第01話 萩原キリコ その3


  ※※※※


「ひ、ひっあ、ああああ――!?」

《なんでだ――!?》

 化け物はさらに乱暴に腕を振るってくる。バチンと、火花の散るような音が聞こえて視界が一瞬だけ真っ暗になったかと思うと、チカチカと点滅して、次に身体全体が傾くほどの衝撃と、鼻っ柱に鋭い痛みが走った。それは、化け物の右手が思いきり萩原キリコを平手打ちした痛みだった。

 鼻血が噴き出し、彼女は寝室の床に倒れる。ボタボタと真っ赤な血が畳張りの床に垂れていった。

 どうしよう、どうしようどうしようどうしよう、と彼女は思った。

 そして次に、

「あ、ああっ、アスカ先輩! きっ、き、キッドAさんを連れてっ、早くここから逃げてください――!」

 そう怒鳴った。

 田中アスカが、驚愕と、困惑と、恐怖の表情で自分の姿を見ているのをキリコは見た。今の彼女には、自分はどれだけ不格好に映っていることだろう。長い黒髪は乱れて、色素の薄い化粧っけのない肌は真っ赤な血で汚れている。とくにオシャレも考えていないような服は化け物の攻撃で破れかけているし、その下にある痩せっぽっちの小さい体はどこもかしこも激痛でズタボロだ。

 でも、助けなくちゃと思った。私はアスカ先輩を助けなくちゃ、と彼女は思った。

 自分自身のことは別にどうでもよかった。私は病気になって、お父さんの期待に応えられなかったダメ人間だ。そのせいで妹のユイカにも重荷を背負わせてしまった。優しい人たちに甘やかされるようにこの職場にいさせてもらっているけれど、本物になるような自分自身の居場所も役割もまだなにもない。そんな資格はない。だけど、アスカ先輩はきっと私とは違うと思う。だってアスカ先輩は、こんな私とは比べものにならないくらいカッコいい女の人みたいに見えるから。

 それに、とキリコは思った。キッドAさんは大人気の霊能者ユーチューバーって言っていたから、ここでもし死んでしまったら色んなファンの子が悲しむかもしれない。それは絶対にダメだ!

 だからキリコはアスカを真剣な表情で見つめた。

 もちろん、そんなキリコの想いはアスカには伝わらない。キリコの目に見えている化け物の姿がアスカには見えていないからだ。アスカには、いきなり後輩の女の子が心霊スポットで原因不明のパニックを起こし、暴れ回って怪我をしているようにしか見えないのだ。そんな女の子を置いて自分ひとりだけで一軒家から出ていけるわけがない。普通はそう思うものなのである。

「なに言ってんのキリコちゃん! マジでちょっとヤバいよ! もう無理やりキリコちゃん抱えて連れてこっから出てくからね! そしたら病院行くよ病院!」

 そうアスカは言うと、寝室に入ってこようとした。

 ダメ、ダメ、入ってきちゃダメ、とキリコは思う。

 しかしラッキーなことに、キリコの願いを叶えてくれたのはキッドAさんだった。彼は強引にアスカの右腕を握ると、そのまま廊下を走って階段を駆け下りた。

「もういい! こんなの付き合いきれるか!」

「ちょっ、キッドAさん! 放して! 放してください! 痛いッ!」

「あんなに頭のおかしいガキがいるなんて俺は聞いてないぞッ! パフォーマンスで流血沙汰なんてやりすぎもいいところだろ! あのままじゃアスカちゃんに殴りかかってきてもおかしくない! とにかく、俺は帰る! 君も来い! 今後のビジネスについては後日また話し合うってことにさせてもらうからな! そのときはあのイカれた自称霊感少女は絶対に連れてくるなよ!」

 キッドAさんは怒鳴りながら、アスカを乱暴に引き回して一階へ下りていった。


 どすどすどすどす、という怒気に満ちた足音が遠くなっていく。キリコは朦朧とした意識でそれを聞きながら、よかった、と思った。だがそれも束の間のこと、化け物が二人を追い駆けようとしている気配を感じた。こちらに対する攻撃をやめて、寝室から出ようとしているのだ。

「! だめっ!」

《!? おまえ――!》

 キリコは化け物の脚にしがみついた。

 ぞっとするような感覚に満ちていく。明らかに人間の体をして動き回っているのに、生きた体温を一切感じなかった。やっぱり、このオバケ、本当に死んでいる人なんだとキリコは改めて思った。そしてそれ以上に恐ろしいのが、化け物の強靭な力の強さである。キリコは必死に化け物の脚に捕まって相手の進みを止めようとしているのに、ずるずると、化け物はキリコごと引きずるように脚の動きをやめなかった。それはキリコ自身のひ弱さを考えた上でなお異常な事態である。おそらく、これが筋骨隆々の男性の格闘家だとしても幽霊の動きを諦めさせることはできないだろう。

