第01話 萩原キリコ その2


  ※※※※


 こうして、車は後部座席にキッドAさんを乗せて練馬区の一軒家に向かった。途中で空気も少しずつ和らいできて、雑談みたいな感じになる。

「田中アスカさん、だったっけ? 俺が言うのもなんですけど、どうしてオカルト雑誌専門のライター業なんてやってるの?」

「ああ、親戚の手伝いですよ。弊社の月岡が遠縁っていうか」

「なるほど。じゃあ、ちゃんと本業が見つかったら辞めちゃう感じで?」

「まあ、どうなんですかねえ。ちゃんと良いところが見つかったらの話ですけど、今はどこも厳しいですし」

 田中アスカが話題を軽くかわすと、キッドAさんもそれ以上聞こうとはしなかった。

 代わりに彼は、今度は萩原キリコのほうに話しかけてきた。バックミラー越しに彼と目が合うと、キリコは急いで視線をそらす。ジロジロと見ている変な奴だと思われていたらどうしよう、と彼女は思った。

「で、君は――名前なんだっけ?」

「わ、わた、私の名前ですかっ?」

「俺が君に話しかけてるんだから、君の名前だよ?」

「はぎ、わあっ、萩原キリコです」

「キリコちゃんね――キリコちゃんはどうしてこの仕事を?」

 キッドAさんは何気ないノリで質問をしてくるが、キリコのほうは、思わず胸がぎゅっと握りつぶされるような感触を覚えた。どうしてこの仕事を? 本当はお父さんの期待に応えるために勉強して、良い大学に入って跡を継がなくちゃいけなかったくせに? 優しい月岡さんとカッコいい田中さんに甘えながら、お前はここでなにをやってるんだ? 自分で自分を責めるような言葉が浮かんできて、彼女はすぐに返事をすることができなかった。

 だからキッドAさんの問いかけに答えたのは、そこに割り込んで助け舟を出してくれた田中アスカだった。

「キリコちゃん、もしかしたら霊感があるかもなんですよお! 面白くないです?」

「え、えっ!?」

 キリコはアスカのほうを見た。が、アスカのほうは気にしない様子で言葉を繋げた。

「キリコちゃん、去年ちょっと病気しちゃって大学には入らなかったんですけど、その病気が現代の医学をもってしても解明できなかったんですよ。今はうちでバイトしてもらってるんですけどねえ。これって、さっきの話に出てきた霊障ってやつじゃありません? キッドAさんならなにか分かるかもしれないと思って、弊社の月岡の発案で、今日はこの場に同行させていまして」

「へえ」

 キッドAさんは興味深そうにキリコを見つめた。

「ずいぶん病気で大変な思いをしたんだね、君。なのにもう働いてるなんて偉いな」

「えっ、あ、そんな、私、偉くないです――」

「たしかに名前のない病気も、幽霊の仕業であるケースがとても多いんだ。そして幽霊は霊感が特別に強い人間、幽霊を見る力が秀でている人間のもとに現れてくる。自分の存在に気づいてほしいからね。キリコちゃんにそういう才能がある可能性は充分に考えられると思うよ。まあ、まだ詳しく君のことを『見て』るわけじゃないから分からないけど」

「そ、そ、そうなんですか――」

 キリコは縮こまる。特別だとか才能だとか、今の自分に全く似合わないような言葉が出てきて気まずいというのが正直なところだった。だが、キッドAさんは話を広げていく。

「だけど、注意したほうがいい。幽霊を引き寄せる体質なのに身を守る術を知らないということは、悪霊の危険に野晒しにされているということだからね。目当ての家に着いたら、なるべく俺のそばから離れないようにしないと」


 やがて車は練馬区の一軒家に到着した。キッドAさんは颯爽とした雰囲気で後部座席のドアを開けると道路に降り立った。ふむふむなるほど、といった様子で、邸内にある中規模の一軒家とその庭を見つめている。キリコはいそいそとシートベルトを外して、足をくじかないようにゆっくりと助手席から降りると、キッドAさんがなにか分かったような顔をして観察を続けているうしろ姿を静かに眺めた。やっぱり、幽霊がそこにいるかどうか見るだけで分かるものなのかなあ、と思っていると、田中アスカが車を道路のわきに停めてから彼女のもとに駆け寄ってきた。

