「へ、平安時代ってことですか」

《もしも僕が日本人だとしたら、そういうことになるね。ただ、そういう人種的なことも今となっては忘却の彼方ってやつ。それに僕は幽霊としても特殊な体質なのか、生きた人間にいまいち発見してもらえないし、こうやって誰かと話して記憶を整理するチャンスもそんなにないんだ、悲しいことだけど》

 だからさ、とジギィは言葉を繋いできた。

《僕は僕を見つけてくれるキミみたいな子をずっと待ってたんだ。そうしたら、キリコさんときたら忠告を無視して悪霊の家にノコノコ入っていくんだから、仕方なく強引に助けに入ることにしたってわけ。危なかったよ――》

「そ、それは、その節はあの、ご迷惑をおかけしました」

《まあいいよ。僕としても手間が省けたし、なにしろこんなに簡単にアッサリ僕のお嫁さんになってくれたのはありがたかったからね》

 そこでキリコは、ジギィがなにを言っているのか全く理解できなくなった。

 ぽかーん、という感じであった。

「え、お、お嫁さん――って、え?」

《あれ? 伝えたと思うんだけどな》

 ジギィはにっこりと笑うと、ズボンのポケットから漆黒の指輪を差し出す。

《冥婚の契約だよ。この指輪が僕とキミを繋ぐ。僕の霊力はキミのものになって、キミの生命力が僕のものになるんだ。ただしその代償として、冥婚、いわゆる死後結婚の契りを二人は交わさなくちゃいけない。要するに、キミは死んだあとに僕のお嫁さんになることが確定してるってわけだ》

「え、えあ、え――!?」

《これは生きた人間と幽霊を結ぶ約束のなかでも、最も効力が強いものだよ。だから、すんなり受け入れてくれたのが嬉しかったんだけどな。もしかして「メイコン」がなんなのか分からないまま指輪をはめちゃったの? 目の前の敵をどうにかすることで頭がいっぱいだったってこと?

 参ったな。取り消せないよ? これ》

「ええええええええ!!」

 キリコはとうとう大声を上げるしかなかった。


 そうして翌日、キリコはかつて自分が入院していた板橋区の大学病院に向かっていた。とりあえず職場が求めているパニック症の診断書を受け取って帰るためである。寝ている間はなるべくジギィのことを意識しないようにしていたが、彼のほうでも気を遣ってくれたのだろうか、彼女の寝室から去ってどこかを彷徨っていた。だから電車とバスを乗り継いでいる道中で、キリコはほとんどジギィに対する警戒心を解いていた。なんて言えばいいのか、ともかく自分を助けてくれた人なのだから悪者ではないんだろう、という感じであったし、会話してみてその確信は強まっていた。

《昨日はごめんね――まさか知らないなんて思わなかったよ》

「い、いえ、ちゃんと確認しなかった、私のほうが悪いので」

 キリコは手のひらのなかで漆黒の指輪をコロコロと転がす。

 冥婚、死後結婚。お嫁さん確定。おっおっ、お嫁さん確定!?

 言うまでもなく、今までキリコに結婚相手や婚約相手がいたことなどない。それどころか交際相手もいなかったし男の友達もできたことはなかった。というか、友達がいない。だからそんなキリコにとっては、いきなり自分の目の前で結婚、それも死後結婚、それも美青年の幽霊との死後結婚が待っているという事実をいまいち呑み込めないでいた。結婚ってなにをしたら結婚になるんだろうか、やっぱり、毎日ごはんをつくってご主人様の帰りを待ってみたりだとか? いやいや、相手は幽霊なんだから食事とか必要ないだろう。もちろん洗濯も掃除も相手の分はないだろう。

 じゃあ、エッチなこととかは!?

 キリコは思わず耳まで真っ赤になってしまった。これまで生きてきて彼女に性的な経験などあるはずがない。だいたいクラスメイトの誰かと誰かが付き合い始めたとか、別れただとか、校外の林でアホのカップルがセックスしているところを教師に見つかって停学を食らっただとか、生徒会在籍の男女数名がカラオケボックスでフェラチオ以上のことをやって出禁になっただとか、そういう話を小耳に挟んだだけのことである。そしてその間も、キリコといえば休み時間も放課後もずっと用語集や単語帳とにらめっこをしていただけで、なにひとつ関わりを持たなかったのだ。