 やがて、キリコの両腕から化け物の脚がすっぽりと抜ける。直後、化け物は思いきりキリコの背中を踏みつけてきた。とうとう胃液が食道から逆流し、キリコは口から大量のゲロを吐き出す。イヤな味が喉のなかに溢れて、おえええええ、と、キリコは涙と鼻水にまみれながら嘔吐物のなかに沈んだ。次に化け物は彼女の体を勢いよく蹴り上げて、まるでサッカーボールみたいにキリコを床に転がしていく。どこまでも、為すすべがない。とうとうキリコは化け物に首を掴まれると、そのままゆっくりと持ち上げられていった。息が苦しい、というよりも首の骨そのものが折れそうになる。

「がはっ! が、あ――!」

《おまえ、なんで? なんであのふたりを、にがした?》

「お、おばっ、オバケさん! もうやめましょう――!」

《ああっ?》

「あ、あなっ、あなたが憎かったのは、だ、旦那さんだけのはずです! もう、その旦那さんはいないんですよ! だからっ、もう復讐する相手はいないんです! 誰にも仕返しはしなくていいんですよ!」

《――!?》

 そう。この一軒家でかつて起きた事件をキリコはきちんと下調べしている。被害者の名前は赤西ユキノ。かつて、自分の夫である赤西トウマにありもしない浮気を疑われて生活を監視されるなどの束縛をされたあと、やがて殴る蹴るなどのDVを受け、最終的に刃物で刺されたあげく首を絞められて殺害された女である。その赤西トウマは彼女を殺害した直後、死体を始末することもなく山奥で首を吊って自殺したと結論されている。彼女の憎しみにはもうなんの行き場もない。だから、言ってしまえば、この一軒家に残された彼女の幽霊がしているのはただの八つ当たりなのである。

 最初は自分の家に土足で踏み入ってくる者を追い払おうとしただけだった。そのとき、自分の姿を見せようと思えば見せられることに気づいたし、呪おうと思って手で触れた相手なら呪えることにも気づいてしまった。やがて行為はエスカレートして、寝室に入ってきた人間をそのまま嬲り殺しにできる自分自身の腕力を知った。生前は男に暴言を吐かれたり、殴られたり、蹴られたりするだけだった自分が、今度は誰かを好き放題に殺すことができる立場にいる。その事実は、赤西ユキノの感情を簡単に怪物へと変えてしまった。これがキリコも知らない真相である。


  ※※※※


「ぐ、う、ううう――!」

《しったようなことを、いうな! おまえに、あたしの、なにがわかる――!》

 化け物はキリコの首を絞める腕の力をさらに強くしていく。それを感じながら、あ、もしかしたら私はここで死んじゃうのかもしれないな、とキリコは思った。

 そのときのことである。

 寝室にもうひとり、謎の美青年が乱入していた。黒のスーツに長い黒髪、すうっと通った高い鼻筋に、きゅっと締まっている薄い唇。驚くほど真っ白な肌の色。焦茶の美しい瞳を囲んでいる目つきは切れ長に細く、ピンと長いまつ毛が、薄暗い寝室のなかでも輝いているようであった。左目の下にある小さな涙ぼくろが、なにか悲しげな魔術師のような印象を彼に与えている。もし彼がテレビに出ている芸能人か有名人かなにかだったら、ただその美しさだけで何人もの女を虜にすることができるだろう。少なくとも、そんな雰囲気を纏っている青年がそこに立っていた。

 同時に、寝室の窓ガラスが全て割れた。

 パリイイイイィィィン、と、まるで世界が砕けるような音が聞こえた。あらゆる破片が宙を舞いながら床に舞った。

 彼がどこから入ってきたのか誰にも分からない。キリコも、化け物も、真っ先にその存在に気づいた。そして化け物はキリコから手を放し、ニ、三歩ほど後ずさりをした。

 他方で解放されたキリコはその場に崩れ落ちると、ゲホッゲホッと、何度も咳き込みながら呼吸器官の調子を取り戻していく。そうして意識をはっきりさせて、彼女はひとつのことだけを思い出していた。あの男の人、この一軒家に入る前に私に声をかけてきたあのキレイなあの人だ。《この家には入らないほうがいいよ》と忠告してきた、あの人がいる。あの人がこの怖い部屋に来てくれているってことだけど、でも、どうして、なんで? キリコにはなにひとつ分からないままだった。

