ユーレイバトル:非モテ陰キャぼっちコミュ障の根暗女、最強の悪霊に溺愛されて一級霊能者を目指します
籠原スナヲ
第01話 萩原キリコ その1
※※※※
高校三年生の夏、全国統一模試の会場。萩原キリコは意識を失って倒れるとそのまま救急車に運ばれ、板橋区にある大学病院で療養を余儀なくされた。どんな病気か、詳しく調べるためである。だがどんな検査を受けても、彼女の身体には大きな異状は見られなかった。結果としてキリコは、なにか精神的なストレスのせいで体調を崩してしまったのだろうと結論するしかなかった。そしてそのストレスとは主に、彼女の家柄と関係があると言われた。薬品系大企業の代表取締役を務める父親に小さいころから跡継ぎを望まれ、睡眠時間さえ削るような勉強に追われてきた、その結果としてこうなってしまったのだと。
入院中、病室のベッド。萩原キリコは見舞いにきた父親からこう言われた。
「ごめんな、キリコ――キリコがどれだけ辛い思いをしてきたのか、父さんは分かってやれなかったな」
「え――?」
「会社はユイカに継がせることにしたからな。キリコはゆっくり休んでから、自分がしたいことを自由にしていいんだぞ?」
そう父親は言った。ユイカというのはキリコの三つ離れた妹である。
ああ、とうとうお父さんに見捨てられてしまったんだ、とキリコは思った。そして、自分が不甲斐ないせいで今度は妹のユイカに負担をかけてしまうんだ、と思った。
さて、萩原キリコは数週間の入院生活を追えて高校に戻ったが、クラスメイトたちの視線はとても冷ややかなものだった。もともと家柄が立派なこともあって無用な妬みというか嫉みみたいなものを買ってしまい、友だちと言える存在は小さいころからできなかった。それに加えて今の彼女は受験競争からドロップアウトした情けない「負け犬」だったから、そんなところに優しくしてくれる人もいなかった。ときどき同情をして話しかけてくれる女の子や男の子もいるにはいたのだが、それでキリコが救われるわけでもなかった。なにしろ彼女は実の父親に見捨てられたのだ。
「お前なんか死んでしまえばいいんだ」
深夜、キリコは洗面室の鏡に向かって呼びかけていた。左手首を握って。
「勉強もろくにできないクソバカ女っ、死ね、死ね、死ね、死ねっ――!」
キリコはただ、手首を握りながら涙を流していた。生まれてからずっと、自分なりの生きがいなど考えたこともない。両親の重すぎる期待に答えようとしてきた年月だけが自分の全てだった。そしてその期待に応えるだけの能力すら自分にはない。だからもうなんの役にも立たない。ただ生きているだけの存在でしかないんだ、と思った。
萩原キリコはそのまま大学受験に失敗した。試験会場に辿り着いて席に着くたび、理由の分からない吐き気と目眩・頭痛が彼女を襲い、解答用紙に向かって鉛筆を走らせることすらできなかった。そうして口もとを押さえながら会場を去っていく。だから、第一志望のT大どころかK大、N大にも受かることはできず、高校卒業時には彼女はなんの進学先もない自由人になっていた。皆が大学サークルの新入生歓迎会で盛り上がっている間に、キリコは仕方なしに日雇いのアルバイトで時間を潰した。求人サイトを見て、未経験・未成年でも雇ってくれるところで。
そんな彼女の在りさまを助けてくれる人は、この世のどこにもいなかった。だって、どんな風に助ければいい?