 そして、二人だけに聞こえる程度の声量で耳打ちしてくる。

「ねえねえキリコちゃん、気をつけたほうがいいよ?」

「えっ?」

「さっき『俺のそばから離れないように』って言ってたけど、あの人、ちょっとセクハラっぽいかもしれないから」

「あ、あのでも、その、それは私のことを心配してくれるからじゃ?」

「なに言ってんの!?」

 アスカは呆れた様子で言葉を繋いだ。

「あいつが言ってることとか、全部インチキに決まってるでしょ? 幽霊なんかこの世にいるわけないじゃん。なんか適当なこと言って、心霊スポットを巡るついでに若い女の子とイチャイチャしてやろうとか思ってるんだって。ユーチューバーなんかやる男はみんな社会不適合者の人格破綻者に違いないんだからさあ、キリコちゃん、ダメだよボケっとしてそういう男に騙されちゃ」

「え、ええええ――!?」

「キリコちゃんって自覚がないみたいだから言っておくけど、かな〜り可愛いからね。自己肯定感が低いと足もとを見られて狙い撃ちにされちゃうから、マジで注意が必要だよ」

 アスカはキリコの肩をポンポンと叩いたあと、キッドAさんのもとに走っていった。

 キリコのほうはそんなアスカとキッドAさんの背中を見つめながら、うーん、そうなのかなあと思った。彼女には幽霊が本当にいるかどうかなんて分からない。だから、キッドAさんとアスカのどちらが正しいかなんて知るよしもないし、こういう心霊案件を面白がっているだけの月岡さんが不謹慎なのかどうかも判断できない。

 キリコは大した意味もなく一軒家の周りを歩いてから、ようやく、庭門のほうに足を進めてみた。キッドAさんはまだなにかを調べている様子で、ふーむとか、うーむとか、それっぽい声を出しながらスタスタと塀の周りを歩いているようだ。キリコのほうはそんな彼の仕草をなんとなく眺めながら、ふっと、

 玄関口の庭扉の前に一人の美青年が立っているのを見つけた。

 あれっ? とキリコは思った。だって、今までここにこんな人が立っていたなんて気づかなかった。

 とても綺麗な男の人だなあとキリコは思った。黒のスーツに身をまとって、長い黒髪を春の風にたなびかせている。すうっと通った鼻筋は高くて、薄い唇がきゅっと締まっている感じだった。肌の色は驚くほど白かった。いやキリコもどちらかといえば色白と言われるほうなのだが、彼女とは違い、なにかどことなく不健康で不健全な美しさを思わせる異質な白さが彼の肌には現れているように見えた。その美青年は、まっすぐな眼差しで件の一軒家のほうを見つめていたのだが、不意にキリコの視線に気がつくとフッと微笑んだ。

《ねえ、キミ?》

「ええっ――?」

《この家には入らないほうがいいよ。はっきり言って、このままだと死ぬぜ》

 美青年がそんな風に言うので、キリコは思わず声を上げた。

「あ、あの、それってどういう意味ですか――?」


  ※※※※


 キリコの声に反応したのは、しかし、その美青年ではなかった。キッドAさんと田中アスカは彼女の言葉を聞き、すぐに駆けつけてきた。

「どうした、キリコちゃん!」

「なんかあったのお――!?」

 キリコは二人のほうを振り返って、それから美青年を指差した。

「さ、さっき、あっ、そこの男の人に変なことを言われて――!」

 だが不思議なことに、キリコが指差した先には誰もいなかった。さっきまで彼女に呼びかけていた美青年は、もうどこにもいなかったのである。

「あ、あれ――?」

 キリコは首を傾げた。キッドAさんは不審そうな表情を浮かべて彼女の指先と彼女の顔を交互に見ていたが、

「まあ、なにかの見間違いだろう。あるいは、既にこの家の幽霊が俺たちに働きかけているということかもしれないな」

 と一人で納得し、そろそろなかに入ってみようというノリで、門戸を開くと家の庭の内側に向かっていった。一方の田中アスカはキリコに再び耳打ちで、

「心霊スポット巡りとしてはなかなかの導入じゃん? キリコちゃんナイスだよ!」

 と囁いてきた。どうやら、オカルト記事執筆のための演技かなにかだと思われてしまったらしい。

 キッドAさんはドアノブに手をかけると、土足のまま屋内に入った。そのまま田中アスカと萩原キリコの案内をする。

「鍵はかかっていなかったみたいだね、アスカさん――どうやら俺たちがここに来る前にも色んな来訪者が現れたせいだろう、この一軒家はある種の無法地帯になっているらしい」