 化け物は表情を変えた。

《おまえ――だれだ!?》

《ごめんね、哀れな幽霊。君について大した恨みは僕にはないんだが、彼女のことは助けさせてもらう。彼女は、なにしろ僕の特別だからね》

 美青年は静かにそう言ったあと、手のひらをヒュンと動かした。次の瞬間、化け物は風に吹かれたように宙を舞い、勢いよく壁に打ちつけられた。バン! という強い音が鼓膜に響いてくるかのようである。

《があ、あ、ああああ――!!》

「えっ、え、ええええ――!?」

 キリコは思わず声を上げるしかなかった。これまで手も足も出なかった怪物が、いきなり現れた美青年にあっけなくやられているのだから。彼はいったい何者なんだろう、とキリコは思った。そもそも彼についてはおかしいことがいくつもある、と彼女は感じた。唐突にこの寝室に現れたあと窓が割れた、が、理屈としては、窓を割ったあとこの部屋に入ってきたと考えるのが普通ではないだろうか。まるで、本来あるべき出来事の順序があべこべに起きているみたいだった。そういえば、手のひらを振っただけでオバケさんを遠ざけた今の現象はなんなんだろうか?

 そんな彼女に対して、美青年はゆっくりと表情を向けてくる。

《キリコさん、だったよね? ――周りの人がそういう風に言っていたから君の名前くらいは分かっているよ?》

 美青年はそう言いながら、彼女に近づいてきた。キリコは思わず頷くと、彼は次に優しく屈みこんできた。

《駄目だよ、キリコさん。あの幽霊はもう助からない。たしかに彼女が呪い殺すべき夫は既にこの世にいないけれど、あの化け物は、死んだあとに手に入った自分の力に溺れて好き放題しようとしているんだぜ。いまキミが止めなければ、アイツは、これからもこの家屋を訪れた人間を無差別に呪い続けるし、殺し続けるんだよ。なにか説得しようとするのは無意味だと知るべきだ》


「え、あ、えあああっ――!?」

《で、キミはどうしたい――?》

 美青年はじっくりとキリコの顔を覗き込んできた。彼女のほうは混乱していたが、どうしたいのかと訊かれたら、答えはひとつしかなかった。

「な、なんとかしたいですっ!」

 キリコは、大声を出していた。

「な、なな、なっ、なんとかできるだけの力が欲しいですっ!」

 その答えを聞くと、美青年はにっこりと微笑んだ。そして右の握り拳を差し出し、キリコの目の前でパッと手のひらを開く。なにかが彼の指のなかから零れ落ちた、だから、キリコは慌てて両手を差し出してそれを受け取った。

 それは、真っ黒な指輪であった。

 不思議なことに、ぴったりとキリコの薬指にはまるサイズである。特に複雑な装飾や宝石の類が刻み込まれているわけではないが、暗がりのなかでも輝いて彼女のためだけの灯かりになるようだった。指輪の内側には細やかなラテン語でこんな風に刻まれている。「In manus tuas commendo spiritum meum」。日本語に訳すと、「私の魂は、あなたの手のなかに」という意味であった。

《冥婚の契約だ。それを指にはめて、心に浮かんだ言葉を唱えるといいよ。そうすれば僕の力はキミのもの、そして、キミの力は僕のものになる。いいかい?》

「あ、ああ、あ――?」

《さあ、どうするの?》

 美青年にじっと見入られながら、キリコは、手渡された真っ黒な指輪を薬指にはめた。とにかく、なんとかしなければいけない。なんとかしなければいけないから、彼女は指輪をはめたあとで、頭のなかに響いてくる言葉をそのまま口にしていた。誰かが教えてくれたわけではなくて、上手くは言えないが、ズキズキと脳ミソに喚いてくる痛みがそのまま言葉の形になって彼女にそれを喋らせていたという感じだった。

「えっ、エンゲージ!」

 それが合図であった。

 目の前にいる青年の名前はジギィ=ジグザグ(もちろん、これは生前の彼の本名とは全く異なっている)。彼は1000年以上この世を彷徨ってきた世界最強の悪霊である。ただしその強さとは裏腹に、ジギィは誰かを依り代にすることでしか本領を発揮できない。それゆえ彼は探し求め続けてきたのである。自分の力を注ぎ込まれても壊れることのない、そして自分の能力を自分以上に引き出してくれるような存在を。萩原キリコという少女は、当人は全く自覚していない、が、そういう才能の持ち主だった。言い換えれば彼女は最強の霊能者としての天性を持って生まれてきたわけだ。