 そのかわりキリコがしていたことといえば――いや、これはやめておこう。誰にでも語られたくない恥ずかしいプライベートというものはある。

「お、お嫁さんになってしまったことは、取り消せないんですよね?」

《まあそうだね。過ぎてしまったことは仕方ない、前向きに捉えよう》

「で、でで、でもっ、お嫁さんってなにをしたらいいんでしょうか?」

《別に特別なことはなにもしなくていい》

 ジギィは朗らかに笑った。

《ただ、普通に生きていて、僕が自分自身の過去を思い出せるようなものを見つけたらそれを教えてくれるだけでいい。僕の願いといえば今のところそのくらいのものだからね。とはいえしかしまあ、せっかく一蓮托生になったんだよ。仲良くしておくに越したことはないんじゃないかと僕は思うけど、キリコさんはどう思う?》

「え、えあ、私――?」

《僕もキミの手助けをしようって話かな。キミにもやりたいことがあれば、それについてはきちんと力を貸そう。なにしろ、好むと好まざるとに関わらず、キミはもう僕のお嫁さんになってしまったんだからね――》


  ※※※※


 病院に辿り着くと、キリコはウッと胸が詰まるような気がした。板橋区にある大学病院はほとんど窓がなくて、どこを歩いても地下室に閉じ込められているような気がしてくる。それに加えて、一階も二階も三階も、そのあともずっと同じような間取りで建物が続いていて自分がどこにいるのか分からなくなってくる感じがした。入院していた頃はそれに耐えきれずに長いあいだ数少ない窓を眺めたり、看護師長に「そ、外を散歩して良いですかね?」とお伺いを立てて駐車場あたりを歩くことで気を紛らわしていた。こんなことを言ったら怒られるだろうが、いればいるほどむしろ病気になりそうな建物だ。

 萩原キリコは再来機に診察券のカードを入れて心療内科行きのチケットを受け取り、椅子に座って待ち、番号で呼ばれて診察室に入った。そこには入院中ずっと面倒を見てくれた担当医の新海ノボル先生が座っていて、少し穏やかに笑いながら、

「お久しぶりです、どうぞ座って?」

 と手を差し伸べてきた。

「は、はい」

「今日はどうしました?」

 そう訊かれて、キリコは自分の身に起きたことを(ウソを交えて)伝えることにした。当たり前だ、本当のことなんて言えるわけがない。『仕事の都合で心霊スポットに行ったら本物の幽霊に襲われて、しかも別の幽霊と冥婚の契約を交わしたら強くなったので撃退できました。だけどこのあとお嫁さんになることが確定しているんです』だ。誰にも信じてもらえるはずがないことは分かっている。だから、キリコはこう言い換えることにした。『仕事の都合で心霊スポットに行ったら緊張しすぎて発作みたいな状態になってしまって、職場の人に迷惑をかけた。念のため診断書を持ってきてほしいと言われてしまった』、と。

「ふうむ、なるほどね」

 新海ノボル先生はカルテにボールペンを走らせた。

「萩原さんが経験したようなことは、ぼくの他の患者さんもよく言っていますよ。ホラー映画を見ていたら震えが止まらなくなってしまったとか、心霊写真みたいなものを見たり恐怖体験談みたいなものを読んだりしたら怖くて涙がずっと流れてしまったとか。見えるはずのないものが見えたり、聞こえるはずのないものが聞こえたりね。もともと心が弱っているときに恐怖というのはとても危険な感情なんですよ。ましてやキリコさんは原因不明のストレスでこの前まで入院していましたから。他の人よりも心霊スポットのイメージというか先入観に当てられてしまっても仕方がない」

「そ、そ、そういうものなんですか?」

「はい。でも、それはあくまで一時的な感情の昂ぶりにすぎません。再発がないなら大丈夫なはずですよ。これからは安心して働ける程度の業務だけを職場の人たちにお願いするといいと思います。とりあえずは、眠れていますか? 眠れているなら、お薬は出さないでおきましょうかね。食事はどうでしょう?」

「は、は、はい。眠れています。ごはんも食べています」

「それはよかった!」

 新海ノボル先生はにっこりとした。

「またなにか、気になることがあったら来てくださいね。今後もアルバイトがしやすいように、診断書には大袈裟なことは書かないでおきますから」

 キリコは彼の言葉を聞いて、とりあえずほっとできた。よかった、上手く切り抜けられたという気持ちだった。それに、仕事を続けられそうなのも安心した。ただでさえなんの取り柄もない私なのに仕事までできなくなったらそれこそ人生終わりだ。彼女はそう思って新海ノボル先生の顔をゆっくりと見上げた。

 新海ノボル先生の肩に、幽霊の手がガッシリとしがみついていた。

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