「おお、なるほどですねえ」

「実際の殺害現場は二階の寝室だと言われているよ。まずはこの階段を上がってみよう」

 そんな風に家のなかへと入っていく二人のあとを、キリコは慌ててついていった。そのとき既に、先ほどの美青年のことは頭から消えていた。今は、まずきちんと仕事をこなすことのほうがとても大事なのだ。だからキッドAさんに、

「さっきも言ったよね? 俺から離れようとしないで」

 と言われたらピッタリくっついたし、逆にアスカに腕を掴まれて、

「やっぱりこいつただのスケベ野郎だって! キリコちゃんガチで自分の身を守ったほうがいいよ!」

 と言わんばかりに引き剥がされたらすぐにキッドAさんから離れる、ということの繰り返しだった。それから二階の事件現場まで三人は辿り着いていたわけだ。

 ただ、そんなキリコにも分かることがひとつだけあった。

 この家は本当に変だ。ただ玄関から入って階段を上がり、二階まで来ただけなのに、キリコは頭痛と目眩と吐き気に襲われていた。それはちょうど、高校生時代の模擬試験や本番の受験会場で味わった気持ち悪い感じによく似ていた。ウッ、とゲロがこみ上げてくる感じがしてきて頭が強い痛みを訴えてくるのだ。目眩もしてくる。キリコは思わずヨロヨロと姿勢を崩し、隣のアスカに、

「どうしたの?」

 と心配されて抱き止められたあとも、どうすればいいのか分からなかった。そうしてキリコは苦痛に耐えつつ、なんとか姿勢を戻して事件現場の寝室をその目で見た。

 そこに幽霊がいた。

 いや正確に言えば、キリコにしか見えなくて他の二人には見えない化け物がいた。ぐちゅぐちゅ、と音を立てながら口のなかにある人肉を咀嚼している女がそこにいたのだ。なんで人肉だと分かったのかといえば、唇からはみ出ている部位が明らかに人間の手首だったからである。

《ぐじゅる、ぐじゅる、ぐじゅるるるるるるるるる》

 と幽霊は呻いていた。髪は恐ろしいほどに長くて顔をすっぽり隠している、だから表情は少しも分からなかった。着ているのは白のワンピースだろうか、が、それも血の色に汚れていて黒く染まっていた。つまるところそれは、何十年も前に実の夫から浮気か不倫かを疑われたあげく、ナイフで刺されて首を絞められ絶命した女が、未だに自分の一軒家に留まっているということなのだ。要するに噂は本当だったのである。ここで夫から暴力を受けて死亡した女はたしかにいて、今でもこの家にいて、訪れてくる者を手当たり次第に呪っているというわけだ。

「うわ、わ、ああああああああ!」


 萩原キリコの悲鳴はすぐにキッドAさんと田中アスカを振り向かせた。しかし、二人には幽霊の姿は全く見えていないらしい。

「どうした、キリコちゃん?」

 キッドAさんは呑気にそう言って、アスカは、

「キリコちゃん、もう取材用の芝居は要らないから!」

 と声を上げた。要するに、二人は幽霊に全然気づいていない!

 キリコは二人を見て、それから幽霊のほうを見て、忙しなく首を交互に動かした。そうこうしている間に、寝室にいる幽霊はゆっくり立ち上がって、こちらに向かってこようとしていた。キリコとしては今すぐここから逃げ出したいという気持ちでいっぱいになるが、とはいえ、あの幽霊が見えていないキッドAさんと田中アスカをここで放置していいのかと葛藤した。そうだ、幽霊が見えていないからといってその悪影響を受けないというわけではないのだ、たぶん。だとしたらここで逃げたら、今度は二人が新しい霊障とやらの犠牲者になるかもしれない。

「ふっ、ふた、二人とも逃げてええええ!」

 キリコはそう怒鳴ると、両手を広げて部屋の入り口に立った。そこに向かって幽霊は突進すると、キリコの腹のあたりを勢いよく殴りつけてきた。うっ、おえっ、と吐き気がさらにこみ上げてくる。それだけではなく、幽霊のパワーがあまりに強すぎて、彼女はそのまま部屋から突き飛ばされて廊下の壁に体を打ちつけた。不幸中の幸いといえばキッドAさんと田中アスカに彼女がぶつからずに済んだことである。キリコのほうは、口もとから胃液を吐きながら壁に背中を叩きつけられ、床に崩れ落ちた。それは幽霊の見えないキッドAさんとアスカにとっては、キリコがいきなり宙を舞ったようにしか見えない。