やがて彼女は自分にとって働きやすい職場として、超常現象やオカルトを扱う雑誌『ワンダーワールド』などと連携している弱小の編集社『クロノスタシス』の編集事務を見つけることになった。幽霊、妖怪、怪談、都市伝説、呪術、法術、スピリチュアリズムその他もろもろに関する胡散くさいゴシップやジンクスを収集して記事にする会社である。もともとその手の話題が好きというわけでもなかったし、給料も高くはないが、最初から週五日で働かせてもらえるところで、家から離れていて知り合いに遭遇する心配がない職場を探していた彼女にとってはなかなかの好条件だった。
これは、そういう少女の物語だ。
もちろん萩原キリコは世界でいちばん不幸な少女というわけではない。受験の世界から落ちこぼれてフリーターになったと要約すれば、多少は可哀想ではあるが、現代社会ではごくありふれた話である。いつか経済的な苦境に立たされるかもしれないが、今のところ衣食住は太すぎるほどに太い実家で保証されているし、実の両親から愛情を全く受け取っていないというわけでもない。妹との仲が険悪になったという話もない。見方を変えれば、どちらかといえば彼女は恵まれているほうかもしれない。少なくとも貧困に喘いでいるどこかの国の子供たちに比べれば。
だが、キリコの主観ではそうではない。当時の彼女は、自分のことを自分の力で肯定することができずにいた。自分が生きていることが誰かのためになっている、そういう実感がないことにも苦しんでいた。今までは父親の期待に応えるために教科書を読んで、問題集を解いて、ノートを文字で埋めることで頭をからっぽにできたのに、そういう重労働からいきなり放り出されてしまうと、萩原キリコという人間は自分がなんのために生きているのか、ゼロから考えなくてはいけなくなったのだ。そしてそれは、ある意味では死の崖っぷちに立たされるよりも辛いことだ。
先に物語の結末を話してしまおう。萩原キリコは不調が治って良い大学に入り、父親の望みどおりに会社の跡継ぎになることができた――という話にはならない。そんなに都合のいいことはない。華やかな表舞台で名を残すのは妹のユイカのほうである。ユイカは特に問題なく受験競争を勝ち進み、まずは父親が経営する企業ではなく、その子会社に勤めて大きな業績を上げる。そして薬学研究の部門でいくつかの結果を残してから後継者に選ばれ、父親の代よりも会社を成長させていった。だから、社史に名前が載ったのも、テレビで取材を受けて芸能人のような扱いを受けたのもユイカのほうである。
代わりに、キリコは全く違う物語を生きることになった。それは表向きの歴史には名前の残らない物語であり、世間に広く知れ渡ることもなければ、人気者になってチヤホヤされることもないような物語である。それは、ひどく地味で大人しげなお話ということになるのかもしれない。だが、たとえ目立たない役割であっても、隠れがちな仕事であっても、誰かがやらなければならないタイプの物事というものは存在する。ほとんど全ての人がそのことを忘れてしまったとしても、たしかにそこにあった、と覚えている人がいる限り語られ続けていく物語が。
皆の記憶から消えてしまったのであれば、他ならぬこの《僕》が語ろうと思う。
これはひとりの少女が自分の足で立ち上がって歩き、世界を救った物語である。
自分の腕で自分を抱きしめ尽くすことは誰にもできない。人は誰かを抱きしめ、誰かから抱きしめられることでしか苦しみから救われないし、心の深いところに刻まれた傷を癒やすこともできない。キリコは自分を助けるために、誰かを助けるための力を求めた。それだけの話だと言えば、誰にでも当てはまるようなことではある。だが、だからこそ語る意味もあるというものではないだろうか。かつてそういう少女がいたのだ、ということが別の誰かの勇気になる可能性があるならば。
さて、さっそく始めることにしよう。ただし、皆には、その前にひとつだけ断っておきたいことがある。
この物語には、本物の「幽霊」が出てくる。
※※※※
豊島区にある編集社『クロノスタシス』の定常勤務時間は午前十時から午後七時。萩原キリコはいつものように出勤をしてドアの鍵を開けて入ると、社用PCを立ち上げて、来週までに校了しなければならない記事の誤字脱字確認を始めた。それから数時間ほど遅れて経営者兼編集長の月岡さんがアクビをしながら会社に出てきて、次にアシスタントの田中アスカが化粧を直しつつオフィスに転がり込んでくる。合同会社とは言うものの、実のところ『クロノスタシス』はたった男女三人だけの小さなプロダクションなのである。そして、キリコはそんな会社で編集事務・電話対応・その他の雑用諸々をこなすアルバイトだった。