 エンゲージとともに激しい黒光が彼女を包み込む。眩しさのあまりキリコは思わず目をつぶったが、瞼を開いたときにはあらゆる景色が一変していた。まず、キリコの傷は全て治癒していた。鼻血も止まっている。全身を苛んでいた激痛は一切消え失せていたし、吐き気の原因になっていた内臓も全て元どおりになっている。そして彼女の全身をゴシック風の真っ黒なドレスが包み込んでいた。爪も、唇も、死化粧のような黒一色。そしてここからが肝心なところなのだが、ジギィはその場から消え去っていた。

 彼がいなくなった代わりに、キリコの左手には、黒艶の鞘に包まれた真剣の日本刀が握られていた。


  ※※※※


「な、な、なんですか、これ――!?」

《これが契約だよ》

 ジギィの声が頭のなかから直接響いてきた。

《いま、僕はキミの剣になった。剣である身分に徹することによって、僕は僕の力を完璧に引き出すことができる。僕の霊性がキミの身体を癒して守る代わりに、キミの生命が僕の能力を十全なものにする》

「へあ、あっ、あああ――!?」

《さあ、そろそろ相手の幽霊が起き上がるぞ。チュートリアルみたいなバトルは簡単に済ませてしまおう》

 彼に促されるように、キリコは化け物のほうを見た。先ほど壁に打ちつけられて倒れていた怪物は、ゆっくりと立ち上がってこちらを睨んできていた。

《おまえら、ころしてやる――どいつもこいつも、のろう!》

「!」

 突き進んでくる幽霊、赤西ユキノに対してキリコは剣を構えてガードする。ガッ! という衝撃とともにキリコは突き飛ばされて壁に背中を打ちつけられるが、全く痛みを感じない自分に気づいた。すぐに起き上がり、日本刀を構え直すことができる。

「い、痛くない――なんで――!?」

《僕の霊力でキリコさんをガードしているからさ。幽霊の力には同じ幽霊の力でしか対抗することができない。本物の霊能者たちは、だから、必ず相棒になるような幽霊を従えて現場に赴くものなんだ。あの「キッドA」とかいうインチキ野郎にはそういうバディがいなかったからね。すぐに、キリコさんには別の助けが必要だと気づいたんだ》

「な、な、なるほどです――!」

 キリコはきゅっと唇を一文字に引き締めると、日本刀を黒艶の鞘から引き抜いて中段の構えにした。剣道における王道中の王道の構えで、かつて義務教育課程で教わったことのあるポーズだ。刀は真っすぐ、切るべき敵のほうに向けたまましっかりと体勢を整える。

《がああ、ああ、ああああ――》

「お、お、オバケさん! 私、わた、わ、私っ、あなたを斬ります!」

 キリコはそう宣言してから、大きく日本刀を上に振りかぶって、うわああああと、悲鳴のような声を出しながら振り下ろした。思わず目をつぶってしまったので、物理的に刀剣が怪物に命中したのかどうかはよく分からない。ただ、バスン、という、残酷なまでに肉を引き裂くような音がしたかと思うと、

《アアアア、アアアア――!!》

 と、地獄の底から聞こえてくるような断末魔がキリコの耳を貫いた。それはこの一軒家に囚われている悪霊、赤西ユキノの声だった。なぜ彼女が死後もなお自分の家にずっと囚われていたのかは誰にも分からなかった。だが、もしかしたらこういう可能性もあるのではないだろうかと《僕》は思う。夫に浮気を疑われて心と体を痛めつけられる前、そのときは、この場所は彼女にとって幸せな場所だったのではないか、と。だからずっとそこにいて自分の居場所を守ろうとしていただけだったのではないかと。彼女が再殺されたあとでは知るよしもないことだが。


 キリコは刀を振り下ろしたあと、じわじわと瞼を開けた。そのときにはもう、この寝室に幽霊はいなくなっていた。ただ返り血にまみれた彼女の手には、漆黒の日本刀が握られているままだった。もちろん、その血は幽霊の血であるがゆえ、彼女以外の誰にも見えないのである。ただただ寝室の割れた窓から日差しが覗く、そんな不思議な状況で、キリコは部屋の天井を眺めながらボーッとしていた。まるで全てが夢であるかのような気がしてしまったからだ。ただ、それでも、左手の薬指にはめられたエンゲージ・リングだけは紛うことなき本物であった。

 全てはここから始まったのだ。2024年5月16日。

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