「キリコちゃん! いったいどうしたんだ、大丈夫か!」

 キッドAさんはキリコに駆け寄ると、その背中をさすろうとしてくる。だが、今のキリコにとってその手の優しさは別に必要ではなかった。目下、キッドAさんと田中アスカをどうやってこの家から逃げさせるかのほうが大事なのである。彼女はすぐに、

「こ、ここ、やばいです! ゆ、幽霊がガチでいます!」

 と叫んだ。

「き、きっ、キッドAさん、れ、れれ、霊能者ですよね? どど、どうしましょう!」

 ともキリコは言った。

 だが、キッドAさんはポカーンとした表情を浮かべていた。当たり前の話ではある。現実問題として、彼は別に幽霊が見えるというわけではないのだ。ただ、そういうことをSNSやユーチューブで話したら女の子の視聴者が増えるからそういう風に振る舞っているというだけのつまらない男なのである。今までこの心霊スポットに訪れてきた同業者たちがトラブルに見舞われてしまったという話を聞いたときも、実際には、どうせ話題づくりのためにありもしない事故や病気をデッチ上げてきたんだろうと思ってきたわけだ。要するに、今この場ではなんの役に立たない男だった。

 そのことをまだキリコは知らない。


  ※※※※


「なに言ってるんだ、キリコちゃん、ハハハ」

 キッドAさんは少し乾いた笑い声を上げる。

「なるほどね、オカルト雑誌の編集プロに勤めるアルバイトとして、映えになりそうな霊障の演技をしてしまう気持ちは分かる。尊敬はするよ。だけど、いくらなんでも部屋から吹き飛ばされるフリをするなんてやりすぎだろ? ちょっと考えてごらんよ、そういうものには事前の段取りってやつがあるんだぜ。急に君がものすごい霊感少女なんて設定を教えられてもこっちが対応しきれるわけがないだろう! 頭を使えよ! エンターテインメントってのはテンプレどおりにやらなきゃいけないバカがつくってバカが見るジャンルなんだよ! 下手な創意工夫はやめろ!」

「な、な――なに言ってるんですか」

「あのさあ! 幽霊なんかいるわけないだろって話をしてるんだよ! 見えないものが見えてるギャグなんてさあ!」

 キッドAさんはちょっと苛立たしげに声を張り上げた。

 その間にも、寝室の幽霊はもういちど立ち上がってキッドAさん、田中アスカ、そして萩原キリコを睨みつけてくる。

《ぐじゅる、ぐじゅる、ぐじゅるるるるるるるるる!》

 幽霊はうめき声を上げながら、さらに突進してくる。キリコはキッドAさんとアスカの二人を見たあと結局こう判断した。キッドAさんは本物の霊能者じゃない。いや本物の霊能者なんてものがいるのかどうかは分からないが、少なくとも今は、目の前にいる化け物に対して有効な人間ではない。そして、アスカのことも別に頼りにはならない。彼女はたしかにキリコの仕事を優しくアシストしてくれる先輩ではある。が、このタイミングで助けになる能力があるのかといえば、別になさそうである。つまり、今ここでは幽霊の姿が見えている萩原キリコだけが命綱なのだった。

 どうしよう、と彼女は思った。

 幽霊は眼球をギョロギョロと動かしてキリコ、アスカ、キッドAさんの三人を見ると再びキリコに拳を振り下ろしてきた。キリコは咄嗟に両腕を上げてガードしようとするが、言うまでもなく彼女に格闘技などの経験はほとんどない(保健体育の授業で空手と剣道と弓道をほんの少し習っただけである)。見様見真似の防御は、あまりに心もとない。化け物の攻撃を受けると、バキバキ、と骨のきしむような音がして、キリコは痛みに歯をくいしばりながら目をつぶってしまう。幽霊はそんな彼女の右腕を力いっぱいに握りしめると、ブン、と体ごと乱暴に放り投げた。

 宙を舞ったキリコは寝室の奥の奥まで転がると、黄ばんだカーテンの閉まっている大きな窓へ身体を強打する。窓にヒビが入る。

「ッ、痛、ああああ――!」

《ぐじゅる、ぐじゅる、ぐじゅるるるるるるるるる!》

 化け物は一歩、また一歩とキリコに近づきながら首をかしげていた。ぽっかりと空いた暗闇のような瞳のなかに、疑念が渦巻いている様子である。

「ひ、ひい、いいいいっ!」

《おまえ、なんで――!?》

 化け物は、唐突に言葉を発してきた。

《おまえ、なんで、あたしが見せようとする前に、あたしのことが見えた? なんで、あたしの手に触れられても、呪われない? なんで、こんなに、こんなに殴ってるのに――簡単に死なないんだ?》

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