「ねえねえ、キリコちゃん」
と月岡さんが話しかけてきた。
「今日、アスカちゃんといっしょに取材に行ってみない?」
「えっ」
キリコは思わず顔を上げて、キーボードから手を離した。採用されてからずっと、彼女はオフィスの外で働いたことなどなかった。それが、いきなり取材というのはどういうことなのだろうか。
「いやいや、キリコちゃんもそろそろ仕事に慣れてきたころだと思うし、こういうのも良い経験になるかなと思ってさあ」
「わ、わた、私がですかっ?」
「そうだよ? 実はインターネットでいま話題の心霊スポットがあってねえ、その場所を調べようとした人間とか、実際に行ってみた人間とかが、ことごとくトラブルに遭っているみたいなんだよ。つまり、霊障ってやつ。具合が悪くなって病院に送られたり、身内や本人に不慮の事故が起きたり、場合によっては行方が分からなくなってどうすればいいのか分からないってのもあるんだ」
月岡さんは腕を組んで得意げに話していた。
「これは明らかに本物の幽霊の仕業なんじゃないかと俺は思う。いや、本物かどうかはここでは実際問題じゃない。それがメチャクチャ盛り上がっていて、みんなが記事を読んでくれそうだってことが大事なんだ。そこで、ここ最近ユーチューブとかで人気を集めている霊能者のキッドAさんっていう人がいてね、彼と一緒にその心霊スポットを巡って本当に幽霊がいるのかどうか確かめてみようっていう企画が盛り上がってる。面白そうだろ? いつもどおりアスカちゃんだけ取材で付き合っても、まあいいんだけど、個人的にはこんなビジネスチャンスってそうそうないぜ。そこでキリコちゃんなんだよ!」
「私――わ、わた、私でもっ、なんの役にも立たないですよ?」
「なに言ってるんだよ~!?」
月岡さんは上機嫌そうに両手をパン! と叩いた。
「キリコちゃん! 採用面接のときに俺はちゃんと聞いたことがあるぜ!? 君は良い家柄のもとに生まれておいて、原因不明の不調で受験をドロップアウト、そのせいで今はこんな俺たちみたいなボンクラが経営しているクソザコ編集社で働いている、まあまあしょうもないフリーターってわけだ! 自分で言ってて悲しくなってきたなあ! でも、その病気がもしも幽霊の仕業だったとしたらどうする? そうさ、そうだ、もしかしたら君には霊感ってやつがあるかもしれない! こういう可哀想な女の子のエピソードを収集するのも俺たちの仕事になるんだ! だったら診てもらおうじゃないか!」
「は、はあ、な、なるほど――!」
「だろう!? そんなわけで、キリコちゃん、君はアスカちゃんといっしょにウルトラ霊能者のキッドAさんといっしょに心霊スポットを訪れるべきだ!」
そうして、萩原キリコは田中アスカとともにオフィスを出て、駐車場にある車(スズキのジムニーシエラ・キネティックイエロー2トーンルーフ)に乗り込むと、「キッドA」という男性が待っている隣駅まで同行することになった。キリコはまだ自動車運転免許を取得していないので助手席に座り、アスカのほうがハンドルを握ることになる。カーナビ機を起動して目的地を指定してから、ふたりは丁寧にシートベルトをしめて荷物や取材用具を後部座席に仕舞い込んだ。
「なんか流したい音楽とかある?」
というアスカの言葉にキリコが首をふるふると振ると、
「ああそう?」
とアスカは微笑んでからスマホ(ピクセル8)をポチポチといじった。スマホをカーナビ機にブルートゥース接続して、自分の好きな音楽を流すためである。すぐにMorgan Wallenの『Last Night』という曲が流れてきた。
「それにしてもさあ」
とアスカは言った。
「月岡さんは明るくておしゃべりなのはいいんだけど、ちょっと自虐的というか、その自虐が行きすぎてて自分以外の人のことも不用意に傷つけちゃうというか、そういうところはよくないなあと思うんだよ」
「そ、そう思いますか?」
キリコが相槌を打つと、アスカは唇をきゅっとした。
「もちろん悪い人じゃないんだけどね。今回の案件で、キリコちゃんを取材に付き合わせようと思ったのもきっと色々と心配してるからだと思う。そりゃ、たしかにここは稼ぎも少ない地味ィなプロダクションではあるし。未成年で、なんの経験もないまま入社してきた君に事情があることくらいは分かってるよ。でも、それで自分の職場を悪くサゲようとするあまりにキリコちゃんの古傷を抉っちゃうのはナシでしょ? 家柄のこととか受験のこととかさあ。キリコちゃん、聞いててイヤな気にならなかった? だって、そんなの自分がいちばん病んでるところじゃん?」
「え、えっと、私は――」
「ま、アタシも人のことを言えるわけじゃないんだけどねえ――」
アスカはそう言いながらハンドルを回して、交差点を曲がった。
田中アスカは短期大学の二年生で、今は少し遠い親戚である月岡さんが切り盛りしている編集社『クロノスタシス』で働きながら就職活動を続けている。が、その成果はどうやら誰の目から見ても芳しくないようだった。どこにエントリーシートを出して面接に出席してみてもまず履歴書の質で足切りを食らってしまうらしい。別に日本社会の景気が良いとか悪いとかは関係がないようだ。もともと見ず知らずの人間を雇うにあたって、分かりやすい肩書きである学歴とか資格とかを持っていないというのは、それだけで不利になってもおかしくないことなのだ。
「ままならないもんよ、本当にねえ。なんか色んな会社に『お前なんか要らない』って言われてるみたいで滅入ってくるよ。こういうことがあると自分が生きる意味ってなんなんだろうとか思っちゃうよね」
「そ、そうですね――」
「キリコちゃんはどうしてなの? この会社に入ったのって。やっぱり、もともとオカルトとかジンクスに興味があったり?」
「いえ、私はその、別にそういうのはないです――」
キリコは答えながら、バックミラー越しに映るアスカの顔を見つめた。彼女は綺麗な顔立ちをしているなと思う。具体的に目鼻のパーツが良いとか全体のバランスが整っているとかもあるし、姿勢がピンとしているところが特にそうだが、人間として自信を持って生きているというのが分かるような表情をしている。前髪をスッパリと斜めに切って後ろ側でまとめているヘアスタイルに、ピアスとチョーカーを光らせて、ディープパープルのリップがよく似合っていると感じた。
「ま、今どき幽霊を信じるとか普通はないよねえ?」
そう田中アスカは言った。
※※※※
二人はそのまま池袋西口に辿り着くとそのあたりの駐車場に車を停めて、カフェで待機していた霊能者ユーチューバー「キッドA」さんと合流した。いきなり話題の心霊スポットに行く前に、まずは個室居酒屋かどこかで単独インタビューをする段取りになっている。喫茶店から出てきたキッドAさんはどことなく落ち着きのない様子で、萩原キリコと田中アスカの二人を見つけると、ゆらゆらと片手を揺らしながら、穏やかな表情で近づいてきた。そうしてお互いに頭を下げると、昼から営業していて近くにある(ついでに喫煙可である)大衆居酒屋『銀の蔵』に入った。
キッドAさんはタバコ(ハイライトのメンソール)に火をつけ、気持ちよさそうに煙を吐きながらキリコとアスカとのインタビューに応じてくれた。
「俺は小さい頃から幽霊を見ることができたんだよ」
とキッドAさんは言った。
「だが、誰も信じちゃくれなかった。今はユーチューバーという形で色んな人に自分の声を聞いてもらえるけど、でも、本当に俺の能力を信じてくれている人はそこまでいないんじゃないかと思ってるね。少なくともコメント数や『いいね』の数やチャンネル登録者数よりは少ないんじゃない?」
「そんなキッドAさんから見て今回の件、どう思いますかあ?」
田中アスカがそう訊くのを横で耳にしながら、萩原キリコは必死に今回の心霊スポットについて思い出しながらメモを取っていた。それは、アスカが運転する車のなかでタブレットを操作しながら調べたことも含んでいる。
これから行くのは、練馬区にある一軒家である。調べによると数年前に、とある女が自分の夫に殴られ、ナイフで刺されて首を絞められながら絶命した。動機は未だによく分かっていない。ただ、夫が妻の浮気だか不倫だかを疑い、問い詰めながらドメスティックバイオレンスを働いていたのは確かなようである。夫は妻を殺害したあとに都外の山奥にて死体で発見され、以降、この家に住んだりこの家を訪れてなにかを調べようとした人間は、みな例外なく霊障に遭っているという話であった。つまり、病気になったり事故に遭ったり行方不明になって周囲を騒がせたり、なのである。
「これは本当に危険な案件だと思うよ?」
キッドAさんはテーブルの上で腕を組んだ。
「正直なところ皆さんといっしょにそこに行くのは気が引ける。だって、本当にヤバいところだと言われているからね。俺としても、同業の者が挑戦して結局トラブルに見舞われているという話しか聞かないんだよ。だから本当は断りたいんだぜ」
そう言うと彼はアスカとキリコを見つめた。
「それでもいいなら、分かったよ、俺もそこに行ってみようじゃないか」
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